その七億円は、いつからみんなの話になったのか
6月30日、サマージャンボ宝くじが発売された。
職場で同僚と、宝くじの話になった。

僕は宝くじを買う側の人だ。
逆に同僚は、宝くじを買わない側の人。
これまでも買ったことがないらしい。
僕は、それを少し珍しいなと思った。
宝くじを買わない人が珍しい、というより、これまで一度も買ったことがないというのが僕には少し珍しく感じられた。
そこから、もし当たったら周りに言うか、という話になった。
僕も同僚も、そこは一致した。
言わない。
高額当選したことを周りに言っても、あまりいいことはなさそうだった。
たかられる。
知人が増える。
親戚が増える。
変な投資話が来る。
奢ってと言われる。
困っている話を持ち込まれる。
だいたい想像できる。
なら、言わない方がいい。
言わなければ、少なくともその手の面倒は避けられる。
ただし、これは「バレないなら」という条件付きでもある。
生まれ育った場所に住み続けていて、古くからの知人とよく会うなら、生活の変化には気づかれやすい。
急に仕事を辞める。
急に車が変わる。
急に家を買う。
急に余裕が出る。
急に金の心配をしなくなる。
そういう変化は、たぶん周囲に漏れる。
逆に、故郷を離れていて、人との距離感もある程度できているなら、気づかれにくいかもしれない。
そんな話をしているうちに、金額そのものよりも、当たった人がどんな環境にいるかの方が大きいのかもしれない、という話にもなった。
そもそも、宝くじ程度の金額で周囲からの見られ方が変わる環境にいるかどうかも大きい。
一億、二億どころか、前後賞まで合わせれば七億円。
それが人生を変える金額になる人たちの中で当たったと言うのと、七億円を資産の一部として扱える人たちの中で言うのとでは、意味がかなり違う。
金額そのものより、その人がいる世界との差分が大きいのだと思う。
ここまでは、わりと普通の話だった。
でも、話しているうちに、少しだけ逆のことも思った。
いっそ高額当選したことを公言してしまえば、人間関係のリトマス試験紙になるのではないか。
当選を知った途端に近づいてくる人。
急に昔の関係を持ち出してくる人。
普段は距離を置いていたのに、金の情報を得た途端に戻ってくる人。
こちらの余裕を、自分の取り分みたいに見てくる人。
そういう人たちを、この際きっちり仕分けできるのではないか。
一瞬、そんなことも考えた。
宝くじに当たったら人の本性が見える、という話はよく聞く。
金を持った途端に人が寄ってくる。
優しかった人が、急に要求してくる。
昔の知人が、久しぶりに連絡してくる。
親戚が増える。
そういう話を聞くと、たしかに「本性が見えた」と言いたくなる。
でも
それは本当に、本性なのだろうか。
金を知った瞬間に、相手の中に隠れていたものが出てきた。
そう考えると分かりやすい。
もしかすると、人が急に変わったのではなく、関係の配置が変わっただけなのかもしれない。
昨日までの「同僚」「親戚」「友人」「昔の知人」が、高額当選を知った瞬間に、別の意味を持ち始める。
頼れる相手。
奢ってくれるかもしれない相手。
助けてくれるべき相手。
余裕があるはずの相手。
隠し事をしている相手。
相手が急に悪人になったというより、金という新しい変数が関係の中に入ったことで、こちらの見え方が変わる。
人が変わったのではなく、関係が組み替えられた。
たぶん、そういうことなのだと思う。
では、なぜ金が入っただけで関係が組み替えられるのか。
たぶん、宝くじの金には説明がないからだ。
働いて稼いだ金ではない。
事業で積み上げた金でもない。
投資でリスクを取った結果でもない。
昨日まで普通に働いていた人に、ある日突然、大きな金が入る。
しかも「宝くじに当たった」という話は、あまりにも分かりやすい。
昇進した。
起業が成功した。
長年の投資が実った。
そういう話には、まだ物語がある。
頑張った。
能力があった。
続けてきた。
リスクを取った。
もちろん、そういう金にも似た圧力はかかるのだと思う。
高収入になれば、周囲の見方は変わる。
事業で成功しても、親戚や知人から期待されることはある。
投資で増えた金にも、「余裕があるなら」という目は向けられる。
ただ、宝くじはそこが少し極端だ。
努力や能力や積み上げの物語をほとんど挟まずに、ある日突然、大きな金が入る。
だから、周囲が勝手に物語を入れやすい。
宝くじには、努力の物語がない。
積み上げの物語がない。
正当化の物語がない。
ただ、当たった。
そこに空白がある。
そして、空白があると、人は勝手に物語を入れ始める。
運で得た金やん。
少しくらいええやん。
家族なんやから。
昔からの仲やん。
困っている人を助けたら。
どうせ自分で稼いだ金ちゃうやん。
法律上は、もちろん本人のものだ。
でも感覚の上では、少し違う。
宝くじで得た金は、周囲から見た時に、所有権が少し軽く見積もられやすいのかもしれない。
給料なら手を出しにくい。
事業で稼いだ金にも、その人が稼いだという感じがある。
でも宝くじは、偶然だ。
偶然得たものだから、本人だけのものと見なされにくい。
それは、本当はかなり変な話だ。
当たったのは本人である。
買ったのも本人である。
受け取る権利があるのも本人である。
それなのに、周囲の頭の中では、少しずつ「みんなの話」になっていく。
誰に言うのか。
誰に渡すのか。
親にはどうするのか。
兄弟にはどうするのか。
仕事は辞めるのか。
困っている人を助けるのか。
寄付はするのか。
本来は、本人が決めることだ。
なのに、知られた瞬間、その金の使い道がどこか公共案件みたいになる。
その七億円は、いつからみんなの話になったのか。

