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作者の設計と受け手の感性が生み出す対話劇の力:『出禁のモグラ』

奇妙なタイトルと「対話劇」への直感

アニメに限らず作品のタイトルはかなり重要だと言われます。タイトルは受け手が作品について一番最初に見る部分ですが、この部分で興味を引かないと、その先にある中身を見てもらうことは出来ないからです。言い換えると、この部分で興味を引くことが出来れば、作品を見てもらうことの第一関門は突破したとも言えます。自分自身の経験に即してみても、「このタイトルってどういうこと?」と気になる作品を視聴していることが多いので、タイトルって重要だなと思います。

この意味で行くと『出禁のモグラ』というタイトルを初めて目にしたとき、思わず立ち止まってしまいました。

モグラといえば土の中に暮らすあの小動物ですが、それが「出禁」になるとはどういうことなのか。どこから出禁を食らったのか、なぜモグラなのか。奇妙でユーモラスな響きに興味を引かれました。さらに『鬼灯の冷徹』で独特の世界観と対話センスを見せてくれた江口夏実の漫画が原作のアニメであると知り、コレは期待できるかも、と視聴をはじめました。

第一話を見てすぐに分ったのはモグラは動物ではなく、キャラの名前であったということです。モグラは、物語に登場する百暗桃弓木(もぐら ももゆき)の名前でした。そして、もう一つ分かったのは、セリフの多さでした。

一般的なアニメ作品では、映像的な演出やアクションによって物語が進むことが多いのですが、『出禁のモグラ』では、登場人物たちの対話が物語の中心に据えられています。セリフの応酬そのものが物語を推進する原動力となっているので、とにかくキャラがしゃべる、しゃべる。しかもそのセリフ回しがいちいち面白い。私はこの瞬間、「これは自分のツボに嵌まるヤツだ」と直感しました。

思い返せば、以前に観た『波よ、聞いてくれ』もセリフの多さが特徴的で、コントのような掛け合いが魅力だったように思います。さらに遡れば、自分はお笑いの漫才やコントも好きで、言葉のやり取りだけで笑いを生み出す形式に面白さを感じているなと。なんとなく自分は、登場人物同士がセリフの応酬を行う「対話劇」という形式に魅了されているのかな、とも思います。

対話劇の構造:面白さを支える三つの要素

対話劇とは、登場人物の会話が物語の中心となる形式を指します。舞台劇や映画、小説において、行動や派手な演出よりも言葉の応酬によって物語が進む形式の一つです。密室劇や二人芝居に多く見られ、観客や読者は会話から人物像やテーマを読み取ります。

対話劇の面白さは大きく三つに整理できるのかなと思います。

第一に、言葉のリズムが生み出す心地よさ。緊張と緩和のバランスが観客を引き込み、漫才や落語のような「間」の妙を感じさせる、そういう面白さです。

第二に、対話を通じてキャラクターの個性が自然に立ち上がる点。説明的なナレーションではなく、キャラ自身の言葉によって性格や価値観を浮かび上がらせます。いわゆる、しゃべりで「キャラを立たせる」というヤツです。

第三に、対話そのものが物語の仕掛けになり得る点。伏線がセリフに埋め込まれ、それが後に回収されるとき、観客は知的な快感を得ることができます。「あのキャラのあのセリフってこういう意味があったのか」と後から振り返ってみたときに感じる面白さです。

作者の「設計」と受け手の「解釈」の交差点

ここで大切なのは、対話劇の面白さは「作者のセンス」と「受け手の感性」の重なりによって成立するというところです。お笑いの賞レースを例にすれば、審査員と視聴者の評価が割れるということがしばしば起こりますが、これは前者が作者側の視点から技巧を評価し、後者が受容者の感性で「自分のツボに入ったか」を基準にするからです。対話劇も同じで、作者が仕掛けた比喩やツッコミが、受け手の感性に響いたときに初めて「面白さ」が完成します。

先週末、たまたま視聴したキングオブコントのファイナルステージでも、そのことを強く実感しました。優勝したロングコートダディのネタは、公園のベンチで泣いている警察官に、いけ好かない雰囲気の女性会社員が話しかけるという突飛な設定から始まります。女性は自信満々に「言語化」という言葉を連呼しながら警察官を励ますのですが、その言葉がいちいち癇に障る。聞いていてイラつくのに、なぜか物語としては成立してしまい、観客は笑いと違和感の狭間に置かれます。極めつけは、女性が自ら服を脱ぎ捨てて「わいせつ物陳列罪」で逮捕しろと迫る場面。荒唐無稽な展開に「こんなので立ち直れるわけないやろ」とツッコミを入れたくなるのですが、なぜか警察官は自信を取り戻し、最後には女性が「言語化できない……」と呟いて幕を閉じます。

