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 迎えの来ない庵【童話?短編? 約4800字】

 山のふもとに、小さな庵がありました。
 庵には、男がひとりで暮らしていました。
 男は朝になると畑を耕し、昼には村へ下り、夜になると机に向かいました。机の上には、この国の地図が広げてありました。
 川の流れ、山の高さ、街道の曲がり方。男は知っていることを墨で書き、知らないところには小さな丸をつけました。
 地図は年々黒くなりましたが、小さな丸は少しも減りませんでした。
「私は、ずいぶん長いこと学んでいるのに、知らないことばかり増えていく」
 男は、ときどきそう言いました。
 庵には椀が二つありました。
 一つは男が毎日使う、縁の欠けた椀でした。もう一つは、客のための椀でした。
 客用の椀は、いつもきれいに洗って棚に置かれていました。
 けれど、それを使うような客は、なかなか来ませんでした。
        
   *
           
 村のパン屋の窯は、ずいぶん昔から具合が悪く、パンが上手く焼けなくて困っていました。奥に置いたパンは焦げるのに、手前のパンには火が通りません。
 パン屋は毎朝、焦げたところをナイフで削り、生焼けのところをもう一度焼きました。
「窯が古いから仕方がない」
 パン屋は言いました。
 男は、窯の前に三日座りました。
 火の色を見たり、煙がどちらへ流れるかを見たり、細い木の枝を窯へ入れて、燃え方を比べたりしました。
 四日目に、男は窯の奥の壁へ小さな穴を開けました。
「そんなところへ穴を開けたら、熱が逃げるじゃないか」
 パン屋は言いました。
「そうかもしれない」
 男は答えました。
 その日、窯へ入れたパンは、どれも同じ色に焼けました。次の日も、その次の日も、焦げたパンはありませんでした。
 町からパンを買いに来た商人は感心して、窯の形を紙に写しました。やがて、近くの村の窯にも、小さな穴が開けられるようになりました。
 
 秋のある日、立派な馬が山道を上ってきました。
 馬に乗った使者は、きれいな青い服を着ていました。
 男は畑から戻ると、庵の床を掃きました。客用の椀を棚から下ろして、水ですすぎました。
 使者は庵の前で馬を止めました。
「この村に、たいそううまいパンを焼く者がいるそうだが」
 使者は言いました。
「村の真ん中に、赤い屋根の家があります」
 男は答えました。
「領主様が、城でパンを焼かせたいとおっしゃっている。迎えに来たのだ」
「そうですか」
 男は、赤い屋根の方角を指しました。
 使者は礼を言い、村へ下っていきました。
 男は庵へ戻り、客用の椀を棚へ戻しました。
 その晩、男は地図に、新しい丸を三つつけました。

          *

 次の年の春、山の雪が一度に解けました。
 村を流れる川は、日に日に濁り、水かさを増しました。
 男は川辺へ行き、流れてくる枝の太さを見ました。それから山へ登り、雪の残り方を見ました。
「三日後に、川があふれるかもしれない」
 男は村長に言いました。
「これまで一度も、川はあふれていない」
 村長は言いました。
「そうですね」
 男は答えました。
 男は村の外れの畑へ行き、ひとりで溝を掘り始めました。
 鍛冶屋が通りかかりました。
「何をしている」
「川の水を、村の外へ逃がす道を作っています」
「ひとりでか」
「今のところは」
 鍛冶屋はしばらく男を見ていましたが、やがて家へ戻り、鍬を持ってきました。
 粉挽き屋も来ました。パン屋も来ました。最後には村長も来ました。
 三日目の夜、川はあふれました。
 水は男たちの掘った溝へ流れ込み、畑を横切って、村の外へ抜けました。
 麦は半分ほど倒れましたが、家は一軒も流されませんでした。
 
