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洞察力と観察力の正体|それは技術じゃなかった。

会議でも、人材育成でも、営業でも。

ビジネスの現場ではよくこんな言葉を耳にする。

「もっと観察しろ」
「洞察力を磨け」

確かにその通りだ。

同じ職場にいても、部下の変化にすぐ気づく上司がいる。
顧客の本音を引き出せる営業担当がいる。
会議で発言されなかった懸念点を感じ取る人もいる。

そういう人たちは「洞察力がある」と評価される。

では、洞察力とは何だろう。

経験だろうか。
知識だろうか。
頭の良さだろうか。

もちろん、それらも無関係ではない。

しかし私は最近、もっと根本的なものがあるように思えてきた。

それは、

相手に対する関心である。

興味のない人の変化には気づけない。

昨日との違い。
いつもとの違い。
声のトーン。
表情。
言葉の選び方。
仕事の進め方。

目には映っていても、関心がなければ脳は認識しない。

だから観察力とは、

見る力ではなく、見ようとする力

なのだと思う。

そして洞察力とは、その先にある。

相手の変化に気づいたとき、

「なぜだろう」

と考える力だ。

最近元気がない。
発言が減った。
いつもなら反応する場面で黙っている。
そうした事実から背景を想像する。

そこに何が起きているのかを考える。

これが洞察力なのだろう。

私は長い間、

洞察力とは分析能力だと思っていた。

しかし今は少し違う。

その根っこにあるのは、

相手への思いやり

なのではないかと思っている。

理解したいから見る。
力になりたいから考える。

だから気づける。
だから考えられる。

もし相手への関心がなければ、そもそも観察も洞察も始まらない。

では、その思いやりとは何だろう。

相手のために行動することだろうか。
優しく接することだろうか。

もちろんそれもある。

しかし私は最近、少し違う見方をしている。

思いやりとは、

自分の生き方の証なのではないか。

相手を気にかける。
声をかける。
手を差し伸べる。

しかし、その手が受け取られるとは限らない。

拒まれることもある。
迷惑がられることもある。

それでもまた気にかける。

また声をかける。

また手を差し伸べる。

なぜだろう。

もし相手の反応が目的なら、どこかで諦めてしまうはず。

それでも続けるのは、

相手のためだけではない。

自分がそういう人間でありたいから。

私は人を見捨てない。

私は人に関心を持ち続ける。

私は困っている人に手を差し伸べる。

それは相手の評価を得るためではない。

感謝されるためでもない。

ましてや見返りを求めるためでもない。

それが、

自分の選んだ生き方だから。

だから洞察力とは、人を見る技術ではない。

観察力とは、人を分析する能力ではない。

その人の奥にあるものを理解したいと思う気持ち。

その人の力になりたいと願う気持ち。

そして、その気持ちを持ち続ける生き方。

私はそう思う。

洞察力のある人とは、

たくさんのことに気づく人ではない。

人への関心を失わない人。

そして、

その姿勢を貫き続ける人。

そんな人なのだと思う。

洞察力の正体。

それは、人を見る技術ではない。

人を大切にしようとする、その人自身の生き方なのかも知れない。

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