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それは本当に、子どものためなのか


子どものために
あなたのためを思って…

この言葉を聞くと、少し身構えてしまう。
この感じわかるだろうか。たぶん、私だけではないと思う。


「子どもたちのために」

学校現場では、よく耳にするセリフ。
もちろん、大切な言葉だ。
しかしその言葉は、本当に子どもたちのために使われているのかは怪しい。


何かを決める場面で

行事を実施するか。やり方を変えるか。
何かを続けるか、やめるか。

こういった場面で、
「子どもたちの負担になるので」
「子どもの時間を使いすぎるので」
という言い方をされることがある。

本当に子どもの負担を考えている場合もあるのだが、聞いていると、どうにも引っかかる。
自分が楽になるための理由を、子どもに代弁させているだけではないかと。

もし本音が、
「準備が大変だから、この行事は見直したい」
なら、そう言えばいい。

「今の人員では回らない」
「この負担に対して、教育的な効果が見合っていない」
「大人側の余力が足りない」
これなら、議論はずっと明快になる。


しかし、時にきれいな言葉に変装して意見が飛んでくる。そうすると、反論しにくくなる。
誰も、「子どものため」に反対している人にはなりたくないからだ。

だからこそ、その言葉はとても強い。
そして、少し危うい。


誰が旗を振るのか

もう一つ、よくあるのが、
「子どものためには、やった方がいいと思います」
という意見だ。

それはそうですが、やってくれるのですか。
と心の中で思う。

そう言う人に限って、自分がやるとは言わない。
誰が、どの時間でやるのか。どこまで準備するのか。責任は誰が持つのか。
そこまで話を進めようとしない。


子どものためという旗は立つ。
けれど、その旗を持って走る人はなかなか現れない。

そしてめでたく、いつもの「できる人」や「断れない人」に仕事が流れていくことになる。


本音を隠すと、議論の目的がずれていく

もちろん、何でも本音で言えばいいわけではないのはわかっている。
職場では誰しも立場があり、配慮も必要だ。

しかし、綺麗事で議論を進めるとどうなるか。

本当は何に困っているのか。
何を守りたいのか。
誰のためにやるのか。

そこが曖昧なままになる。


だから私は問い直す。

「そもそも、これは何のためにやるんですか」
「子どもたちに、どうなってほしいんですか」


すると、場が一瞬止まる。

……

今ここで本気で話すつもりはない。
と言わんばかりのピリッとした空気が伝わってくる。

それでもいい。
その本質から逃げてしまうと、結局何も進まないからだ。


苦労話オリンピック

そして、こういう話になると、決まって始まる。

「昔はもっと大変だった」
「自分たちの頃はこうだった」
「これくらいやって当然だった」

過去の経験は、もちろん財産だ。その時代を乗り越えてきた人たちの知恵には、敬意もある。

でも、それらが今の判断を邪魔することもある。

昔できたから、今もできる。
自分たちが耐えたから、次の世代も耐えるべき。
前例があるから、変えなくていい。

そうなった瞬間、経験は財産ではなく、重りになることもあるので厄介だ。


今話すべきなのは、過去の苦労だけではない。

今の子どもたち。
今の時代。
今の現場の余力。
そして、これから何を大切にしたいのかではないか。


使うなら慎重に

「子どものため」という言葉は、とても大切だ。

だからこそ、雑に使ってはいけない。

大人の都合を隠していないか。
責任の所在を曖昧にしていないか。
誰かに仕事を渡すための言葉になっていないか。

本当に子どものためなら、
何を続け、何をやめるのか。
誰がやるのか。どこまでやるのか。
その人にどうなって欲しいのか。
そこまではっきりさせたい。

理想論だけでは、現場は変わらない。
そしてこれは、学校だけの話ではないと思う。


「誰かのため」という言葉が、自分たちの都合を隠す道具になった瞬間、その言葉はもう誰かの方を向いていないのではないか。

それが曖昧な場所で、前に進むつもりはない。



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