『宇宙戦争』(2005)――9.11後の恐怖と家族の再生を描いたスピルバーグ
2005年6月29日にアメリカで公開された
スティーヴン・スピルバーグ監督『宇宙戦争』は、H.G.ウェルズが1898年に発表した同名小説を原作としながら、当時のアメリカ社会が抱えていた不安をそのまま映像化した作品だった。
原作は大英帝国が世界を侵略していた時代に
「もし自分たちが侵略される側になったらどうなるか」という逆転の視点で書かれた寓話であり、火星人は圧倒的な文明力で地球を蹂躙するが
最終的には地球の細菌によって滅びるという
結末を迎える。
この小説はこれまでにも
1953年にジョージ・パル製作でハリウッド映画化されており、当時の冷戦下における核戦争への不安と重ねて読まれる作品でもあった。
同じ原作が半世紀の間隔を置いて二度映画化され、そのたびに異なる恐怖と結びつけられてきたという事実自体が、
この物語の寓話としての強度を物語っている。
1898年の原作は帝国主義への批判として、
1953年版は核戦争への不安として、
そして2005年版はテロと国家不信の時代の物語として、それぞれの時代がもっとも恐れていた
ものを映し出す鏡になってきた。
スピルバーグ版はその半世紀後、原作の構造を2005年という時代に再び移植した。
原作では、侵略される対象は「文明」だった。
だが2005年版で崩れ落ちるのは、
「国家が自分たちを守ってくれる」という信頼そのものだった。
この一点の書き換えこそが、この映画をただの
リメイクではなく、9.11後のアメリカを映す鏡にしている。
9.11から4年が経過し、イラク戦争が泥沼化していた時期に、この映画は火星人の侵略という
SFの形を借りて、実際にはアメリカの心象風景
そのものを描いていた。
冒頭、雷とともに地面が割れてトリポッドが
立ち上がる場面は、日常が突然崩壊する恐怖を
体験させる演出であり、9.11の映像記憶を映画の文法に転写したものだと言える。
スピルバーグは手持ちカメラと長回しを多用し、群衆の混乱をニュース映像のように追うことで、観客を傍観者ではなく「目撃者」の位置に置いた。
破壊そのものを見せ場として描くのではなく、
破壊を目撃した瞬間の恐怖を体験させる構造こそが、この映画の最大の特徴だった。
灰が降り注ぐシーンでは、
燃える人体の灰が服に降りかかるという直接的な描写があり、これは9.11当時のマンハッタンを
想起させる場面として、公開当時から
一部の評論家によって言及されていた。
トリポッドの映像は基本的にCGIによって作られており、実写撮影とデジタル合成を組み合わせることで、当時としては最先端の技術と、
破壊の生々しさを両立させる映像づくりが行われていた。
この映画はスピルバーグにとって
『ジョーズ』『未知との遭遇』『E.T.』以来、
繰り返し扱ってきた
「郊外に暮らす家族と、理解を超えた脅威との遭遇」というテーマの延長線上にある作品でもあり、キャリアを通じて描き続けてきたモチーフが、ゼロ年代の不安を吸収する形で再び姿を現したとも言える。
実際、物語の中心に置かれているのも侵略そのものではなく、トム・クルーズ演じるレイという「ダメな父親」の再生である。
当時すでにアクションヒーローのイメージが
強かったトム・クルーズを、超人的な英雄では
なく不器用で頼りない父親役に起用したこと自体が、この映画のメッセージを補強していた。
レイは怪力や特殊な能力で家族を救うのではなく、逃げ続け、判断を誤り、それでも家族のそばにいようとし続ける、
不完全な父親として描かれている。
離婚し子どもたちと距離のあるレイは、
侵略という極限状況の中で娘レイチェルを守り、反抗的な息子ロビーと衝突しながらも向き合い、やがて離れていた家族が再び一つの場所に集まる。
ダコタ・ファニングが演じるレイチェルは、
終始悲鳴を上げ続ける存在として批判されることも多いが、彼女の恐怖の演技は観客の感情移入の窓口として機能しており、大人たちが状況を処理しようとする一方で、子どもの視点からは世界の崩壊がどれほど不条理に映るかを体現していた。中盤、
ティム・ロビンス演じるハーランとの地下室の
シークエンスは、映画全体の中でも異質な緊張感を持つ場面であり、外部の侵略者への恐怖だけでなく、極限状況における人間同士の狂気や不信という内側の恐怖をも描き出している。
ハーランは軍による反撃を信じ続け、
隠れ家から出て抵抗しようとするが、その姿は
理性を失いつつある個人の縮図として描かれる。
レイが生き延びるために下す選択は、
家族を守るという主題を、道徳的な葛藤を伴う
形で先鋭化させるものだった。
映画の中で軍隊はほとんど無力であり、
人々は自力で逃げるしかない。
この、国家が市民を守りきれないという設定が、原作の「文明の脆弱性」を21世紀の言葉に翻訳したものだと言える。