このコントが示しているのは、対話劇の面白さが必ずしも「心地よい笑い」だけにあるのではないということです。言葉が不快感や違和感を生み出しながらも、それを受け手がどう受け止めるかによって笑いに転化されます。つまり、対話劇は作者の仕掛けと受け手の感性がぶつかり合い、時にズレながらも重なり合うことで成立する芸術形式なのだと感じます。

『出禁のモグラ』の核心:「ユーモアの三要素」

笑いのツボがどこにあるのかは人それぞれだと思いますが、より作品を楽しもうと思ったら、自分の感動ポイントや笑いのツボがどこにあるのか押さえておく必要はあります。それをどうやって見つけるのかという方法の一つとして、感想文を書いたり読んだりすることがあると思っています。自分で感想を書いたり、人の感想を読んだりして、興味関心のポイントを押さえてはっきりさせるという感じです。

私の場合、面白さを感じるのは作中に「意外な比喩」「シニカルなツッコミ」「知識をずらしたユーモア」があるような場合です。これらは単体でも面白いのですが、三つが組み合わさったときに最も強烈な快感が生まれます。意外な比喩が驚きを与え、そこにシニカルなツッコミが冷笑を加え、さらに知識を場違いに持ち込むことでズレが生じる。この三重奏が、私にとって物語が面白いと感じるポイントです。

『出禁のモグラ』で繰り広げられるキャラクター同士の対話は、まさにこの三要素を頻繁に組み合わせてくる作品でした。

『出禁のモグラ』における対話劇の魅力

会話の錬金術:三要素による「笑い」の構築

例えば、第1話、八重子と真木が「陽キャなゼミ生」について愚痴をこぼす場面が、ありますが、その中では次のようなやりとりがあります

八重子「世にも希有な太宰治と陽キャを両立できる文系マッチョなんだよ」
真木「いてたまるか、そんな生物が。つか広辞苑振り回して鍛えるなよ、あぶねーな。人間失格どころか人類の頂点じゃねーか。冒頭文、勝ち組の生涯を送ってきましただろ、くそが!」

第1話:『都内某所にて』

八重子が「太宰治と陽キャを両立できる文系マッチョ」という不可能な存在を持ち出す時点で意外な比喩が炸裂しています。真木が「広辞苑振り回して鍛えるなよ」「人間失格どころか人類の頂点じゃねーか」と返すことで、文学的権威を日常の筋トレに引きずり下ろす知識のズレが生まれ、さらに「冒頭文が勝ち組の生涯を送ってきましただろ、くそが!」という知識と毒を含んだツッコミが加わり、三要素が一気に重なります。

続く第2話でも同様の構造が見られます。八重子が犬飼詩魚の胸を「アルプス山脈」と形容する場面がありますが、それに対して真木が「IQ低い導入からのコメント出来ないオチで終わった」と冷笑するのはシニカルなツッコミになります。さらに八重子が重ねて「関東平野はダメですかね」と地理的スケールを持ち込むことで、知識をずらしたユーモアが加わり、ここでも三要素がそろった対話のリズムが心地よい笑いを生み出しています。

また第3話では、モグラが倒れ込んだ幽霊から鬼火を集める姿を見て真木が「羅生門の髪取り老婆みたいだ」と評する場面があります。ここでは笑いよりも、文学的知識を日常の光景に重ねるズレが生む不気味さと哀愁が強調されています。三要素はここでも健在ですが、笑いではなく虚しさが前面に出てくる。つまり、この三要素は笑いだけでなく、不安や切なさをも表現できることが示されています。

これらの場面を通じて分かるのは、『出禁のモグラ』の対話劇が「作者のセンス」と「受け手の感性」の重なりによって成立しているということです。

意外な比喩や知識のズレは、作者の教養やユーモア感覚が直に表れる部分です。そして、それをシニカルなツッコミに乗せることで、受け手に笑いの構造に対する問いを投げかける。受け手は作者の問いを理解するために、教養やユーモア感覚で同じ地点に立つことが要求されます。そして、同じ視点で見ることで問いに対する回答を「笑い」の完成として返すことが出来ます。つまり、対話劇の面白さは作者だけでなく、受け手の側の感性による受容が不可欠なのです。『出禁のモグラ』は、その重なりが見事に噛み合った作品で、だからこそ私は強烈な面白さを感じたのだと思います。

対話劇の深化:重いテーマと緩急のリズム

『出禁のモグラ』には対話劇に感じる面白さ以外にも、扱うテーマの面白さもあります。アニメ全12話を通して、作中にはいろいろなテーマが出てきますが、私として特に印象的だったのは第8話以降の島編です。

