『ノエシスは愛を知らない』 第10章 世界が消える前に #50 蓮見怜に関する噂
【前回までのあらすじ】
家庭用AIミナの異常を確認するという名目で、再び六本木で会いたいと蓮見怜から連絡を受けた朝倉ユキは、食事の誘いも含めてOKする返事を送った。浮足立ったユキは仕事が手につかなくなり、まだ3日前だというのに着るものを探すためにクローゼットの中を物色した。
ORd東京連絡局のフロアにある女性職員専用のロッカールームは、職員同士の情報交換の場でもある。
上司へのグチが出ることもあれば、仕事のキツさを嘆く声もある。
取り組んでいる婚活の進捗状況など、女性ならではの話題で盛り上がる。
その日もロッカールームで、あるガールズトークが繰り広げられていた
「沙紀さん、お疲れ様です……もう上がりですか?」
入局8年目になる解析室の職員が、向かいのロッカーを使っている先輩の二ノ宮沙紀に声をかけた。
「お疲れ……このところ、情勢緊迫してるじゃない? 今日は早く帰らせてもらおうと思って」
「聞いてください、沙紀さん。昨日、見ちゃったんですよ、私……下で蓮見さんを」
その職員は人差し指で床を差しながら、少し興奮気味に話し始めた。
「下って……」
「5階のショッピング街。メンズフロアですよ」
「えー? あの人って、そういう所で買い物する人なんだ」
「あそこに穴場のカフェあるの知ってます? 彼氏と待ち合わせに使ってるんですけど、向かいのショップで蓮見さん見かけちゃって」
知性的な顔立ちをした沙紀は、ロッカーの鍵を閉めると振り返った。
「なに、その話、面白そう……ちょっと座って聞こうか」
二人はロッカールームの奥にある、休憩用のソファに並んで腰かけた。
「蓮見さん、白いシャツを熱心に選んでるんですよ……向こうは横向いてたから、私には気付いてなかったけど」
「え、白……? 白いシャツなんか着ないでしょ。いつも全身黒じゃない」
「まさかと思うけど、婚活でもするんですかね……デートかな」
それを聞いた途端、沙紀の顔色がわずかに変わった。
「誰かと一緒だった?」
「いや、一人でした。閉店間際の時間でお客は彼一人だったから」
沙紀は分かりやすく、ホッとしたような表情を見せた。
「沙紀さん、蓮見さんのこと、狙ってたりします?」
「そんなふうに見える?」
「余計なお世話だと思いますけど、やめた方がいいですよ? ああいう人は」
解析室の職員は、膝に置いた化粧ポーチのファスナーに手をかけた。
「 "黒のプリンス" なんて呼んでますけどね……職場の若い子たちは蓮見さんのこと」
「黒のプリンスかぁ……言い得て妙だね」
「貴公子然としてるというか……一般人とはレベルの違う人ですよね。ルックスにしても経歴にしても」
ポーチからリップカラーを取り出すと、解析室職員は唇に塗り重ねた。
「蓮見さんて、謎めいてるじゃないですか……どこに住んでるかも分からないし、私生活がまったく見えない」
「確かにねぇ……久我統括は彼の居場所、把握してるみたいだけど」
「昼夜問わず、どこからともなく職場に現れて、統括の部屋に入っていったと思ったら、いつの間にか消えてるでしょ」
クールな眼差しをした沙紀は、静かに頷きながら腕を組んだ。
「うちの局、リエゾンは他にもいるけど、蓮見さんだけですよ。専用車で送り迎えされてるの」
「うん……久我さん、彼に目をかけてるしね」
「それなんですよねぇ……蓮見さんて一般採用じゃなくて、統括がスカウトしたんですよね?」
「そうなんだよね。他のリエゾンは一般採用なのにね」

「蓮見さん、来年、ボストンの本部に行くの知ってます? 長期出張だか出向だかで」
「えっ、そうなの……? 知らなかった」
「沙紀さん分析官だから、聞いてるとばかり思ってました。解析室ではもっぱらの噂ですよ……蓮見さん優秀だから、本部に呼ばれたとか何とか」
「そうなんだ……あの人、英語も堪能だからね」
「本人がボストン行きを希望したって話もあります。あくまで噂ですけどね……正式発表されてるわけじゃないし」
解析室の職員は、ちらりと横に座る沙紀の顔を見た。
「ああいうワケありな人は難しいですよ。私たち女子には優しいし、みんな彼には憧れてるけど」
「そうね……掴みどころのない人ではあるよね」
「ああいう人は、女を幸せにはしないですよ」
解析室職員は、ポーチから丸いハンドミラーを取り出した。
「後輩の私が言うことではないかもしれないけど、男の人はやっぱり、居所を把握できて晩御飯の時間には帰ってくる人がいいですよ」
「そうだよね……蓮見怜は、観賞用ってことかな」
沙紀は目を伏せて、自分の膝をじっと見つめた。
「そうそう、眺めてるだけが無難……沙紀さん、局で一番の美人だし、仕事はできるし人望もあるし、憧れてる男性職員、結構いますよ?」
「いいよ、そんなお世辞は……私も若くはないし」
「お世辞じゃありませんて。沙紀さんのために情報提供してます」
ハンドミラーで化粧崩れをチェックすると、解析室職員は立ち上がった
「蓮見さん、白いシャツ、職場に着てきますかね?」
「ちょっとした見物だね。黒のプリンスが白を着ることがあるのかどうか」
「着てきたら注目だけど、着てこなかったら買わなかったのか、やっぱりデートかなぁ……冠婚葬祭用とか? あの人、そういう場に行くんですかね」
沙紀も立ち上がると、ワイドパンツの皺を軽く手で払った。
「白も似合うと思いますけどね……もし職場に着てきたら、後輩の女の子たち、またロッカールームで騒ぎますよ」
「私も注意して見ておくよ。有益な情報、ありがとう。時間取らせてごめんね……そろそろ帰るわ」
「お疲れ様でーす。お役に立てて良かった……じゃあ、また明日」
主な登場人物
ORd東京連絡局
国家・企業・AIネットワークの境界を監視する国際機関。表向きには存在しない東京連絡局を、六本木コアタワー内に置いている。蓮見怜の直属の上司である久我宗一が統括責任者を務めている。
蓮見 怜 / はすみ れい
ORd東京連絡局に所属する、35歳のリエゾン (連絡官)。容姿端麗にして頭脳明晰、統括官である久我に目をかけられており、組織内では特別な存在として注目を浴びている。
二之宮 沙紀 / にのみや さき
入局10年目になるキャリアを積んだ分析官で蓮見怜の同僚。各種システムのログ解析を担当する冷静で優秀なスタッフ。職場の先輩である怜のことが異性として気になっている。
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