 その夏、役所から役人がやってきました。
 馬車の音を聞くと、男は客用の椀を棚から下ろし、井戸から水を汲みました。
 馬車は庵の前で止まりました。
 役人は降りてきて、男に尋ねました。
「村長の家はどこだ」
 男は方角を教えました。
 しばらくして、村長が役人を連れて戻ってきました。
「この男が、川の流れを書いた紙を持っております」
 村長が言いました。
 男は庵から地図を持ってきました。
 役人は地図を長いこと眺めました。
「この紙を借りてもよいか」
「まだ書きかけです」
「写したら返す」
 役人は地図を丸め、馬車に積みました。

 次の年、同じような溝が、近くの村にも掘られました。
 その次の年には、もっと遠くの村にも掘られました。
 役所の前には石碑が建てられました。
 石碑には、川の災いから多くの村を救った役人と、村長の名が刻まれていました。
 男は町へ種を買いに行った帰り、その石碑の前を通りました。
 男は、しばらく文字を読んでいました。
「ずいぶん立派な方々だったのだな」
 男は言いました。
 それから庵へ戻り、まだ返ってこない地図を、初めから描き直しました。

          *

 何年かすると、村のまわりでは穀物がたくさん採れるようになりました。
 ところが、採れすぎた年には穀物が腐り、採れなかった年には人々が飢えました。
 山の向こうでは豆が余り、川の向こうでは麦が足りませんでした。けれど市場の開かれる日はどこも同じで、荷車は狭い街道で動けなくなりました。
 男は市場を歩き、何台の荷車が、どの道から、何時ごろ来るのかを数えました。
 それから、村ごとに市場の日をずらし、街道の途中へ荷物を置く小屋を作り、余った穀物を冬まで残すための倉を建てるよう、商人たちに話しました。
「そんな面倒なことを、誰が決めるのだ」
 商人たちは言いました。
「皆で決めるしかありません」
「皆で決めることほど、決まらないものはない」
「そうですね」
 男は答えました。
 商人の一人が、試しに男の話したとおりにしてみました。
 荷車は以前より早く町へ着き、穀物は腐らなくなりました。
 その商人は、別の商人へ方法を教えました。別の商人は、さらに遠くの町へ教えました。
 やがて、山の向こうの豆も、川の向こうの麦も、必要な場所へ届くようになりました。
 商人はたいそう豊かになりました。

 冬のある日、四頭立ての馬車が庵の近くで動かなくなりました。
 車輪の軸が折れていました。
 男は雪の中に膝をつき、木を削り、新しい軸を作りました。
 日が暮れるころ、ようやく馬車は動くようになりました。
「助かった」
 御者は言いました。
「王都から来た大切な馬車なのだ」
 男は手についた車輪の汚れを雪でこすりました。
「どなたかを迎えに来たのですか」
「そうだ。穀物の流れを整えた、たいそう賢い商人をな。王様が、国の倉を任せたいとおっしゃっている」
 馬車は、商人の住む町へ向かって走っていきました。
 男は庵へ戻りました。
 男は客用の椀を洗って、棚へ戻しました。

          *

 さらに何年かたったころ、隣の国とのあいだに戦が始まりました。
 敵の軍は数が多く、王都の兵は何度戦っても負けました。
 ある夜、ひとりの若い役人が庵を訪ねました。
 役人は雨に濡れ、馬も疲れ切っていました。
「道に迷いました」
 役人は言いました。
 男は火を焚き、豆のスープを出しました。
 役人はスープを飲みながら、戦の話をしました。
「敵は北の谷から来ます。こちらの軍は、谷の出口で迎え撃つつもりです」
 男は机の地図を見ました。
「北の谷には、兵を入れない方がよいかもしれません」
「なぜです」
「谷は狭く、兵が多いほど動けません。敵が欲しいのは城ではなく、こちらの兵を谷へ集めることではないでしょうか」
 男は、机の上に豆を並べました。
「こちらの道を閉じ、こちらの道だけを残します」
「敵を通すのですか」
「通れると思わせます」
 男は豆を一つずつ動かしました。
「食べ物を運ぶ荷車は、軍より遅い。川の水は、三日後に増える。市場へ続く道を空けておけば、敵はそこを使うでしょう」
 若い役人は、夜が明けるまで男の話を聞きました。
 朝になると、男が描いた紙を何枚か借り、王都へ帰っていきました。

