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#自分の人生で気に入っているところ

わたしの所属している音楽のサークルに、新しい子が入団した。二十歳寸前の大学生、女性、女声、ソプラノ。歌の経験はまだ浅く、大学生になってから始めたとのこと。控えめで温厚な性格で、何よりわたしから見ると初々しい、としか言えない子。

先日、いつもの練習で、いつものように練習内容を録音した。残しておくのは一時的な期間で、とくに意味を持たせた記録ではない。練習に来られなかった人たちが「この曲のこの部分をやったんだな」とアーカイブ参加したり、参加したメンバーもおのおのの自主練習で振り返るために使ったりする程度。自主的に保存しなければ消える仕組みで共有している。


帰宅して、録音を聴いた。
その日はいつもの練習よりぐっとメンバーが少なく、パートが揃うことすらぎりぎりという人数。おのずと、自分の声が如実に耳に届く。けれども、わたし達はそもそもステージの四列にしっかり人が埋まるような大所帯ではなく、本番によっては両手の指で十分数えられるくらいの人数でやっているので、その日の少人数ぶりもさしてめずらしいことではなかった。つまり、合唱とはいえ、それぞれの声がそれぞれに聴こえることもめずらしいことではない。
まあ、自分の歌声、良くも悪くもしっかり聴こえてしまうよね。そう思って再生をタップする。

予想を裏切らず、それぞれのメンバーの個の歌声が聴こえてきた。そして、その録音では、新入りの彼女の歌声もしっかりと聴こえたのだった。
デジタル媒体を通して彼女の歌声をそこまではっきり聴いたのは、たぶんその日が初めてだった。練習ではたまに彼女のひとりの歌声を聴くし、複数人で歌っていても、隣に並んでいなくても、意識をすれば聴くことができる。録音では、録音機器(といってもスマートフォンだが)は客席を想定した場所に置く。つまり、歌っているわたし達の耳に届く演奏とは、やや違う聴こえ方をする場所で録音する。演奏者と相対している客として聴く、とまでは言えないが、客観性も含めれば、もしかするとそれに近いのかもしれない。


彼女のソプラノは、わたしのかつての声のように聴こえた。
誤解のないように書くと、これは、彼女の歌声がすばらしいという意味ではない。技術的にも情緒的にも未熟な点が多い。感覚と持ち味だけが頼りの、綱渡りをしているかのような歌い方。
けれども重ねて書くと、これは、わたしが彼女の歌声にどうしようもなく魅力を感じてしまった、ということでもあった。スマホを通して聴こえてくる彼女の歌声に、端的にいえばわたしは嫉妬したのだった。

わたしの声はどちらかというと幼く、とりたてて声量もあるわけでなく、年相応の歌声かといわれると少なくとも技術は及ばない。わたしはずっとそれがコンプレックスで、大人数で歌えばいつもお鍋の水菜みたいな役割だった。そう、主役にはなれないってことね。でも、ある種の清涼剤としては必要な側面もあって、ときおりそのチャンスを活かす演目などがあれば重宝されたこともあった。ま、脂ののった牛肉では役不足のその演目。降ってくるチャンスにもそのような卑下をしてしまうくらいのコンプレックスは、いつも、ずっと、抱えていた。

彼女の歌声にはそれを感じずにいられなかった。その、歯がゆいような不出来具合も、稚拙と純粋さの境目にいるような声色も、うっかりすると天井に溶けていきそうな高音も。彼女のソプラノの、決して豊満ではない高音の響き方はわたしに似ていた。良くも悪くも。

翻って最近のわたしの歌声は、以前より少しばかり年齢を重ねた色合いになったと思う。スキルアップの賜物といってよいのか、抗えない経年変化というべきなのか。これだけの年数をやっていれば変化・進化・上達は当たり前なのだろうけれど、思春期のような短期間での大きな変化でないぶん、最近のわたしの変わり方は自分でも少しうれしかった。おとなになると、そういう成長は捉えにくい。素人なりにでも表現する場があって、わたしは恵まれていると思う。

変化をよろこびと感じていた矢先に聴いた彼女の歌声は、図らずも過去のわたしと重なってしまった。わたしは、その声に、救われたのか現実を突きつけられたのかわからなくなった。こんなふうに歌っていたな。懐かしさとは違った感情だった。わたしはもう、このような声や歌い方には戻れないんだな、だってここまで来てしまったもの。ここまで年数を費やして、ありとあらゆる生き様も声に取り込んでしまったもの。顔には人生が映っているというけれど、音楽の演奏も然り。日ごろの詰めの甘さがアルペジオの最後の音を外すみたいに、立ち居振る舞いはそこここに表れてしまう。
まあ、もう二十歳なんかに戻るのはごめんだけどね。人生は不可逆だからこそ、この感情も湧いてきたのだものね。



先日、ある物書きの方が、「とてもつらかったとき、過去に自分の文章に助けられた」という話をしていた。その文章は特定の人に宛てたもの(お仕事で書いた文章)で、少なくとも自分のために書いたものではなかったそうだ。でも、時が巡り、あらためてそれを読んだときに助けられたことがあったと。
そういうふうに助けられるということは、自分(その方)だけが体験した固有の事象ではなく、本物であればそのようになるのではないか、と締めくくられていた。

先日聴いた歌声も、もしかすると、少しだけこの話につながるところがあるのではないかと思った。ぜんぜん的外れだったらごめんね。でも、わたしは、わたしの気に入っていたかもしれなかったこと、を教えてくれた気がして、それは助けてもらったことかもしれなくて、だからつながっているような気がして、これを書かずにいられないわたしがいて、いつかこの文章にわたしが助けられますように、と祈っている。

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