座頭市2003年北野武はなぜ時代劇で暴力を描いたのか
2003年、東京の空に六本木ヒルズが完成した。森ビルが掲げた「文化都心」という言葉は輝いていたが、その光が強くなるほど、地方や都市周縁の影は濃くなっていった。
バブル崩壊から10年以上が経過し、小泉構造改革のもとで規制緩和が進み、非正規雇用が社会の中で大きな存在感を持つようになり、フリーターという言葉が定着し、若者の未来は不安定なものとして意識され始めていた。
かつて機能していたはずのコミュニティは各地で静かに崩壊しつつあり、少年犯罪をめぐる報道が相次ぎ、漠然とした治安不安が社会全体を覆っていた。
光の都市と影の地方、その分離が加速度的に進んだのがこの年だった。
同じ年、アメリカを中心とする有志連合がイラクに侵攻し、世界情勢そのものが暴力と不安の
ニュースで塗り替えられていた。国内でも自衛隊のイラク派遣をめぐる議論が過熱し、遠い戦争と身近な生活不安が同時に人々の意識に流れ込んでいた。
派手な都市開発のニュースと、地方や下層で進行する静かな崩壊のニュースが、同じテレビ画面の中で交互に流れる奇妙な一年でもあった。
同じ2003年には、東京を舞台にした
『ロスト・イン・トランスレーション』が公開され、海外の視線から見た日本の孤独が描かれ、
また海外ではタランティーノが日本の時代劇や
剣戟映画へのオマージュを込めた『キル・ビル』を世に送り出している。
奇しくも同じ年、日本という国とその映像文化そのものが、内側からも外側からも改めて見つめ直される時期にあったと言えるかもしれない。
北野武はこの影の側を、時代劇という迂回路を使って描こうとした、と語られることが多い。
ただし北野武自身が2003年の地方問題を意識して座頭市を作ったと明言しているわけではなく、これはあくまで結果から逆算した一つの読みに
すぎない。
江戸時代という舞台を借りながら、そこに2003年の日本を重ね合わせて読むこともできる、
という程度の距離感でこの作品と向き合うのが
適切だろう。
北野映画では、
共同体の外側に立つ主人公が、長い静寂のあとに脈絡なく爆発する暴力を通して、その内部に潜む歪みを暴き出していく。
その暴力は様式美として消費されるものではなく、社会構造そのものの軋みとして観客に突きつけられる作家性であり、北野武は座頭市においてこの作家性を初めて本格的な時代劇へと移植した。
金髪碧眼という設定は単なる奇をてらった演出ではなく、北野武という作家自身の異物性をそのまま最大化する装置だったと考えるべきだろう。
血しぶきをCGで処理するという当時としては
実験的な手法も、暴力を様式化しながら同時に生々しさを消さないという、北野武らしい矛盾を体現していた。
そもそも座頭市というキャラクターに史実上の
モデルは存在しない。
完全なフィクションである。
ただし盲目の按摩や琵琶法師、座頭といった階層は実在しており、当道座と呼ばれる盲人の職能集団による互助組織がその土台になったとされる。その中に剣術を学んだ者がいたという説もあるが、確証は弱い。
つまり座頭市とは、実在の職能集団という薄い
史実の層の上に、勝新太郎という一人の俳優が
豪快さと色気で肉付けした虚構のヒーローだったのだ。
1962年に第一作が公開されて以降、シリーズは1989年までおよそ四半世紀にわたって作られ続け、勝新太郎自身が監督を兼ねる作品も生まれるほど、俳優個人の作家性と分かちがたく結びついたシリーズだった。
勝新版座頭市は、庶民的でユーモラスな按摩と
剣の達人というギャップを武器に、弱者の味方としてのヒーロー性を全面に出していた。
時代劇の定型に沿いながら、勝新自身のアドリブと存在感が物語を支配する、昭和の大衆娯楽の
完成形だった。
映画シリーズと並行してテレビドラマ版も長く
放送され、座頭市という名前は劇場を超えて、
お茶の間の記憶にも深く刻み込まれていった存在だったと言える。
ところが2003年の北野版は、その定型を根本から破壊する。
庶民性よりも静の異物性、ユーモアよりも暴力のリズムが前面に出てくる。
勝新の豪快さは北野武の無表情の暴力へと置き換えられ、座頭市は弱者の味方ではなく、停滞した地域社会を破壊する外部者として再定義された。勝新が人情と庶民と豪快さを体現していたとすれば、北野は静寂と暴力と異物性を体現している。同じ名前を持ちながら、両者はほとんど対極に位置するキャラクターだったと言っていい。
この転換を支えているのは、北野武が一貫して
用いてきた「間」の演出だ。台詞や説明を極力削ぎ落とし、長い沈黙とロングショットで人物同士の距離を提示したのち、ほぼ予告なしに暴力を炸裂させるという呼吸は、
『その男、凶暴につき』や『HANA-BI』から続く
作家的な文体そのものであり、座頭市はその文体を時代劇という異なる衣装に着せ替えた実験だったとも言える。
しかし北野版座頭市の本質は、
単に「時代劇を北野映画化した」ことにとどまらない。
勝新版座頭市が共同体の内側にいる弱者の味方として愛されたのに対し、北野版座頭市は共同体の外側から現れ、その共同体そのものを壊す存在として立ち上がる。
つまりこの映画がやってのけたのは、昭和の国民的ヒーローを、平成の孤独な異物へと変換する
ことだったのだ。
北野武が直接2003年の地方問題を描こうとしたのかどうかは分からない。
しかし結果として、この宿場町が抱える閉塞感は、当時の日本社会が抱えていた不安と奇妙な
