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海外で大切な「非言語」能力と「空気を読む」ことについての考察

こんにちは、ドイツ在住「煮ても焼いてもドイツ」のニヤキです。
ドイツ生活のあれこれを中心に情報発信をしています。


これまでオーストラリア、インドネシア、イギリス、そしてドイツと海外で暮らしてみて感じたことは、「言語」はもちろん大切ですが、「非言語」について理解しているか否かは更に大切である、ということです。

「非言語(nonverbal)」とは、言葉を使わずに行われるコミュニケーションのことを指します。人は会話の中で、言葉だけでなく表情やしぐさ、声のトーン、間のとり方など、さまざまな要素で気持ちや意図を伝えています。

挨拶の流儀や人との距離の取り方、服装などの身だしなみや更には色のチョイスなども非言語にあたるとされています。

言葉をなぞらえるだけではなかなか見えない相手社会の価値観や暗黙のルールが存在し、それらをひっくるめて「非言語」を理解できるかどうかが、海外でスマートに振舞えるか、ひいてはサバイバルできるか、に繋がってくるのだと思います。

メラビアンの法則」を大学や企業研修などで紹介された人もいると思います。人が他者の感情や態度を理解するときに影響する割合は

  • 言語情報(話の内容):7%

  • 聴覚情報(声のトーン・話し方):38%

  • 視覚情報(表情・態度・しぐさ):55%

であるとし、この法則を提唱した心理学者のアルバート・メラビアンは「感情や態度の伝達においては、言語よりも非言語の影響が大きい」と指摘しています。

私も全くその通りであると思いますし、言語や非言語の大前提が異なる海外では更にその「非言語」部分を理解しているかどうかが肝になると思っています。

高校留学時代に勘違いしていたこと

初めての長期海外生活だった高校留学時代。
オーストラリアの高校に留学していた16歳の頃、新参者であった私に最初は親切だったみんなが、時間が経つにつれ、段々と私のことをからかったり、私が「失礼だ!」と思うようなことをしてくるようになりました。

「私は嫌われてしまったのだろうか?」
「何か間違ったことをしてしまったのだろうか?」
としばらく悶々と悩み、毎日学校へ行くのが苦痛でしょうがありませんでした。

あるとき、たまたま目にした「ルビンの壺」(壺と人が向き合っている絵と、2通りに見える多義図形)を見てハッと気づきました。
「これは、私に嫌がらせをするためにからかっているのではなく、彼らなりに私を友達と認めてくれたから故の行動ではないか?」と。

私の認識の仕方が変わってから、試しに自分も友達のことをからかうようにしてみたところ、急に相手との距離が縮まり、それまでは声を掛けられなかった映画館やお泊まり会へのお誘いなど、表面上だけではない本当の友達になっていくことができました。

あれから約30年経った今でも、その中の数人とは変わらず友達でいることを考えると(さすがにもう、お互いをからかったりはしませんが)あのとき最初は本当に辛かったけれども、諦めずに悩みぬいて、私の常識であった「からかう=嫌いだから」から彼らの常識であった「からかう=本当の友達だから」に気づき、自分の行動スタイルを変えることが出来たからこそ生んだ結果だったのでは?と思っています。

インドネシアの大学時代に経験した強烈な居心地の悪さ

非言語コミュニケーションは普遍的に存在しますが、その解釈や使い方は文化的価値観に大きく左右されます。
つまり、非言語は単なる身体的な動作ではなく、その社会が大切にする価値観を映し出す鏡なのだと思います。異文化間での誤解は、言葉の壁よりもむしろ非言語の解釈の違いから生まれることが少なくありません。

私のインドネシア留学時代に経験したことをご紹介したいと思います。

大学生のとき、インドネシアの地方都市で1年間現地の大学に通いました。外国人が珍しい地域だったこともあり、道を歩けば老若男女問わず「じーっ」となんとも言えない視線を送ってきたり、近隣住人から家の中を見張られていたり(わざわざ屋根に登って開けっ放しにしてある裏庭の扉から覗いていた)、ことあるごとに注文(文句)をつけられたり、陰でこそこそ言われたりと大変暮らしにくい思いをしたことがあります。

それこそ日々人と関わったり、外出したり、とにかくその場にいることですら大変なストレスで、仕舞には自律神経失調症にもなりました。

インドネシアを離れてからも、それこそ10年以上、そのネガティブな体験を昇華できずにいて、その地域の人たちや文化に対して長きにわたって嫌悪感を抱き続けていました。

時間と共に徐々に自然治癒的に傷が癒えていったこともありましたが、結局帰国してから何年も経ってから、次のようなことをある人から教えてもらい、自分の中で落とし前がつきました。

その地域は当時、時代の大きな変革期にあり、外の人間に対して非常に恐怖心を持っていた、そしてイスラム教信仰の強い地域だったため、未婚の女性は集落で守らなければならない、という決まりごとのようなものがあったそうです。

私だけでは知りえることのなかった「理由」を知り、自分の中で納得し、ネガティブに渦巻いていた嫌悪感を葬り去ることができました。

この体験は、まさに自分の物差しを相手に押し当ててしまった事例ではないかな?と思っています。その地域にあった常識やしきたりを頭ごなしに否定してしまった20代の頃の私。

当時は分からなかった彼らの物差しを若干ではあるにせよ、後から知ることとなり、もしあの時に戻れるのであったら、果たして自分はどういった行動をとり、どう生活していただろうか、と考えます。

