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喫茶十五時 ――聖良――      第一話『皮膚の下の羽音と聖母の自縛』

【作品紹介・注意書き】
本作は、異界の喫茶店を舞台にした耽美的なファンタジーです。
一部、官能的な描写や成人向けの表現を含みます。
18歳未満の方、および苦手な方は閲覧をご遠慮ください。


銀座のビルの喧騒は、角を一つ曲がっただけで、まるでガラスの壁に遮られたかのように遠のいた。
聖良(せいら)は、誘われるようにその路地裏へと足を進めていた。
いつの間にかアスファルトの地面は古びた石畳へと変わり、ヒールの高いパンプスでは酷く歩きにくい。梅雨時期特有の、じっとりとした蒸し暑い霧雨が降ってきた。肌にまとわりつく湿気が、衣服の裏側を不快に濡らしていく。それはまるで、耳元をかすめる羽音のように、微かで、けれど無視できない苛立ちを皮膚に刻みつけてくる。
歩を進めると、目の前にひっそりと佇む、重厚な木の扉が現れた。
入り口の看板には『喫茶十五時』と掠れた文字で刻まれている。さらにその下には
黒い金属板に赤黒い錆のような色彩で、深く打ち込まれた文字が見えた。
――『coffee・silent』ーー
静寂を売る店。
その文字を目にした瞬間、聖良の胸の奥で、張り詰めていた何かが小さく音を立ててひび割れた。日常の義務、聖職者としての仮面、あの子たちの無垢な視線……それらすべてから隔絶された暗闇に、心が吸い込まれるような奇妙な錯覚。
逃げるように、あるいは手繰り寄せられるように、聖良は重いドアを引き、その深淵へと足を踏み入れた。
カラン、と静かな鈴の音が、ドアの開放を告げた。
外の湿った熱気を切り裂くような、冷ややかで、どこか非現実的な琥珀色の空間が広がっている。
店に入ると、カウンターの奥から一人の女性が、音もなくこちらを向いた。
タイトにまとめられた、美しくも冷徹な印象を与える銀髪。隙のない黒のベストを纏ったその佇まいは、
まるでこの空間の静寂そのものが形を成したかのようだ。
「いらっしゃいませ。……お待ちしておりました」
その女性――サブマスターのマチが発した声は、低く、滑らかで、聖良の鼓動を冷たいナイフのように正確に刻む。
「……随分と、深い『闇』を連れていらしたのですね」
「あ、……っ」
初対面のはずの相手から投げかけられた、あまりにも核心を突く言葉に、聖良は息を呑んだ。否定しようと言葉を探すよりも早く、マチは音もなく聖良の背後に回り込んでいる。
清潔で、教職という肩書きを守るための盾でもあったトレンチコート。それが、マチの細い指先によって、まるで熟した果実の皮を剥ぐように、滑らかに脱がせされていく。
その刹那、マチの指先が、聖良の白いうなじへ、ほんのわずか、羽毛がかすめるように触れた。
「――っ!?」
聖良はビクッと、過剰なほどに身体を跳ね上がらせて反応してしまった。
今まで経験したことのない、触れられているのかさえ定かではない微弱な刺激。それがかえって、
衣服の擦れに飢えていたうなじの神経をダイレクトに逆撫でしたのだ。
粟立つ肌を隠すこともできず、小さく肩を震わせる聖良を、マチはカウンターの影から覗き込むようにして、
低く艶やかな声で告げる。
「……敏感なんですね?」
「あ、……んっ……」
他人に触れられたことのない、あまりにも繊細で、それでいて逃げ場を塞ぐような愛撫のプロローグ。
うなじに居座るマチの指先の温度が、聖良の喉から、自分のものではないような、
低く淫らな鼻声を強引に引きずり出した。
否定の言葉は、その掠れた吐息にかき消される。マチはそれ以上の追撃はせず、彼女の体温を指先に残したまま、静かに聖良をカウンター八番席へと促した。
八番席は、他の通常席とは僅かに離れた、琥珀色の闇が深く溜まる特別席だった。
聖良が滑り込むように腰を下ろした瞬間、
マチがその背後で、
椅子の位置をほんの数センチだけ整えるために手を伸ばした。
それは、給仕としての極めて事務的で、完璧な所作による「偶然」に過ぎなかったはずだった。
しかし、椅子が動く僅かな振動と共に、マチの黒いベストの生地が、聖良の剥き出しのうなじを、あるいはマチのしなやかな指先が、彼女の耳の下から顎のラインを、滑るように掠めていった。
「ひ……っ」
ただの衣擦れ。そう自分に言い聞かせようとする聖良の理性を置き去りにして、
マチの親指が、
彼女の顎の尖端をクイと、まるで落ちかけた果実を受け止めるような自然さで、一瞬だけ掌の中に収めた。
ほんの、一刹那。マチの冷徹な双眸と視線が交差したかと思った次の瞬間には、
その手はすでに離れ、マチはいつの間にかマスターの傍らへと戻り、影のように静かに佇んでいる。
だが、掴まれた場所に残された、微かな圧迫感と体温の余韻。
それは、夏の夜に羽音を立てていた蚊がいつの間にか去った後の肌のようだった。
皮膚の下でじわじわと、言いようのない恥辱の熱
――自ら掻きむしりたくなるような、底なしの中泥性を孕んだ「痒み」へと変貌していく。
自分は今、意図的に弄ばれたのではないか。
それとも、単なる偶然に、私の身体がこれほど卑しく反応してしまったのか――
正解のない問いのスパイスに翻弄され、自らの呼吸の乱れを持て余していたその時、
琥珀色の闇が深く溜まる店の奥から、音もなく一人の男性がカウンターの中へと入ってきた。
仕立ての良い衣服を纏った、落ち着いた佇まいの年配の男性。
その人こそが、この奇妙な深淵の主――マスターだった。
白髪交じりの髪、刻まれた深い皺。それらは単なる老いではなく、数多の時間を吞み込んできた者だけが持つ、
逃れがたい色気となって聖良の視線を強引に吸い寄せる。
マスターの持つ酷く均整の取れた指先が、デミタスカップを聖良の前へと滑らせた。
「いらっしゃいませ。……こちらをどうぞ」
低く、静かな声音が店内の沈黙に溶ける。
供されたのは、泥のように濃厚な漆黒のエスプレッソ。
その傍らには、小さなピッチャーに入ったミルクとシュガー、
そしてまるで気まぐれのように、上品なクッキーが二枚、小さな皿に添えられていた。
「あ、……ありがとうございます……」
張り詰めていた緊張の隙間に、不意に差し出された温かな珈琲と甘い菓子。
それは、冷えた身体にじわじわと染み渡る、おぞましいほどに優しい「罠」のようだった。
逃げ場のない沈黙と、うなじから顎へと伝う奇妙な痒みに喉を乾かせていた聖良は、
目の前のマスターの視線に急かされるようにして、その濃厚な一杯へと手を伸ばした。
ミルクもシュガーも入れず、ただ縋るようにして口をつけた漆黒の液。
喉を焼くような強烈な苦みが胃へと落ちた瞬間、彼女が「聖職者」として何年も積み上げてきた理性の防壁が、内側から不自然なほど急速に、ドロドロと融解していくのが分かった。
頭の芯が急激に熱を持ち、口元を縛っていた見えない重石が、ふっと消え去る。
「……本当は……私……」
震える指先が、空になったデミタスカップの縁をなぞる。
チリチリと陶器を引っ掻く爪の音が、静かな店内に小さく響いた。
「授業中に、あの子たちの無垢な瞳を見ていると……
それを、めちゃくちゃに壊して、泥を塗りたくってやりたい……そんな汚いことを考えてしまうんです……っ。
毎日、聖母のふりをして教壇に立っている自分が、反吐が出るほど大嫌いで……! そして、そんな悍ましい自分を、
誰かに……もっと残酷に、罰してほしいって……!」
それは、彼女が心の最深部にひた隠しにしてきた、あまりにも濃く、醜い独白だった。
言い終えた聖良の頬は、まるで高熱を出したかのように赤く染まり、
その瞳は恥辱と、
すべてを吐き出してしまった異常な解放感に、熱く潤んでいた。
彼女を苛んでいたのは、日々、教壇で「完璧に清らかで、慈愛に満ちた聖母」を演じ、
自分を極限まで律し続けてきた過剰な抑圧の反動。
人間は、光が強ければ強いほど、その影もまた濃くなる。子供たちの無垢な瞳という絶対的な光に晒され続けた結果、

