平面のパッチワーク5:コミック騒動について、平面で第三者として考える
ちなみに私読んでません。故に作品の感想もありません。
多分読んだら胸糞悪くなると思い込んでるので。
でも情報として飛び交ってるし、添付画像で1ページを目にしたり。それだけで敬遠してしまう。
この前提で「平面のパッチワーク」で観察をしてみようというものです。
なので騒動に対する感想も置きません。
まず大まかに3つの平面があると感じた
・制作側(作者や出版の発信者)
・ライト層(愛読者やネタで使う)
・当事者(作品の対象に似た環境の本人や、身内や知人)
中心にこの「作品」があります。(今回においては「みいちゃん」です)
この分け方で見てみます。見えている範囲と見えていない範囲があるなと受け取りました。ここから進めます。
この三者、真ん中にある「みいちゃん」っていう虚像に、みんな線を引いてる。同じ一点に繋がってる。
でも、繋がってる先の見え方が、おそらく全部違うんです。
制作側
制作側が立ってるのは、マネタイズのフィルム。この人たちにとって「みいちゃん」は、部数でありアニメ化でありグッズです。資産なんですよ。
そしてセンシティブな分野を情報として周知するということでもある。
ライト層
ライト層が立ってるのは、遊びのフィルム。娯楽作品として読むことができた。天然な人に対する知識が増えた。
この人たちにとって「みいちゃん」は、面白いラベル。ちょっと天然な同僚を「うちのみいちゃんさあ」って呼ぶ、あのノリ。ネタです。
当事者
当事者が立ってるのは、生活のフィルム。
この人たちにとって「みいちゃん」は、自分に貼られるかもしれない名前。職場で言われたら終わる、あの名前。
当事者にとっては、娯楽では片付かない。リスクですらあるし、そうとらえて警戒するのも当然です。
ここまでが「配置」です。まだ、誰が悪いとか、一個も言ってません。
配置としては
制作側
作品
ライト層
当事者
これが縦並びと私は見ました。当事者は読んでなくても関わらされていて、読みたいとも思わないだろうし。
この配置では、当事者は作品に直接つながらない。でもライト層の発信とは接続している。
もしかしたらトライアングルで、中心に作品かもしれない。それは並べる人次第です。私が正解じゃない。
それは作品を当事者側で読んでしまった人もいるという場合のこと。
配置を先に、って大事なんですよ
ここ、順番がめちゃくちゃ大事で。
すぐ「制作側が悪い、ライト層が共犯、当事者が被害者」って力学を乗せたくなるんですけど、それやると配置が歪むんです。
先に配置だけ描く。三枚のフィルムを、同じ高さで並べる。上下をつけない。これをやってからじゃないと、次の話が見えてこない。
で、配置ができたら、初めて各フィルムの上で何が起きてるかを乗せる。
それぞれの平面ごとに、中心の見え方が違うし、別の平面から見えないものがある。それを考えてみます。
平面を見て、平面ごとの接続を考える
制作側の見え方(マネタイズのフィルム)
マネタイズのフィルムの力学は「便益は自分の帳簿に乗る、コストは外に落ちる」。派手にすれば売れる。売れた金は入る。
じゃあ派手にした副作用は?
