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短編小説『スパルタ〜35年前の父の記憶が、私を救う〜』

 本作品は、私・野村葉が初めて書いた小説です。9,000字ほどありますが、お読みいただければうれしいです。


【イントロダクション】
 2025年、65歳の木村浩は脳梗塞を発症し搬送先の病院で手術を受けるが、2060年に息子である翔太として目を覚ます。実は、翔太は完全自動運転のロボタクシーに乗り込んだ直後、原因不明の虚血症で意識不明に陥っていたのだった。



1. 脳梗塞発症

 2025年9月、暑い夏がまだ続いていた。

 九州北部のベッドタウンに住む木村浩きむらひろしは、1960年生まれで65歳。来年3月で定年退職を迎える。子どもたちは独立し、妻と二人暮らしだ。

 このところずっと、体の調子が良くない。健康診断のたびに高血圧を指摘されていたが、「症状もないし、気にする必要はない」と放置していたら、還暦を過ぎてからめまいや息切れに悩まされるようになった。

 たしかに50代は忙しかった。部長職を務め、ストレスに耐え、睡眠不足も厭わずに働いた。今考えると、もう少し体をいたわるべきだったと思う。

 61歳で血圧を下げるための降圧剤を服用することになり、動脈硬化を改善するためにウォーキングを始めた。几帳面きちょうめんな性格で、起床するとすぐに素っ裸になって体組成計に乗り、そして血圧を測定する。そんな生活を続けていた。

 9月11日の昼前。平日だが仕事は休みだった。妻が所用で出かけていたので、一人でランチに行こうと玄関に出た時、右腕が突然痺れ出した。それは初めて経験する感覚だった。肘と手首を起点にして右腕が内側に曲がったまま指先まで動かない。

(何だ、これは?)

 木村は脳の疾患を疑った。とにかく救急車を呼ばなければと、それだけが頭に浮かんだ。スマホで119番し左手だけで靴を履いて待っていると、遠くからサイレンの音が近づいてくる。

 木村は近くの総合病院に搬送された。

 30分ほどで右腕の麻痺が回復してきた。「大したことなかったのかも」と独り合点していたら、近づいてきた脳神経外科の医師から「脳梗塞です。このまま入院してください」と宣告された。「MRI(磁気共鳴画像診断装置)で撮像しました。『アテローム血栓性脳梗塞』です。左の頸動脈狭窄けいどうみゃくきょうさくが見られます。かなり狭くなってますね。これが原因の可能性が高いです。ウチの病院で検査して三年前からそう言われてたでしょう」と、責めるような口調でまくし立てられる。

 頸動脈狭窄とは、頸部にある動脈にプラークが溜まり、血液の流れる部分が細くなってしまう病気だった。このプラークが剥離して脳の血管を詰まらせることはよくある。

 木村は初めて聞いたという顔をしていたが、やがて記憶が戻ったような表情になり、「ああ、そうでした。どうも脳梗塞で頭がボーッとしてたようで。すみません、確かにそうでした。こちらの病院で気をつけるように言われていたんでした」と答えた。

 木村の65年の人生で入院は初めてのことだったが、運よく個室に入ることができて気が楽になった。

 病室ではすぐに、血栓予防の「ノバスタン」と脳の保護を目的とする「エダラボン」の点滴を受けた。またコレステロールを下げる「ロスバスタチン」、血栓ができるのを抑える「バイアスピリン」と「エフィエント」、それに胃薬の「エソメプラゾール」の計四種類の薬を毎日服用することになった。血圧を下げる薬の「アムロジピン」は、脳梗塞を再発する恐れがあるためしばらく禁止された。

 食事は意外と美味しかった。塩分を抑えるために味噌汁は日に一回しか出ない。野菜をふんだんに使ったメニューで、薄味でカロリーが低く、これなら体重が増える心配はなさそうだった。

 毎日リハビリがあった。言語聴覚士、理学療法士、作業療法士が、それぞれ病室まで迎えにきてくれる。

 入院して一週間たった頃、担当医が木村の病室にやって来た。この病院に搬送された時に「脳梗塞です」と告げた、例の医師だった。年齢は木村より若いようだ。50代だろうか。しかし、激務のせいか白髪混じりの髪はボサボサで老けて見える。