彼女の精神は「清らかさ」という名の重圧に耐えかねて、真逆の不道徳へと急激に傾斜してしまったのだ。

子供たちが憎いわけではない。むしろ、自分には決して手に入らない、
絶対に汚してはならないほど純粋な存在だからこそ、
その美しい均衡をめちゃくちゃに破壊して、自分と同じ泥に染めてやりたいという、歪んだ愛執に近い衝動。

美しい新雪の雪原を見ると、わざと激しく足跡をつけて汚したくなる心理の、

最も過激で倒錯した形が、彼女の脳裏を埋め尽くしていた。

何より彼女を追い詰めていたのは、
そんな醜い欲望を抱く自分自身を、誰よりも烈しく「反吐が出るほど大嫌い」だと自覚している点だった。
聖職者としての良性が残っているからこそ、そんな悍ましい自分を自ら許すことができない。だからこそ、
自分の意志で堕ちるのではない。
「誰かに、もっと残酷に、無理矢理に罰してほしい」という、
極限の被虐愛へと繋がっていく。
――きっと、この世界のどこにでも転がっている、ありふれた心の壊れ方なのだろう。
世の中の多くの人々もまた、日常の義務や抑圧に摩耗し、膨れ上がったストレスの行き場を失って、
心の闇を肥大化させていく。そうして、自らの羞恥心と背徳感に苛まれながらも、引き寄せられるようにして、このような倒錯した世界を覗き込み、一歩、また一歩と引き返せない深淵へ足を踏み入れるのだ。
聖良が今、まさにその境界線に立っているように。
すべてを暴かれ、荒い息を吐きながらマスターを見上げる聖良の姿は、
檻から解き放たれたばかりの、酷く無防備な獲物のようだった。

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