社会的なコストは、講談社の帳簿には発信した時点では一円も乗らないんですよ。
踏み倒せる。だから派手にした。事業として、まあ、筋は通ってる。通ってるのが、しんどいんですけど。
ライト層の見え方(遊びのフィルム)
遊びのフィルムの力学は「面白いから使う、以上」。
この人たち、おそらく悪意ないんです。むしろこれが厄介で。
誰かを傷つけてやろうと思って「みいちゃん」って言ってるんじゃなくて、面白いから言ってる。うまい事言ったなくらいの感覚。
破片がどこに飛んでいくかなんて、あまり考えない。反応が冷たかったら引っ込めればいい。そして別のものに移ればいい。
当事者の見え方(生活のフィルム)
生活のフィルムの力学は「最悪の一件を、自分の話として受け取る」。
当事者が「みいちゃんって呼ばれて解雇された人がいる」って話を聞いたとき、それは統計の一件じゃないんです。明日の自分なんですよ。
だから最悪ケースで身構える。これ、歪みでも過剰反応でもなくて、コストを実際に食らう側にいる人間の、めちゃくちゃ正しい反応です。
同じ虚像なのに、力学が全然違う
ここが今日の一番言いたいとこです。
同じ「みいちゃん」でも、乗ってるフィルムが違えば、その上で働く力が全然違う。
マネタイズのフィルムでの「みいちゃん」の位置から、生活のフィルムでの「みいちゃん」の位置は、計算できないんです。変換式がない。別々の座標系なんですよ。
だから制作側には、当事者の被害が構造的に見えない。意地悪で見ないんじゃなくて、フィルムが違うから、原理的に見えない。
「差別する意図はなかった」って声明、あれ嘘とは限らなくて、たぶん本当に見えてなかったんだと思います。見えてなかったことが、免罪になるかは別の話ですけど。
で、なんで被害が出るのか
三枚のフィルムは、独立してます。混ざってない。動機も認識も、バラバラ。
つまりそれぞれの平面から見える景色は、他の平面の視点を持たない。
なのに、コストだけが、三枚を串刺しにして、上から下に貫通する。
制作側の平面からは、ライト層という読者の反応しか見えない。販売部数であったり、メディアの露出だったり。当事者の感情は見えない。
ライト層からは制作側は見えない。見えるのは作品。そして作品で受け取った情報を、似た対象に重ねる。重ねられた方の当事者感情は見えない。
そして当事者からは、わけのわからないシールがあちこちから貼り付けられる。いきなりみいちゃんとニックネームをつけられ、それがネガティブな評価として固定されてしまう。
生活がうまくいってないかもしれないのに、さらに増幅されたノイズが降り注ぐ。その理不尽さをまとめて受け取らされる。
フィルムは混ざってないんですよ。
制作側とライト層は、握手すらしてない。
当事者とライト層も、会ったこともないかもしれない。
三枚は独立したまま。
でも、串だけが通ってる。
上の二枚は、串の先端がどこに刺さってるか見えない。
いちばん下の一枚だけが、刺さった痛みを持ってる。
そして痛い側からは、別の二枚の区別がつかないんです。
無邪気なライト層と、計算高い制作側が、一枚の「悪意」に見える。
「肯定派の本音は、しょせん悪意の消費でしょ?」って反対派が言っちゃうの、あれはこういうことなんです。
痛い側からは、串は一本にしか見えない。
虚像にしたのは、たぶん正しかった
ちょっと擁護っぽいことも言っておくと。
実在の誰か一人にスポットライトを当てると、その人が偶像になる。マイクがその一点に集まって、
逆に、後ろにいる同じ立場の何万人が、影に沈むんです。
「この可哀想な○○さん」で、話が終わる。
24時間テレビが感動ポルノって言われるの、あれです。
その点、虚像は誰でもない。誰も代表しない。だから読者は「この人が可哀想」で終われなくて、「こういう構造がある」っていう、面のほうを見ざるをえない。
診断名すらつけなかったのも、たぶん同じ設計です。点を打たない。
という設計だったはずなんですよ。
なのに、虚像だからこそ全面に貼れた
ところがですね。
虚像って、宛先が空いてるんです。誰でもない名前だから。
実在の「○○さん」なら、その人一人で閉じる。
でも「みいちゃん」は空欄なんですよ。空欄だから、誰にでも書き込める。
名前を空けたら、その空けた名前が、全面に貼れるシールになった。虚像だから面を守れたはずが、虚像だから全面に貼れてしまった。
きれいに反転するんですよね、これ。設計は正しかった。
本来は、コストを面に薄く散らして、誰か一人に集中させない構造にできれば、気を配るという対人関係のソースとなりえた。
皮肉なことに、それが持ち出し可能なシールになって、逆に天然な人に向けて気軽に貼り付けられるツールになっちゃった。
あちこちに広がった。まるで落書きのように。
下にいる当事者は最悪ケースで受け取るから、薄いはずのコストが、受け取る側で最大化する。
