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海外移住をして犠牲にすることもあることを知る、在独15年

こんにちは、ドイツ在住「煮ても焼いてもドイツ」のニヤキです。
ドイツ生活のあれこれを中心に情報発信をしています。

(通常のnoteは「です・ます」調で記していますが、以下の記事を含め、自分の気持ちと向き合う内容の場合は「常体」で記しています)


30代頭に後先のことをほぼほぼ考えることもなく、若く(というには苦しいかもしれないが)と独身という、自分にさえ責任をもっておけばいいステータス(語弊はあるにせよ)だった当時の私。

まだ薄暗いある2月の早朝、駅の改札口まで送りにきてくれた両親に何度も大きく手を振りながら、私は1人、旅立った。
そのときの両親の姿は、15年近く経った今でもよく覚えているし、これから一生忘れることはないと思う。

そのときは、まだ結婚はしていなかったから、ドイツ生活が合わなかったり、彼(現在の旦那)と一緒に生活してみて、違和感を覚えるようなら、いつでも日本へ戻ってこられるという「オプションB」が心のどこかにあったのかもしれない。

いずれにせよ、私は前しか(というか目の前)しか見ていなかったし、新天地での新生活に胸躍らせていた。

一方で、あの改札をくぐった瞬間、私の未来は明確に選択され、他に星の数ほどあったであろう「選択肢」は「選ばれなかった未来」として消滅していったのだが、当時、私はそのことを知る由などなかった。

海外生活はこれで4か国目だったが、はじめてのドイツ。
彼との生活がはじまった。
まずは、ドイツ政府がビザ支給の条件としているドイツ語習得のために週5でドイツ語学校へ通い始めた。

のんびり楽しく毎日目新しい生活を楽しんでいたが、半年近くになろうとするころ、「はた」と気づいた。

私が日本で揃えてきた、結婚のための書類(当時は戸籍謄本やドイツ大使館が発行する婚姻要件具備証明書に外務省のアポスティーユ、そして超高額な公認翻訳者によるドイツ語翻訳など)の有効期限は発行日から6か月だったということを。

もし結婚を先延ばしにするのであれば、またはじめからこの非常に煩雑な書類集め+費用がかかる。

彼と即、Standesamt(戸籍役場)へ向かった。(ドイツでは戸籍役場の執り行う式を挙げなければ正式な婚姻とは認められない)
一番早くてとれる予約が2週間後。
私の書類期限は3週間後。

即決で予約をした。

そしてお互いの家族に連絡をした。
「2週間後に結婚するから」

日本の両親には
「急だし、来なくてもいいよ」

と伝えたが、勿論二人とも来てくれた。

また、本物の家族のような存在のオーストラリアの両親(高校留学時代のホストファミリー)も、わざわざオーストラリアから参列してくれた。
・・・2週間後の日程だったのに。

そんなこんなで、多くの女性が憧れるであろう「式の準備」や「ドレス選び」などはすべてすっとばし、2週間でできる限り、そして近所のレストラン・近所の花屋さん・近所の時計屋さん(指輪購入)など、すべて徒歩圏内で準備を済ませ、なんとか結婚式に間に合わせた。

ゆっくり考える暇もなく、ある意味勢いで結婚したが、とりあえず15年経つ今でも、婚姻関係は続いている。

当時の私は、「36歳位に第1子を~」みたいにのんびりと考えていて(今なら痛いほどわかる、私には「有効期限」があったのだということを)、結婚後、割とすぐに、自分の予定より数年早く第1子を授かったとき、少なからず動揺した。

まだ、自分自身がドイツに暮らすこともままならないのに、責任をもって母親なんてなれるのだろうか、と。

もう、そこからは終わりのないジェットコースター。(現在も絶賛乗車中)

ドイツ語もよくできない中の出産、そして育児。
周りに誰も頼る身内がいない生活。
はじめての子だからと思っていたが、いわゆる発達障害があるため「普通の育児」が当てはまらない息子との終わることのない挑戦の日々。

なんとか長男との生活も出来上がってきて、心に少しだけ余裕ができてきた中での第2子はトリソミー18のため、妊娠中期で流産。

その後、第3子として娘を授かり、そこからまた育児の再スタート。

現在は、息子が12歳、娘は6歳になり、少しずつ私も自分のしたい仕事を広げていけるようになってきたところだ。


ようやく子どもたちも24時間100%の注力が必要でなくなってきた矢先、気づいた現実は日本の両親が気づかぬ間に年老いていたこと。

15年前の、まだ両親が元気で将来の不安などを感じなかったころとは状況が一変してしまった。

私が、目の前の子どもたちに全身全霊で向き合ってきたことに後悔は全くないが、その間にどんどん年老いてしまった両親。

いつまでも若くて元気でいてくれると思って、気軽に日本を出てしまった15年前。

子どもたちの成長は喜ばしく、時計の針が進むことは「成長」を意味していた。

時計の針が進むことが「老い」を意味することもある、と理解したのはほんの最近のことだ。

私がどこにいようとも、自分も親も時間と共に年を重ねるのは当然のこと。

1年に2回は必ず帰国していたが、こう思ってしまうことは否めない。

「もし、私が近くに住んでいたのなら、どんな今があったのか」と。


つい先日、日本の祖母が亡くなった。
96歳で大往生だった。
我が家は共働きだったため、祖母が私の母代わりであった。
私が大人になってからも、新幹線に乗って一緒に祖父のお墓参りに行ったり、私が暮らしていた地方都市に遊びに来てくれたり、転職して東京に暮らすようになってからは、仕事帰りに祖母の家に泊まりにいったり。

ひ孫が生まれたことを本当に喜んでくれて、人生の最期10年はひ孫の成長を楽しみに生きていてくれた。

私は幸運にも、祖母が亡くなる2週間前に1人で日本へ行く機会に恵まれ、最期にこれまでのお礼とお別れを直接伝えることができたので(認知がうまくいっておらず、私とわかっていなかったかもしれないが)自分の中での後悔は少ない方だとは思う。

でも、やはり思う。
「近くに住んでいたら・・・」と。

15年前に自分がした選択に後悔はないし、もし時間が巻き戻せたとして、私にもう1度選択する機会が与えられたとしても、私は同じ選択をすると思う。

私がこの15年で得た経験、楽しいことも、幸せなことも、悲しいことも、悔しいことも、すべてひっくるめて全てが尊い。

何よりも、子どもたちが生まれてきてくれたことは、私の人生で起きた最もかけがえのない出来事だ。

遠く離れた国に住んでいるからこそ、歯がゆい思いをするということは経験してみなければわからなかったことであったとも思う。

祖母を失った喪失感と、今後、遠からぬ将来に同じような喪失感をあと何度か味わわなければいけない現実と。

15年前に、今の私の視座をもって人生を選んでいたら、絶対に二の足を踏んでいると思う。

若さゆえ、目の前しか見ていないが故、選択できることもある。

当たり前のことだが、人生、そのときにならないと見えないこと、わからないことだらけだ。

これまで以上に、日本の家族を気遣いながら、ドイツでしっかり我が子に向き合おう、そう思った在独15年の私だった。

・・・これまでは100%ドイツ拠点の生活であったが、最近、多々思うことが重なり、今後の在り方を模索している最中だ。

今後の生活については、計画や考え、実際の行動などをまたnoteに記していこうと思う。






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