音響と音楽の面でも、この映画は恐怖の演出に
寄与している。
ジョン・ウィリアムズによるスコアは、
従来の彼の作品に見られるような高揚感のある
テーマ曲を避け、不協和音や低音の唸りを多用することで、観客に安心感を与えない構成になっている。
トリポッドが発する咆哮のようなサイレン音は、防空警報のイメージと結びつき、
聴覚の面からも恐怖を強化していた。
撮影はアメリカ各地の実在する街並みや
ハイウェイを舞台に行われており、見慣れた郊外の住宅地やハイウェイが次々と破壊されていく
光景は、遠い異世界の出来事ではなく、観客自身の生活圏が脅かされる感覚を強めている。
この構造は、同時期の日本社会とも共鳴する部分があった。
2005年は阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件からちょうど10年が経過した年であり、
日本社会もまた災害と不安の記憶を抱えながら「再生」というテーマに向き合っていた時期だった。
メディアが恐怖をリアルタイムで報じることが
日常化し、家族の再生を描くドラマが数多く作られていた日本の観客にとっても、『宇宙戦争』は
遠い国のSFというだけではなく、自分たちが
経験してきた災害や事件の記憶と重ね合わせて
観る余地を持った作品だった。
「国家や社会システムが機能不全に陥ったとき、人はどこに立ち返るのか」という問いは、
災害を繰り返し経験してきた社会にとって、
決して他人事のテーマではなかった。
映画の構造を整理すると、日常の崩壊から始まり、逃走と分断、地下室での狂気との遭遇、
家族の再生の兆し、そして自然の勝利による
静かな終焉という五段階を辿る。
これは原作の構造線をほぼそのまま踏襲しながら、各段階の意味を21世紀の心理に置き換えたものである。
対立の軸は、帝国対他者から、
「国家の庇護を失った個人」と正体の見えない
脅威へと転換している。
一方で終焉の構造だけは一貫しており、
細菌という自然の力によって侵略者が滅びるという結末は映画版でも変わらない。
文明がどれほど発展しても、
国家がどれほど強大であっても、
それを超える自然や生命の摂理には抗えないという構造が、100年以上の時を経ても
保たれている点は特筆に値する。
公開当時、この映画は興行的には成功を収め、
世界興行収入は約6億ドルに達した一方、
批評面では結末の急な収束について賛否が分かれた。
批評家の間では、
前半の圧倒的な緊張感と映像の完成度を評価する声が多かった一方で、
後半、特にティム・ロビンスとの地下室での
くだりが物語のテンポを崩しているという指摘や、侵略者があっけなく病原菌によって滅びる
展開が唐突すぎるという批判も少なくなかった。しかし、この唐突な終焉こそが、
人間の努力や英雄的行為によってではなく、
人知の及ばない自然の摂理によって危機が去るという、原作の思想を忠実に踏襲した結果でもある。
人間中心的な勝利の物語を意図的に拒否した点に、スピルバーグなりの批評性を読み取ることもできる。
侵略者の造形についても、分かりやすい悪意や
征服欲を持つ存在としてではなく、人間の理解の枠組みそのものを拒絶する不気味な他者として
描かれた点は、理由の分からない暴力への恐怖感覚と重なるものであり、明確な動機を持たない
脅威こそがゼロ年代的な恐怖の形であったことを物語っている。
原作が「文明の脆弱性」を描いた寓話だったのに対し、2005年の映画版は、
それを「国家の脆弱性」へと置き換えた。
そして国家による庇護が失われたとき、
最後に残るものとして描かれるのが家族だった。だから『宇宙戦争』は、
単なる侵略SFではない。
国家が揺らぎ、
日常が崩壊したとき、
人間は何を頼りに生き延びるのか。
その問いに対して、
スピルバーグは英雄でも軍隊でもなく、
一組の家族を置いたのである。
1898年の原作が
帝国という巨大なシステムへの懐疑から生まれ、1953年版が核という見えない科学の脅威を
映し、2005年版が国家という信頼の枠組み
そのものの崩壊を描いたことを踏まえると、
この物語が百年以上にわたって形を変えながら
語り継がれてきたのは、それが単なる侵略の物語ではなく、
「人間が何によって守られていると信じてきたか」を問い直す寓話だったからだと言える。
国家が守ってくれるという神話が崩れた時代に、『宇宙戦争』は
「それでも家族を守ろうとする一人の人間」を描いた。
そこに、
この映画が2005年という時代に放った
最大の意味がある。
国家は守れない。
英雄も救えない。
最後に残るのは、家族と自然だった。
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