震える指先で守り抜いた、色褪せない「桃色の誓い」
世界には、とうに零れ落ちていなければならないのに、必死にそこに留まっているものがある。 たとえば、雨に打たれ、縁(ふち)からゆっくりと朽ち始めながらも、背筋を伸ばして咲き誇る一輪のバラのように。 それは、誰かが残した「祈り」の成れの果てかもしれない。 40歳、代わり映えのしない日常の中で、私はその「意地」のような美しさに、大切な何かを突きつけられることになった。
私は自他共に認める「ポンコツ」なサラリーマンだ。 営業成績は常に下から数えた方が早く、会議では的外れな発言をして上司を沈黙させる。家庭に帰れば、二人の息子には「パパ、また靴下脱ぎっぱなし!」と叱られ、妻の千恵には「もう、期待してないからいいわよ」と苦笑いされる始末だ。
40歳。人生の折り返し地点を過ぎて、私は自分のことを「枯れかけた花」だと思っていた。華やかな盛りは過ぎ、あとはゆっくりと地面に落ちて、土に還るのを待つだけの存在。そんな諦念が、私の背中を少しずつ丸くさせていた。
そんな私が、毎日の通勤路で必ず足を止める場所がある。 古い住宅街の角にある、手入れの行き届かない空き家の庭。そこに、一輪だけ、場違いなほど鮮やかなピンク色のバラが咲いていた。
そのバラは、お世辞にも「満開の美しさ」とは言えなかった。花弁の端は茶色く変色し、雨の重みに耐えかねて首を垂れそうになっている。それでも、そのバラは散ることを拒んでいた。まるで、何かが届くのを、あるいは誰かが来るのを、その場所でじっと待ち続けているかのように、震える指先で空を掴んでいるように見えた。
「まだ、咲いてるのか……」
私は独り言を漏らした。昨日も、一昨日も、そのバラは同じ姿でそこにいた。朽ちゆく運命を必死で食い止め、最後の色を振り絞って咲いている。その姿が、なぜか私の胸の奥を、チリチリと焼くような感覚にさせた。
その夜、私は千恵とリビングで遅い夕食を摂っていた。 息子たちはすでに寝静まり、テレビの音だけが虚しく響いている。ふと、私は昼間に見たバラの話を切り出した。
「あのさ、角の空き家の庭にバラが咲いてるんだよ。もうボロボロなのに、全然散らないんだ。なんだか執念深いっていうか……見てると、こっちまで息が詰まりそうになるんだよね」
箸を動かしていた千恵の手が、ぴたりと止まった。 彼女は顔を上げず、静かな、それでいて底に鋭い熱を孕んだ声で言った。
「……あなた、本当に忘れちゃったの?」
「え? 何を?」
千恵は深い溜息をつき、食器棚の奥から古びた小さな木箱を取り出してきた。それは、私たちがこの街に引っ越してきたばかりの頃に使っていた、大切なものを仕舞うための箱だった。 中には、一枚の古ぼけた写真が入っていた。
写真の中で、若かりし頃の私と千恵が、まだ赤ん坊だった長女を抱いて笑っている。その背景には、今よりもずっと背が低く、しかし溢れんばかりのピンク色の花をつけたバラの木が写っていた。
「10年前よ。私たちがここへ越してきて、理子を……あの子を失った、あの春のこと」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。 脳の奥底に封印していた記憶が、濁流のように溢れ出してきた。
そうだ。私たちには、二人の息子の前に、娘がいた。 理子(りこ)。春の陽だまりのような笑顔を見せてくれた、わずか一歳の命。 あの子が急な病で旅立った時、私は絶望の淵にいた。仕事も手につかず、ただただ自分を責め、家族を顧みる余裕もなかった。 そんな時、庭に植えたばかりのバラの苗を前にして、私は千恵に、ある「約束」をしたのだ。
「どんなにボロボロになっても、俺たちだけは、理子がいたことを忘れずに、綺麗に生きていこう」
そう言ったのは、他でもない私だった。 「あの子が見守ってくれるこの家で、俺たちが笑っていられるように。このバラが毎年咲くたびに、あの子を思い出して、また一年頑張ろう。もし俺がダメになりそうになったら、このバラを見て思い出すから。約束だ」
記憶の中の私は、千恵の手を強く握りしめていた。 しかし、現実はどうだ。 日々の忙しさに追われ、二人の息子が生まれ、育児と住宅ローンと上司の小言に忙殺される中で、私はその約束を、理子という存在さえも、心の隅に追いやってしまっていた。
