「勝利の確信を持って」試練の中を生き抜く信仰の力
はじめに 試練は人間の条件である
古代ローマの哲学者セネカは言いました。「Per aspera ad astra――茨の道を経て、星へ」。試練を避けることは人間にはできない。それは洋の東西を問わず、あらゆる時代の思想家が認めてきた厳然たる事実です。
仏教は「一切皆苦」と説き、この世の苦しみから目を背けません。実存主義の哲学者カール・ヤスパースは「限界状況」という概念を用い、死・苦悩・争い・罪責という避けがたい壁に人間は必ず直面すると述べました。文化も宗教も哲学も、等しく証言しています。試練は人間存在の一部である、と。
ならば問題は、試練を「いかに避けるか」ではなく、「いかに向き合うか」です。
キリスト者も傷つく しかし、そこで終わらない
キリスト者であるからといって、疲れ知らず、傷つかない鋼鉄の人間になるわけではありません。悲しみ、恐れ、疲弊…それはキリスト者も等しく経験します。詩篇の作者ダビデも嘆き、エリヤも燃え尽きて「もう死にたい」と叫びました。
では、キリスト者はどこが違うのか。
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