ここが、たぶん一番気持ち悪いところだと思う。
金を取られることだけが怖いのではない。
たかられることだけが怖いのでもない。
自分のもののはずなのに、なぜか説明する側に回される。
出さない理由。
言わなかった理由。
助けない理由。
仕事を辞める理由。
仕事を続ける理由。
生活を変える理由。
生活を変えない理由。
どちらを選んでも、説明を求められる。
節約すれば、ケチと言われるかもしれない。
使えば、調子に乗ったと言われるかもしれない。
働けば、何のために働いているのかと言われるかもしれない。
辞めれば、やっぱり金かと言われるかもしれない。
何をしても、宝くじに当たった人として読まれる。
そう考えると、高額当選を公言して人間関係のリトマス試験紙にする、という発想は、やっぱり少し危うい。
一瞬は、ありかもしれないと思った。
当選を知った途端に近づいてくる人を見ればいい。
こちらが断った時に不機嫌になる人を見ればいい。
距離を詰めてくる人を、そこで仕分ければいい。
でも、すぐに思い直した。
僕はそもそも、対人関係のコストをなるべく避けたい側の人間だ。
それなのに、高額当選を公言して、わざわざ人間関係を揺らしにいく。
これは、かなり逆張りだと思った。
リトマス試験紙にはなるかもしれない。
でも、その試験紙を使うには、こちらも相当なコストを払うことになる。
誰が近づいてきたか。
誰が探ってきたか。
誰が冗談っぽく金の話をしたか。
誰が断った時に不機嫌になったか。
誰が裏で言いふらしたか。
それをいちいち観察して、判断して、距離を決める。
面倒くさい。
しかも、宝くじに当たったという情報は、一度出したら回収できない。
人間関係を整理するために出した情報が、今度は自分の周りに新しい騒音を作るかもしれない。
リトマス試験紙として使うには、あまりにも強すぎる薬品だった。

そして、ここで少し戻ってくる。
当選後に見えると思っていた反応は、実は当選前の日常にも出ているのかもしれない。
わざわざ宝くじに当たってから試す必要もない。
境界線への反応は、日常の小さい場面にもう出ている。

断った時。
距離を置いた時。
こちらの都合を優先した時。
期待された役割から外れた時。
相手の「これくらいしてくれるやろ」に応えなかった時。
その時、相手がどう動くか。
不機嫌になるのか。
冗談の形でもう一度押してくるのか。
こちらに罪悪感を持たせようとするのか。
それとも、何も言わずに線を尊重するのか。
そこに、もう出ている気がする。
宝くじは、人間関係を初めて見せるものではない。
もともと見えていたものを、かなり大きな音で鳴らすだけなのかもしれない。
宝くじに当たったら、人の本性が見える。
そう言いたくなる気持ちは分かる。
でも、今は少し違う見方をしている。
見えるのは本性というより、関係の配置なのだと思う。
金が入った時、誰がどこに立とうとするのか。
誰がこちらの境界線を尊重するのか。
誰がこちらの余裕を、自分の取り分みたいに見るのか。
それは、当選後に突然生まれるものではない。
日常の中に、少しずつ出ている。
宝くじは、それを大きくする。
大きくして、聞こえないふりができないくらいの音で鳴らす。
だから、もし本当に高額当選したとしても、僕はたぶん言わない。
人間関係を試すために、そんな強い薬品を使う必要はない。
試すまでもなく、もう見えているものはある。
見えているのに、見ないふりをしているだけのものも、たぶんある。
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