ミステリー短編『水槽の底〜君の記憶がどこまで正しいか、僕は知らない〜』
部屋には金魚鉢がひとつ置いてあった。
水は濁っていて、中の金魚はもう三日も動いていない。
僕はそれを見るたびに、姉のことを思い出す。
「またその話?」
エアコンの効きが悪いのか、部屋の隅からは湿った風の音がずっと低く唸っていた。
向かいのソファで、幼なじみの麗奈が煙草に火をつけた。
この部屋——姉が住んでいたワンルームに呼び出してから、もう一時間が経つ。
誰も住まなくなって一年、遺品もそのままに、僕だけが時々合鍵で入っては、姉の痕跡を確かめるようにここへ来ていた。
僕はまだ、玄関で靴も脱がずに立っていたときのような、落ち着かない気分のままだった。
腰を下ろす気力がなかったのかもしれない。
「……麗奈。あの日のこと、正確に思い出してほしいんだ」
僕はテーブルの上にノートを広げた。
姉の死から一年。
警察は事故と処理したけれど、僕はどうしても納得できなかった。
姉の持ち物を整理する中で日記を見つけて以来、何度も読み返しては、麗奈に話を聞く機会をうかがっていた。
「あの日って……去年の八月のこと?」
麗奈は煙を吐いた。
「もう覚えてないよ、そんな前のこと」
「……噓だ。君、あの日姉さんと会ってたよね。姉さんの日記に書いてあった。『麗奈と会う、17時』って」
麗奈の手が一瞬止まった。
「……会ったよ。でも、それだけ。世間話しただけ」
「……何を話したの」
「忘れたって言ってるでしょう」
麗奈は苛立ったように灰皿に煙草を押しつけた。
僕はノートのページをめくる。
姉の筆跡で書かれた最後の日記のコピー。
そこには
「麗奈に、あのことを話した。彼女は青ざめていた」
とある。
「……あのことって何」
「知らない」
「麗奈」
「知らないってば!」
麗奈は立ち上がった。
目に涙が浮かんでいる。
「なんで今さらこんなこと聞くの。もう一年も経ってるんだよ。あなただって、あの頃のこと、ちゃんと覚えてるわけじゃないでしょう」
その言葉が、なぜか胸の奥に刺さった。
指先が冷たくなるのを感じた。
「……僕は覚えてるよ。あの日、姉さんは元気だった。夕方に出かけて、それきり帰ってこなかった。僕はずっと家で、姉さんの帰りを待ってた。それだけは確かだ」
「本当に?」
麗奈がこちらを見た。
その目には、憐れみのようなものが浮かんでいた。
「あなた、あの日どこにいたの」
「家にいたって言っただろう」
「証明できる?」
僕は言葉に詰まった。
「……何が言いたいの」
「……別に。ただ、あなたの記憶がどこまで正しいのか、私は知らないってこと」
麗奈はバッグを掴むと、部屋を出ていった。ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
その瞬間、外で鳴き続けていた蝉の声が、ふつりと途切れた。
まるで誰かが音のスイッチを切ったみたいに。静けさだけが部屋に残る。
ひとり残された僕は、金魚鉢を見つめた。
濁った水の中で、金魚は動かない。
指でそっと硝子に触れる。
冷たい。
エアコンの唸る音だけが、変わらず低く響いていた。
――思い出せ。
あの日、僕は本当に家にいたのだろうか。
窓の外、遠くの方から、くぐもった花火の音が響いた。
今夜、どこかで打ち上げ花火大会があるのだろう。
夏の終わりを締めくくるような、そんな低い音。
脳裏に、ふいに別の光景がよぎった。
コンクリートの踊り場。
錆びた手すり。
蛍光灯が切れかけて点滅する非常灯。
姉の背中。
何かを言い争っている声——
自分の声と、姉の声。
反響する足音。
あの日も、遠くでかすかに花火の音がしていた気がする。
いや、違う。
それは想像だ。
僕は家にいた。
姉さんの帰りを待っていた。
何度もそう自分に言い聞かせてきたはずだった。
なぜ今になって、こんな映像が浮かぶのだろう。
僕はノートをめくり、姉の日記の続きを読んだ。
今まで何度も読んだはずのページ。
だが、今日初めて、ある一文に目が留まった。
『今日もまた、弟に問い詰められた。もう何度目だろう』
――弟に。
僕は日記を持つ手が震えているのに気づいた。
文字がぼやけて見える。
麗奈は今日、僕にこう言った。
「あなたの記憶がどこまで正しいのか、私は知らない」と。
金魚鉢の水面に、自分の顔が映っている。
青白く、疲れた顔だった。
僕はゆっくりと、これまで誰にも言わなかった記憶——いや、記憶ですらなかった、心の奥底にずっと沈めてきた何か——に手を伸ばした。
あの日、僕は家にいなかった。
あの雑居ビルの非常階段にいた。
人目を避けて、姉とそこで会っていた。
姉が抱えていた秘密——それを知って、僕は激しく動揺し、口論になった。
声が反響する、狭いコンクリートの階段室で。姉を突き飛ばした。
姉は足を滑らせ、錆びた手すりを掴みそこねて、階段の下へと落ちた。
助けようとした。
本当に、助けようとしたのだ。
手を伸ばしたが、届かなかった。
そのあと僕は、家に帰った。
何事もなかったかのように。
そして自分自身にも、「僕はずっと家にいた」と、静かに、何度も、言い聞かせ続けた。
一年かけて、その嘘は記憶そのものにすり替わっていた。
麗奈はきっと、あの日から、何かに気づいていたのだろう。
だから今日、あんな言い方をした。
真実を僕自身に思い出させるために。
僕はノートを閉じた。
指先がまだ震えている。
金魚鉢の中で、金魚がゆっくりと横たわっている。
もう長いこと、誰も水を替えていない。
エアコンの音だけが、変わらず部屋を満たしていた。
蝉はもう鳴いていない。
花火の音も、いつの間にか止んでいた。
夏が、静かに終わろうとしていた。
姉を捜していたのは、僕ではなかった。
姉から、ずっと逃げていたのは、僕自身だった。
了
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