ほど響き合っていた。
銀蔵一家は暴力装置として地域を支配し、
みかじめ料という形で住民から搾取を続ける。
扇屋は台頭する商人資本の象徴として、表向きは料亭を営みながら裏では銀蔵一家と結びつき、
金銭によって地域の秩序そのものを買い取ろうとする。
浪人源之助の没落は、かつての支配層であったはずの武士階級が経済的に追い詰められ、家族のために悪事に手を染めていく中間層崩壊の物語の
ようにも読め、芸者姉弟の悲劇は共同体崩壊の被害者そのものを体現しているように見える。
そこへ市という外部者が到来し、閉じた宿場町の秩序を暴力によって崩していく。
旅人が行き交い表向きは活気があるように見えるこの宿場町は、実際には限られた資源とみかじめ料の奪い合いによって支えられた閉鎖経済であり、当時の地方都市が抱えていたシャッター商店街や人口流出の問題と重ねて読むこともできる。
殺陣の構造もまた徹底して北野武的だ。
長い静寂ののちに一瞬で決着がつく殺陣は、
爆発的な暴力そのものというより、社会不安の
リズムをそのまま可視化したもののように見える。
市の刀は目にも留まらぬ速さで敵を斬り、
噴き出す血しぶきは誇張されたCGで処理される。
それはリアリズムを追求した表現ではなく、
むしろ暴力を一種の記号として提示する試みであり、観客はその不自然さゆえに現実の暴力に
ついて考えさせられる。
そして興味深いのは、その暴力のあとに訪れるのがタップダンスによる祝祭だという点だ。
宿場町の住民が一斉に踊り出すラストシーンは、人々のつながりが一時的に再構築される夢のような瞬間であり、しかし同時にそれが現実ではなく虚構であることを観客に突きつける。
2003年の日本社会で失われつつあった祭りというものを、逆説的な形で再生してみせたシーンであり、北野武自身が
「これは時代劇というフィクションだ」と
宣言しているようにも読める。
振付には現代的な要素が持ち込まれ、
下駄の音が打楽器のように鳴り響く演出は、
時代劇の枠組みの中に同時代のクラブカルチャーやストリートダンスの感覚を密輸するような試みでもあった。
観客はそこで初めて、それまで積み重ねられてきた暴力の緊張から解放され、映画そのものが虚構であることを強く意識させられる。
物語の内側にいた登場人物たちの悲劇と、その外側にいる観客の高揚感が同時に成立するという、北野武らしい冷めた祝祭がここに完成している。
俳優陣の布陣にも時代性が色濃く出ている。
ビートたけし自身が共同体になじまない存在としての気配と静の暴力を体現し、浅野忠信は平成的な影と中間層の没落を、夏川結衣は生活者としてのリアリズムを担う。
大楠道代の昭和の濃度、岸部一徳の昭和悪役と
しての系譜、柄本明の名脇役としてのリアリティが、たけしや浅野の平成的な透明感と交差し、
この作品全体に独特の時代の厚みを与えている。昭和の映画黄金期を知る俳優と、
平成のテレビドラマ文化で育った俳優が同じ画面に並ぶことで、座頭市は単なる時代劇の枠を
超え、日本の演技文化そのものの継承と断絶を
映し出す作品にもなっていた。
撮影は雪深い地方のセットを中心に行われ、
江戸時代の史実的な正確さよりも、抽象化された寓話的な空間を作ることが優先された。
宿場町のセットそのものが、実在するどこかの
町ではなく、日本中どこにでもあり得る停滞した地域社会の象徴として設計されていたのである。衣装や美術のトーンも派手な時代劇色を抑え、
土や埃にまみれたくすんだ色調で統一されており、そこに市の白装束と刀だけが異物として際立つよう計算されていた。
細部に至るまで、この映画が目指していたのは
絢爛な江戸絵巻ではなく、寓話としての停滞した日本の風景だったことがうかがえる。
こうして振り返ると、2003年の座頭市が文化史的に重要なのは、単に時代劇をアップデートしたからではない。
暴力を可視化することで社会不安そのものを映し出し、地方と周縁の停滞、中間層の没落、
社会秩序の崩壊という、当時の日本が抱えていた構造的な問題を、江戸時代という寓話の衣をまとわせて描き切ったからだ。
昭和と平成の俳優文化が交差するキャスティング、北野武の暴力美学の一つの完成形、
そしてヴェネチア国際映画祭での銀獅子賞という世界的評価。
海外の批評家たちは座頭市を娯楽時代劇として、あるいは残酷なアクション映画として消費した
一方、日本国内では同時代の格差社会への批評として読み解く視点も少しずつ育っていった。
公開から20年以上が経過したいまなお、
この作品が繰り返し語り直される理由は、
単なる娯楽性の高さだけでは説明がつかない。
座頭市シリーズの中で最も異端でありながら、
最も2003年という時代を正確に写し取った一本として、この作品はいまも読み解かれる価値を
持ち続けている。
六本木ヒルズには、たしかに未来があった。
しかし、その光の届かない場所では、共同体が
静かに崩れていた。
勝新太郎の座頭市が、昭和という時代が求めた「庶民の希望」だったとすれば、北野武の座頭市は、平成という時代が生んだ
「共同体の外側に立つ孤独な存在」だった。
『座頭市』が描いたのは江戸ではなかったのかもしれない。
2003年、
日本という国の影そのものだったと
読むこともできるのである。
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