薄く塗ったのに、刺さるときは全力で刺さる。最悪の組み合わせ。
一つの作品が、掛け算式にシールを増やし、増えたシールは少数の当事者に対して貼られまくった。
職場の一人が誰かをみいちゃんと呼んだら、その職場の全員がみいちゃんと呼んだことと同義になる。ここでも出版数以上に掛け算されてしまう。
元は1だったのが、出版されて掛け算で情報として増幅し、多くの読者にシールを渡し、そのシールはごく少数のターゲットに集中した。
そのシールを貼った現場でも、今まで接触なかった人も関係者として増幅する。
で、どうすればよかったのか
説明はしません。私、読んでもないし。
ただ、この三枚を分けて見ると、打つ手が三者で違うっていうのだけは、はっきりするんですよ。
制作側は、意図と情報を持ってた唯一の層。
だからここはモラルに訴えても無駄で、コストを帳簿に戻す仕組み(レーティングとか、相談窓口への導線とか)でしか止まらない。
踏み倒せる限り、踏み倒すので。
ライト層は、面白さが主因。だから「お前ら悪人だ」って糾弾すると逆効果なんです。
だってこの人たち悪意ないから、「はあ?」ってなるだけ。効くのは、破片がどこに刺さってるかを見せること。面を見せること。
当事者の最悪値受信は、歪みじゃない。
だから「落ち着けよ」は無効。
効くのは、痛みの宛先を作ること。通報とか救済とか、刺さった串を抜く場所を用意すること。
今回のケースはフィードバックされて社会的に可視化された。
それ故に問題が見えてきて、それまずいよねという雰囲気が出てきた。
不幸の強制的な再分配
以前にこのシリーズで、不幸の再分配という提案をしました。
今回のケースは、強制的に不幸の再分配が行われたパターンな気がしてきました。
制作側からしたら面白い作品を出したのにめっちゃ文句言われたという不幸。
ライト層からしたら、うまい事言っただけなのに人格否定されたという不幸。
当事者からしたら意味不明なラベリングをあちこちでされたという不幸。
騒動にならなかったら、この不幸は全て当事者に押し付けられていたかもしれないという可能性。
賛成か反対か、で割ると、全部「気持ちの対立」で終わるんです。
でも三枚のフィルムで見ると、意図の層・面白さの層・受信の層で、性質が違う。性質が違えば、手当ても違う。
高さをつけないでね、というお願い
こうやって三者を並べると、どうしても
「制作=悪、ライト=共犯、当事者=被害者」って、上下をつけて読みたくなるんですよ。
でもフィルムは、高さを持たないんです。上下をつけた瞬間、構造が
——ライト層は無邪気で、当事者の身構えは正しくて、制作側は分かっててやってた——
っていう性質の違いが、ただの悪の濃淡に潰れる。また点に戻っちゃう。
それぞれの立場からは、おそらく決定的な加害の意志を持ってやってはいない。ルールの範囲内でやってたつもりなんでしょう。
でも、他の平面でそのルールは通らなかった。
自分がどの平面に属しているかで語ってしまうと、それは他の平面の視点を無視するということに同義なんですね。
読んでたら、たぶん私も、どっかのフィルムの上で全力でレスバに参加してたかもしれない。
でも騒動になって調べてみて、こんな印象を抱いた。
だから当事者意識がないと言われるとそうなのかもしれない。
最後にめんどくさい話っぽくおまけ
これって、相談受ける人が、自然に乗ってるルーチンが混ざってます。
まず情報を受け取る:インテーク
これは本来は相談に来た人の内容を聞いて整理して、支援始めますか?と確認をするまで。
これが相談来るとか無しに、世間に流れる情報で始まった。
だからインテークは飛ばされてる。
どうするか情報を集めたり調べたりする:アセスメント
これの序盤を今回の記事でやってみた感じですね。
専門の人はジェノグラムとかエコマップとか、同じようなことを自然にやっている。ただ聞いてるだけ(傾聴)じゃないのですね。
平面のパッチワークは我流なので、他の人に聞いても分かってもらえないからね!
ここからプランニングとか介入とか終結とかあるんだけど、それは詳しい人に聞こう!
そこらへんの勉強をしてる人は、いやでも学ばないといけないものでもありますね。
最後に「シールを貼る」という表現をしましたが、これは皆さんご存じだろうラベリング理論の引用ですね。社会学カテゴリになるのかな。心理学かもしんない。もう社会一般に概念として通用してますね。
オヤジギャグとして「おまえらとはラベルが違うんだよ!」というレベルと言い間違えみたいなネタは、発祥が少年隊の植草さんだみたいな噂を聞いたことがあります。
いやまじでこれはどうでもいいかもしんない。
今回は誰かに相談されたわけでもないので分析までですね。
おしまい。
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ノートのメモリ16Gだととても熱いので新調できたらいいなあ…