中国残留日本人孤児が80代で通う板橋デイサービスの現実
戦争が終わって80年。中国残留日本人孤児たちは今、介護が必要な年齢になった。その「その後」を、ほとんどの人が知らない。
> 戦争の傷は、老いの形をして今も続いている。
この記事のポイント
・中国残留日本人孤児の多くはすでに80代で介護が必要な時期に入った
・日本語が話せないまま高齢化し、中国語対応の介護施設が不可欠になった
・戦争が作り出した「言語の断絶」は、死ぬまで解消されない
何が起きたか
2025年5月、東京都板橋区のデイサービス施設「一笑苑」が注目を集めた。利用者の平均年齢は約85歳。その多くが中国残留日本人孤児とその配偶者だ。館内では中国語の会話が飛び交い、昼食には本場の中国家庭料理が並ぶ。最高齢利用者は103歳で、今も施設で麻雀を楽しむ。一笑苑は2019年設立。現在、東京・横浜・埼玉・大阪で計8施設を運営し、利用者は
1000人超
に達している。
日本語が話せない「日本人」が老いるとき、何が起きるのか
一笑苑という施設が生まれた背景には、構造的な必然がある。中国残留日本人孤児は、1945年のソ連軍満州侵攻の混乱の中で中国人家庭に引き取られ、中国語を母語として育った。日本に永住帰国したのは1980年代以降。その時点ですでに30〜40代だった人が多い。日本語を習得する時間も機会も、決定的に足りなかった。
厚生労働省によると、中国から永住帰国した中国残留邦人は
6731人(孤児は2557人)
で、家族を含めた帰国者の総数は2万918人にのぼるとされている。この人たちが今、80代に差し掛かっている。加齢で認知機能が落ちると、第二言語はまず消える。日本語が不十分なまま認知症になったとき、普通の日本語対応の介護施設では何も伝えられない。
一笑苑板橋の責任者・三上貴世氏は53歳で、自身が中国残留孤児の三世だ。介護福祉士の資格を持ち、介護の世界に入って9年になる。彼女のような存在がいなければ、この施設は成立しない。介護現場に「中国語ができて、かつ日本の介護資格を持つスタッフ」を確保するのは、並大抵のことではないと考えられる。
法制度の側から見ると、2007年に国が支援策を拡充したことで残留孤児の生活は一定改善した。しかしそれ以前、帰国後に日本語の壁と就職難で苦しんだ時期に老後の年金を十分に積み立てられなかった人は多い。「年を取って帰国し、言葉が分からず、定年になった時に年金ももらえなかった」という尼崎市在住の残留孤児・重光孝昭氏(86)の言葉が、その現実を端的に示している。
介護業界全体で見ると、外国にルーツを持つ高齢者への対応は今後さらに課題になる。在日コリアン、ベトナム系、中国系。それぞれが自分の言語・文化圏で老いていく。一笑苑が作った「中国語介護」のモデルは、多文化対応介護の先行事例として業界に問いを投げかけている。春節や中秋節にチャイナドレスで歌を披露するデイサービス、というのは単なる「文化的配慮」ではない。それが「普通の老後」に最も近い形だった、ということだ。
この話を「見えないニーズ」として読み替えると
私がコンサル時代に叩き込まれたのは、「顧客が言語化できていないニーズを先に見つけた方が勝つ」という原則だった。ある医療系クライアントの案件で、外国人患者の受け入れ体制を調査したとき、現場スタッフが「言葉より文化の壁の方がきつい」と言っていたのを今でも覚えている。言葉が通じても、食事・習慣・死生観が合わなければケアは成立しない。一笑苑がやっていることは、まさにその「文化ごと包む介護」だった。
私が注目したのは、週6日通所するケースがあるという事実だ。デイサービスは本来、在宅介護の補完として使われる。週6日というのは、もはや「自宅より施設にいる時間の方が長い」ペースに近い。それが成立するのは、そこが「安心できる居場所」だからだ。介護施設をコミュニティとして機能させることの強さを、この数字は示している。
もう一点、私がこの話から引き出したいのは「課題の先送りコスト」の話だ。1980年代に帰国した孤児たちへの支援が手薄だった時期に積み上がったツケが、今の介護需要として顕在化している。池田澄江氏のように、4つの名前を生き、51歳でやっと本名にたどりついた人たちが、今度は「言葉が通じる介護」を必要としている。政策の不作為は、数十年後に別の形のコストになって戻ってくる。これはオンラインで記事を読んでいるだけでは見えにくい、現場にしかない事実だ。
戦争が終わっても、その構造が人の一生を縛り続けるということを、この施設は静かに証明している。
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