 それからしばらくして、戦は終わりました。
 敵の軍は、食べ物を運べなくなり、川を渡ることもできず、ほとんど戦わないまま国へ帰りました。
 王都では、若い役人が国一番の軍師として褒められました。
 町では軍師の歌が作られ、子どもたちまで、その名を覚えました。
 行商人が庵へ来て、戦の様子を描いた瓦版を男に見せました。
 そこには、兵の動きと道と川が描かれていました。
 線の引き方は違いましたが、一本だけ空けられた道は、男が豆を並べて示したものと同じ形をしていました。
「たいそう賢い軍師だそうです」
 行商人は言いました。
 男は長いこと瓦版を見ていました。
「同じことを考える人は、いるものですね」
 男は言いました。
 行商人が帰ったあと、男は客用の椀を洗いました。

 春になり、王家の紋章をつけた馬車が、山道を上ってきました。
 村人たちは家から出て、馬車を見送りました。
 男は庵の床を掃きました。
 客用の椀を机へ置き、湯を沸かしました。
 馬車は、庵の前で止まりました。
 男は戸口へ出ました。
 役人がひとり、馬車から降りてきました。
「この先に、白い石の採れる山があると聞いた」
「この道を、まっすぐです」
「軍師様の像を作ることになった。国を救った方だからな」
「そうですか」
「道が二つに分かれるところでは、どちらへ行けばよい」
「右です。左は、雨が降ると崩れます」
 役人は礼を言い、馬車へ戻りました。
 車輪の音は、山の奥へ消えていきました。
 男はしばらく、湯気の上がる二つの椀を見ていました。

          *

 ある冬、庵の煙が上がらなくなりました。
 村人たちは雪をかき分けて、庵へ行きました。
 男は机に座ったまま眠っていました。
 机の上には、描きかけの地図と男の書いた何冊もの本がありました。
 男の墓は、庵のそばに作られました。
 石には男の名だけが刻まれました。
 何をした人だったのか、誰もうまく書くことができなかったからです。
 
 男の残した地図と本は、村長が役所へ届けました。
 そこには、知られていなかった山道や、川の流れや、穀物を運ぶのに都合のよい道、そして男の考えた役に立つであろう知識が本にはぎっしり書き込まれていました。
 役人たちは地図を何枚もの紙に写しました。新しい地図は、国じゅうへ配られました。
 その地図を使って道が造られ、遠い村まで食べ物が届くようになりました。川があふれたときには、人々を逃がすためにも使われました。
 地図の隅には、王と役人たちの名前が記されました。
 やっぱり男の名前は、どこにもありませんでした。
 
 それからまもなく、戦が起こり、その国は滅びました。
 王都は焼け、王の名も、国一番の軍師の名も、しだいに語られなくなりました。
 新しく国を治める者たちは、別の地図を作りました。
 新しい国の役人たちは、焼け残った地図を集めました。
 古い王の名が書かれたところを切り取り、新しい国の名を書き加えました。地図はよくできていたので、そのまま使われました。
 さらに時がたつと、それが前の国で作られた地図だと知る者もいなくなりました。
 まして、山のふもとの庵で、ひとりの男が描き始めたものだと知る者は、どこにもいませんでした。

 庵も、やがて崩れました。
 屋根は雪に押され、壁には草が生えました。男が毎晩座っていた机も、土に埋もれました。
 春のある朝、一羽の小鳥が、崩れた庵へ下りてきました。
 草の間に、古い椀がありました。
 古いけれど縁の欠けていない綺麗な椀でした。
 夜の雨が、少したまっていました。
 小鳥は椀の縁に止まり、水を飲みました。

 了

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