ここで大切なのは、自分が無理してすべて相手のやり方や考え方に合わせるということではない、ということです。(そんなことをしていたら、それこそメンタル崩壊につながります)自分の価値観はしっかりと、自分の中に持っておくべきだと私は思います。逆に相手にも相手の価値観があり、それがすべてだと考えているでしょう。

歩み寄れるとするならば、自分の価値観はそのままに、自分に無理が生じない程度に「ちょっとした行動を変えてみる」ということができるかもしれません。

例えば、先のインドネシアの体験例の中で言うと、私は「彼らの宗教観を押しつけられた」「自分のことは否定された」と感じていました。

私がすべきことだったのは、自分もその宗教を信じよう、好きになろうとすることではなく、自分には自分の信念があるけれども、最低限の彼らのルールを守る(目立った言動は避ける、日が暮れてからは異性と出歩かない等)ことで、譲歩をしつつ、一方で自分の曲げられないものについてははっきり線引きをしておく、ということであったのだと思います。

「空気を読む」のは非言語表現か?

「空気を読む」とか「相手のことを慮(おもんばか)る」などということを程度の差こそあれ、自然とやってのける多くの日本人。

表情や視線、声の抑揚や間の取り方、姿勢・距離感、沈黙やため息などの非言語サインを総合的に解釈し、更に「場の文脈」や「人間関係の力学」まで含めて総合的に判断するのが「空気を読む」という高度な解釈行為であると思います。

これを例え小さな子であってもやってのけている日本は本当に奇跡の国だなと感じます。

しかし、一旦国外に出てしまうと、自分の今まで使っていた物差し(例えば「空気を読む」)が全く通用しないことがあるということは、前述の通りです。

自分がしているように、「こちらの言わんとしていることも分かってよ!」とそもそも「空気を読む」という文化のないところに育った人たちに期待をし、それが叶わなかった際には裏切られたと言っては腹を立て、どんどんと相手に対して嫌悪感を募らせていく・・・というケースが多く存在するのを見てきました。

日本人の特殊能力と言っても過言ではない「空気を読む」についてですが、「空気を殆ど読まない」「読もうとしない」国の典型、ドイツに暮らしていると、たまにビックリするような場面に出くわしたりします。
(私の旦那もドイツ人なので、結婚して15年になりますが未だに度肝を抜かれることをやってのけることが多々あります 苦笑)

例えば、誰かが食事を振舞ったとします。
日本人的(少なくとも私は)であれば、出してくれた食事には有難いという気持ちを表して、口に合わないものでもなんだかんだやりすごす、という人が多いのではないかと思います。(自分の嗜好<その場の雰囲気)

それがドイツ人だと、「私の口には合わない」とハッキリと言ったり、最悪その場で口から食事を出す、なんて場面にも遭遇したことがあります。食事を提供した人は、それは微妙な表情をしていました。(自分の嗜好>その場の雰囲気)

また、こちらも実際にあった例ですが、私があるドイツ人女性へプレゼントをしたんです。
しばらくしたら、「私の趣味じゃないから」と直接返品されました(苦笑)

・・・私だったら、誰か別の人にあげて、プレゼントした本人には黙っているけど、ブーメランのように自分のところにあげたものが戻ってきたのはここドイツが初めてです。周りの人にプレゼントが返却された話をすると、ドイツでは結構当たり前のようで、結構同じようなエピソードを耳にします。

恐らく、ドイツ人にとっては、自分に嘘をつかず、正直に相手に伝えることを誠意だと思っているので、彼らに何の悪気もないのだと思います。
むしろ、本当は好きではないのに好きと言ってしまって、また同じようなものをもらうようなことになったら相手に悪い、と。

私の推測ですが、日本人的な空気の読み方をすると、あげたときの相手のリアクションや雰囲気、声のトーンなどで大体察しがつくのだと思います。
(・・・あ、気に入ってないな)とか(・・・あ、無理して食べているな)とか。

なのでわざわざ口にだして否定ともとれることを言われたくないと思ってしまいますが、「言わないと相手には伝わらない」という考えの人だったらどうしても相手に伝えようとするのだろうな、と思います。

非言語を意識することは、相手を理解するだけでなく、自分をどう見せるかにもつながります。面接での姿勢や握手の強さ、プレゼンでのアイコンタクトや声の抑揚は、言葉以上に信頼感を左右する、とその昔、新人研修で学びました。

結局のところ、非言語は「言葉の外側にあるメッセージ」です。私たちは無意識のうちにそれを発し、受け取りながら生きています。だからこそ、相手の表情や声色に耳を澄ませ、自分の態度にも気を配ることが大切なのではないかな、と思います。(ドイツで暮らしていると、往々にしてその気配りも一方的だったりもするのですが・・・)

言葉だけでは届かない思いを、非言語が補ってくれる。そこに人間同士のコミュニケーションの奥深さがあるのだと思います。

なんだかんだ、ドイツに暮らして15年。
この国が大好き!というわけでもなく、かといってこの国に敵対心をもっているわけでもなく。
自分ではいたってニュートラルにのらりくらりと生活をしています。

今、自分がこうして自然体で暮らしていられるのも、若いころからの経験で清濁併せ呑む度量(という程立派なものでもないですが)を培ってきたからなのかもしれないなぁ、と思います。

「住めば都」にしていきたいので、これからも中庸に暮らしていきたいと思う毎日です。


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