その『当たり前』は、誰が引いた線か?
インバウンドと共に生活をしていると、色々な場面で「その国の常識」に出会う。
信号待ちに透けて見える、何を信じ、どう生きてきたかの縮図
青信号に変わるのを1秒の狂いもなくじっと待つ人。
車が来ていないのを見て、自分の判断で合理的に渡っていく人。(1番堂々と渡っていくのは、地元のお年寄りだったりする🤣)
周りの出方をそっと伺いながら、同調するように歩みを進める人。
彼らにとってそれは「正しいか、正しくないか」ではなく、それぞれの国や社会で生き抜くために最適化されたOS。
たまたまの判断ではなく、家族全員が当たり前のように躊躇なくそうすることに、いつも私は驚く…。
ちなみに、息子のいるアフリカの信号は、とても渡りきれないほど短いのだそう。
渡れずに、ずっと、あたふたしているのが観光客。
インターネットが隅々まで行き渡った結果、私たちが身に纏う衣服や持ち物は、驚くほど均一化してしまった。
誰もが似たようなものを手に入れられる現代。
ふと街を見渡せば、人と人を分かつ境界線は、もはや生まれ持った肌の階調や、髪の質感くらいしか残されていないのかもしれない。
日本では一般的に走るママチャリ。
日本独特のスタイルらしく。
もう気づけば10年ほど前の話になるが、子供を乗せて走っていると「動画や写真撮影をされた」と言う話を聞いたのは、一度や2度ではない。
その国の常識に出会うのは「信号待ち」だけではない。
「傘を差すか?」
「差さないか?」
そのタイミングにも、色濃く現れているように思う
傘を差す・差さないという選択は、「自然」と「自分」との境界線をどこに引くかという思想そのもの。
自分を自然の一部と捉えるか、それとも自然と対峙する独立した存在と捉えるか。
この問いは、私たちが「私」という存在の輪郭をどこに引くかという、究極の問いへとつながっていく。
日本人は、世界的に見ても驚くほどよく、雨傘・日傘ともに、傘を差す民族なのだという。
日本人がよく傘を差すのは、「四季の雨や猛暑から身を守るため」という実用的な理由と、「周囲を不快にさせないマナー」「古くからの美意識」という文化的な理由が合わさっているからです。
息子がまだ小さかったあの頃、夫と交わしたひとつの約束がある。
「母親が虫を怖がると、子供が『怖いもの』だと認識する。
だから、絶対に!怖がったらいけない。」
いま、考えれば…
自分を「自然の一部」と捉えるか、それとも「自然と対峙する独立した存在」と捉えるか
その最初の線引きは、
無意識に親がしていたのかもしれない…
外見が似通ってきた現代だからこそ、傘を差すタイミングのような『振る舞い』にこそ、その人のルーツが色濃く残る。
そんなことを考えていた時、一冊の本に出会った。
「ニューヨーク、雨でも傘をさすのは私の自由」

その『当たり前』は、誰が引いた線か?
「他人の目」から解放され、自分を主語に生きること
「違い」を認め合い、面白がること
自由に伴う「責任」と「たくましさ」
私たち日本人は、もっと肩の力を抜いて、好きなように生きていいのかもしれない…
そんな風に、思う。
虫が大の苦手な私。
『パラレルワールド』
あの時… もし。
ダンゴムシが部屋中を歩き回る日常に、悲鳴をあげていたなら。
息子は、アフリカには留学しなかったのだろうか…?
いつも読んでくれてありがとう。
温かいサポートも感謝しています。
ステキな人生を🍀
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