付喪神(つくもがみ)ってなに?江戸の妖怪絵師・鳥山石燕とあわせてやさしく解説
「付喪神(つくもがみ)」という言葉、聞いたことはありますか。
長く使われた古い道具が、化けて怪異になる――そんな考え方のことです。
主人公は茶碗や琴、傘のような、身近な道具たち。
日本の妖怪文化のなかでも、少し変わり種のジャンルといえます。
前回は、江戸っ子が信じていた迷信を掘り下げました。
今回はその続編として、この付喪神と、江戸時代の妖怪絵師・鳥山石燕(とりやま せきえん)について、やさしく解説していきます。
前回の記事で引用した御伽草子『付喪神記』の一節。あの言葉の出どころを辿っていくと、意外な事実にぶつかりました。
まずはそこから見ていきます。
『付喪神記』が引用する『陰陽雑記』、実は正体不明だった
前回引用した「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心をたぶらかす、これを付喪神と号す」という一節。
これは室町時代に作られた絵巻物『付喪神絵巻』の冒頭部分にあります。
これは絵と文章がセットになった、当時の絵本のようなものです。
『付喪神記』というのは、この絵巻物の別名のひとつ。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
他にも「付喪神絵」「付喪神縁起絵巻」「非情成仏絵巻」など、伝わっている本によって呼び名が変わります。
面白いのはここからです。
この一節、実は「陰陽雑記に云ふ」という前置きから始まります。
つまり『陰陽雑記』という別の書物からの引用だと明記されているのです。
ところが、この『陰陽雑記』という書物、現在に至るまで実在が確認されていません。
道具が化けるという発想の"出典"として、300年以上にわたって引用され続けてきた書物。
その大元をたどると、根拠となる書物自体が見つからない。
前回の「丙午のお七」のときと同じように、噂の土台を掘っていくと、思いのほか頼りない場所にたどり着くようです。
「付喪神」という言葉、実は駄洒落だった
「付喪神(つくもがみ)」という言葉自体にも、遊び心が仕込まれています。
「つくも」は、古語で「九十九」を意味します。
器物は百年を経て精霊を得るとされていました。
これは百に一年足りない「九十九年目」に捨てれば災いを避けられる、という理屈です。
数字の語呂合わせが、そのまま風習の名前になっているわけですね。
さらにもうひとつ、「つくも」には別の意味も重なっています。
『伊勢物語』に登場する「つくも髪」。老女の白髪を、ツクモという植物(カヤツリグサの一種)に見立てた言葉です。
長く生きた道具に宿る霊性と、長く生きた人間の白髪。
ふたつの「つくも」という言葉が、どこかで響き合っているように感じます。
化けてしまう前に捨てる――「煤払い」という年中行事
それでは、前回の記事で少し触れた「古い道具を、化ける前に手放す風習」についても、詳しくご紹介していきます。
これは「煤払い(すすはらい)」と呼ばれる年中行事です。

室町時代の原典には「立春に先立ちて」行うと書かれています。旧暦の新年を迎える直前、というタイミングです。
人々はこの機会に、家の中の古い道具を路地に払い出していました。
九十九年目のうちに手放してしまえば、百年目を迎えて付喪神になる災難を避けられる、という理屈です。
時代が下り、江戸時代に入ると、煤払いの日付は12月13日に固定されます。
4代将軍・徳川家綱の頃に定められ、江戸城の恒例行事となったのが始まりとされています。
これが庶民にも広まり、年末の風物詩になっていきました。
旧暦の立春(2月上旬ごろ)よりもかなり早い時期ですが、「新年を迎える前に、身の回りを清める」という発想そのものは、室町時代から一貫していたことになります。
現代の大掃除の起源のひとつとも言われるこの風習、根っこには「捨てられたモノは恨みを持つかもしれない」という発想があったことになります。
単なる整理整頓ではなく、モノとの関係を清算する儀式だったのかもしれません。
鳥山石燕、"妖怪図鑑"というジャンルを発明した男
室町時代に生まれた付喪神の思想は、江戸時代に入ると絵師・鳥山石燕の手で大きく姿を変えます。
石燕が1776年(安永5年)に刊行した『画図百鬼夜行』。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
それまでの妖怪画といえば、『百鬼夜行絵巻』のように、大勢の妖怪が集団で練り歩く様子を描くのが主流でした。
ところが石燕は、これを一体ずつ切り離し、名前を添えて紹介するという、まったく新しいスタイルを打ち出します。
現代でいう「図鑑」の発想を、江戸時代に持ち込んだわけです。
この試みが大当たりし、石燕は続けて『今昔画図続百鬼』(1779年)、『今昔百鬼拾遺』(1781年)、『百器徒然袋』(1784年)とシリーズを重ねていきます。
生涯で描いた妖怪の数は、200種類を超えるとも言われています。
よく耳にする河童や天狗のような伝承をもとにしたものだけでなく、
出典不明の「百々目鬼」や、煙の妖怪「煙々羅」のように、石燕自身の創作と考えられているものも少なくありません。
弟子は喜多川歌麿。妖怪画が生んだ人脈
石燕は絵師としてだけでなく、人を育てるのも上手だったようです。
門下からは、後に美人画で名を馳せる喜多川歌麿をはじめ、恋川春町や歌川豊春といった、化政文化を牽引する才能が育っています。
歌麿は後年、版元・蔦屋重三郎のもとで才能を開花させ、江戸の出版文化を代表する絵師になっていきます。
妖怪画から美人画へ。
師弟の画風はまるで異なります。
しかし、その源流をたどると、同じひとりの絵師にたどり着くというのも面白いところです。
水木しげる、京極夏彦――現代にまで伸びる影響
石燕の妖怪画は、200年以上たった今も、創作の世界に生き続けています。
昭和を代表する漫画家・水木しげるは、自身の妖怪画の多くを石燕の画集から着想を得ていたことで知られています。
私たちが「妖怪」と聞いて思い浮かべるビジュアルの相当部分は、石燕から水木しげるを経て受け継がれてきたものだと言えそうです。
作家・京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」(『魍魎の匣』『塗仏の宴』など)も、タイトルの多くが『画図百鬼夜行』に登場する妖怪の名前から取られています。
漫画『うしおととら』に登場する妖怪・雲外鏡も、もとをたどれば石燕の創作とされるものです。
迷信が「なんとなく信じられているルール」だったのに対し、石燕がやったのは、目に見えない不安に輪郭を与え、名前をつけて並べてみせることでした。
恐怖に姿を与えると、なぜか少し親しみやすくなる。
江戸の人々も、令和の私たちも、その感覚はあまり変わっていないのかもしれません。
おわりに
ここまで、付喪神と鳥山石燕について見てきました。
付喪神の思想は、室町時代からすでに存在しています。
でもその大元の出典は、実は正体不明のままでした。
一方で、この思想を"図鑑"という形に整理し直したのが、江戸時代の鳥山石燕。
彼が生み出した妖怪たちは、弟子の歌麿を経て、そして200年以上の時を超えて、水木しげるや京極夏彦の作品にまで受け継がれているのです。
出典の怪しい言い伝えが、ひとりの絵師の手で"文化"に変わっていく。
そのプロセス自体が、なんだか妖怪めいていて面白いなと思います。
次回も、江戸の妖怪文化をもう少し掘り下げていく予定です。
よろしければ、また覗いてみてください。