この島編は、民俗学のレポートの題材に困った真木が、八重子の出身地で行われる祭りを取り上げるため、モグラたち一行と一緒に八重子の故郷である島を訪れるということから始まります。

ここでは対話のトーンが一変し、共同体の闇や権力者の支配といった重いテーマが前面に出てきます。権力者が言葉によって人々を支配し、陰湿な嫌がらせを正当化する様子は、言葉の持つ恐ろしさを浮き彫りにしていきます。肉体的な暴力ではなく、言葉による印象操作によって人が追い詰められていく様子が、閉鎖空間とオカルト要素に特有の不気味さを伴って描かれていました。

しかし同時に、登場人物たちが間の抜けた対話を交わす場面も挟まれ、緊張と弛緩のリズムが保たれています。例えば、八重子が持ってきた高校の卒業アルバムを真木が見る場面です。この場面は、直前に行った祭りで偶然出会った、八重子の高校の同級生である森が話題になるところです。高校では美少年だった森が、祭りで出会ったときは変わり果てた姿をしていたことが気になった八重子が、アルバム片手に高校の頃の森の話をするところです。アルバムに映る森の姿をみた真木に対して、モグラが次のように語りかけます。

モグラ「真木。オレは分るぞ。今オマエが別件で心配になっているのが、気になるあの娘の地元の友達が、顔面潜在ポテンシャルSSR。これは全力で対処せねばなるまい」
真木「うるせーんだよ、おっさん」
モグラ「場合によって非合法な手も辞さない覚悟は必要だろう。良ければ協力するぜ。社会的に存在しないオレはその点で利用できる男だ」
真木「だまれよ、おっさん」

第9話:『人魚様』

場面としては、変わり果てた森の姿を心配するという重いトーンの中で、こういった男子の些細な心配ごとと、それを見透かしたまあまあお節介な中年の、くだらない対話が緩衝材として差し込まれます。ここでの対話は重たいテーマを扱いつつも、それまで同様、キャラの個性や面白さを浮き上がらせる物として機能してくれています。

賢さという「武器」が磨く「面白さ」の感性

『出禁のモグラ』を通して、自分が対話劇に感じる面白さを再確認してきました。意外な比喩、シニカルなツッコミ、知識をずらしたユーモアが重なり合う瞬を、最も強く「面白い」と感じる。それは作者のセンスと受け手である自分の感性が一致するときに生まれる快感であり、対話劇の面白さは常に両者の共同作業として成立しています。

同時に、その「一致」は偶然ではないとも感じました。それは自分の学びや人生経験の積み重ねが、作者の仕掛けを受け止めるための感性を育ててくれるからです。

物語の後半の島編では、八重子の父親が登場しますが、彼は八重子が大学に行きたいと言ったときに「嬉しかった」というセリフを口にします。彼は勉強して知識をつけることは賢くなるということであり、「賢さは武器になる」と言うのです。

物語のなかで八重子の父親は、島に古くから住み着いてる古参と呼ばれる地位にいる人物ですが、閉鎖的な島の生活にあって、島の権力者による洗脳や印象操作からは逃れている、常識人として描かれています。彼のこのセリフは、いつか自分の娘を襲うであろう、島の権力者からの攻撃に対して、娘が立ち向かうための武器を持つことを願ってのセリフです。

彼のこの言葉は現実世界に対する真理を突いた言葉です。「知は力なり」と言葉が示すとおりに、賢くあるということは、自分を襲う脅威に対して立ち向かっていく武器を持っているということに他なりません。

けれども、知識を獲得することは武器になるのとのと同じくらい、人生をよりよい方向に導いてくれる羅針盤にもなります。これは勉強し、知識を増やすことは、面白さに反応するセンサーの精度を上げる行為にもなるということです。教養は相手を打ちのめすための武器としての使い方だけでなく、笑いや驚き、共感や批評に到達するための回路を増やすという使い方も出来るのです。

だからこそ、より多くの作品に触れ、日々学ぶことは「面白さ」という個人的な豊かさを拡張する営みだと思います。言葉が世界を押し広げ、笑いが視野を柔らかくし、知識が理解の射程を伸ばす。対話劇はその交差点に立つ形式であり、『出禁のモグラ』はその魅力を改めて教えてくれるものだったと思います。また、勉強は、自分の世界を広げ、面白さを受け止める感性を磨く営みだと改めて考える機会を与えてくれた、そんな作品であったとも思います。

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キャ氏 画面の向こうにいるあなたに、私の言葉が届いたこと。そして、それが価値となって返ってくること。その事実に、大袈裟ではなく『生きていてよかった』という実感をいただいています。大切に使わせていただきます。