「ポンコツだから仕方ない」「普通に生きていくだけで精一杯なんだ」と自分に言い訳をし、適当に日々をやり過ごし、いつの間にか、心まで枯れ果てさせていたのは、私の方だった。
「あのバラね、実はお隣さんが家を取り壊して老人ホームに入るからって、庭木を全部処分しようとしてたの。でも……」 千恵の声が震え始める。 「あのバラだけは、どうしても抜かないでって私が頼んだの。あなたがいつか、あの子との約束を思い出すまで、あの子の身代わりみたいに咲き続けてほしいって。お隣さんもね、『このバラは不思議だ、水もやっていないのに、散るのを嫌がっているみたいだ』って、ずっとそのままにしてくれたのよ。もうあの家、誰も住んでいないのに……」
私は絶句した。 私が「執念深い」と笑ったあのバラの姿は、忘れ去られた約束を守り続け、私を待ち続けていた、私の「良心」そのものだったのだ。 朽ちかけながらも、必死でその形を保っていたのは、私が再び前を向くための時間を、あの子が、理子が稼いでくれていたからではないか。
私は、たまらず家を飛び出した。 夜の帳が下りた住宅街を、40歳の男が全力で走る。重い体を引きずり、肺が焼けるような痛みに耐えながら、かつての約束の場所へ。
角の家の前に辿り着くと、街灯の下で、あのバラが静かに佇んでいた。 近くで見ると、それは昼間に見た時よりもずっと、今にも崩れ落ちそうなほど危うい姿だった。花弁は剥がれかけ、色は褪せ、生命の灯火が消えかかっている。 それでも、バラは立っていた。 自分自身の重みに耐え、風に抗い、たった一人で私を待っていた。
「……ごめんな。理子。パパ、最低だったな」
私は地面に膝をつき、泥だらけの手で、その細い茎をそっと支えた。 バラの棘が指に刺さり、小さな痛みと一滴の血が滲む。その痛みが、冷え切っていた私の心を熱くさせた。
ボロボロになってもいい。不格好でもいい。 大切なのは、完璧に咲き続けることではなく、誰かのために「そこに在り続ける」ことなのだ。 私は自分の不甲斐なさに、そして、あの子の深い愛情に、声を上げて泣いた。 街灯の下、40歳のポンコツな男が、枯れかけたバラを抱きしめるようにして、子供のように泣きじゃくった。
翌朝、私は久しぶりにスーツのシワを丁寧に伸ばし、鏡に向かった。 目の周りは少し腫れているが、表情には久しく忘れていた力が宿っていた。
玄関を出ると、千恵が二人の息子を連れて待っていた。 「パパ、今日はお仕事頑張るの?」 長男が不思議そうに尋ねる。 「ああ。パパはポンコツだけどさ、守らなきゃいけない約束があるんだ」
私は千恵の目を見た。彼女は優しく微笑み、私のネクタイを整えてくれた。 「行ってらっしゃい。あのバラ……今朝、ようやく一枚、花びらが落ちたわよ」
役目を終えたかのように、バラは静かに眠りにつこうとしているのだ。 でも、悲しくはなかった。その一輪が土に還り、また来年、新しい芽を吹く。その循環の中に、理子は今も、そしてこれからも生き続ける。
駅へ向かう道すがら、私はもう一度だけ、角の家の庭を見た。 風が吹き抜け、バラの花びらが舞った。 それは、ひらひらと私の肩に降り注ぎ、まるであの子が「もう大丈夫だよ」と笑いながら、小さな手で私を押し出してくれたような気がした。
私は一歩、強く地面を踏みしめた。 朽ちゆくことを恐れる必要はない。 心の中に消えないピンク色の花が咲いている限り、人は何度でも、泥の中から立ち上がれるのだから。
今夜、帰ったら久しぶりに千恵と、理子の話をしよう。 あの子が好きだった、桃色の空の話を。
あとがき
人生の折り返し地点を過ぎると、若さゆえの輝きは失われ、誰もがどこかしら「朽ち」を感じ始めます。しかし、写真のバラが教えてくれたのは、満開の美しさよりも、ボロボロになっても「そこに在り続ける」意志の尊さでした。失ったものは消えるのではなく、私たちの背中を押し続ける存在に変わる。理子ちゃんという存在が、家族の絆を再び結び直す光になるよう、祈りを込めて執筆しました。
皆様にも忘れたいこと、忘れてはいけないこと
ありませんか?