 「とりあえず、点滴と内服薬で脳梗塞が再発しないようにしていますが、一日も早く手術をしたほうがいいでしょうね。あと一週間したら脳のれもおさまって落ち着いてくると思うので、その後にすぐ頸動脈狭窄の手術をしましょう」と、初めて会った時と同じ調子で捲し立てた。

 医師から押し切られた形になったが、木村はこの機会に手術をしてしまおうと決めた。三年前にこの病院で、「頸動脈狭窄」と診断された時の記憶も戻ってきた。あれからずっと自分は体の不調と向き合ってきた。「本当に大変だったな」と思う。今回は軽度で運よく麻痺が残らなかったが、脳梗塞がもう一度起きたらどうなるかわからない。これは「幸運な警告」だったのだ。

 手術することに決めて心に余裕が出てきたのか、木村はあることに気がついた。医師も看護師もリハビリ担当者も朝昼晩の配膳も、いつも同じ人物だということに。

 医師については担当医しか知らないというのはおかしいことではないにしても、看護師はどうだ。入院当初から「彼女」の仕事ぶりには頭が下がった。日に何度も病室に来て、検温、血圧測定、脳梗塞の症状の有無を確認し、結果をその場で電子カルテに入力する。朝食後の服薬の確認も怠らない。木村が四種類の薬を飲み終わるのを見届け、空の包装シートは持ち帰る。しかし朝昼晩そして毎日、看護師はいつも「彼女」だった。他の看護師を見たことがない。

 「この病院も人手不足なんだな」と最初はそう思っていたが、いくら何でもおかしい。休日返上で毎日24時間病院に詰めているなんてありえない。

 担当医にある日、「みなさん、ずっと病院にいらっしゃるんですね。ロボットみたいに働いてますね」と冗談のつもりで伝えると、顔色が変わった。いつも表情のない担当医の顔がほころび、「木村さん、よかったです。症状が改善してますね。その調子です」と言うのだった。

 今度は木村の顔色が変わった。

「えっ、どういうことですか?」

 担当医はそれには答えず、病室から廊下に出るとあっという間に姿を消してしまった。

2. 手術成功

 手術に備えて四日間にわたる検査が始まった。

 一日目は七つの検査が入っていた。採血、胸部レントゲン、心電図、ABI、心臓エコー、MRI、頸部エコー。ABIとは、足首と上腕の血圧比を測り、動脈硬化の度合いを評価するものだ。検査は地階から二階までのフロアにある検査室にそのつど出向いていく。

 二日目は頭頸部とうけいぶ血管造影だった。鼠蹊部そけいぶと呼ばれる、脚の付け根の動脈からカテーテルという細い管を通し、それを頸の血管まで進めて造影剤を注入してレントゲン撮影するのだ。前日にシャワーを浴び、鼠蹊部付近の毛剃りをする。「自分でやってください」と、看護師の「彼女」から電動シェーバーを渡された。

 造影後は止血のためにベッドで数時間の安静が求められる。トイレに行けないので採尿器を使うことになる。木村は尿道に管を入れた経験はなかったが痛そうなので、最近使われ始めたというコンドーム型収尿器を選択した。しかし造影当日の朝、看護師の「彼女」が持ってきてくれた収尿器の「取り付け」には難儀した。「コンドーム」という名称から抱くイメージとは異なり、取り付け部分のゴムが分厚くて硬いのだ。高齢者の男と若い女性看護師の二人が、男の下腹部を前にして四苦八苦する様子は滑稽だっただろう。

 その後、ストレッチャーで二階に運ばれた。血管造影装置(アンギオ装置)の寝台に仰臥ぎょうがさせられる。担当医が木村の前に一人で立つ。右脚の鼠蹊部に麻酔の注射が打たれた。局所麻酔なので、最初から最後まで意識ははっきりしている。造影剤が何度も注入され、そのたびに何ともいえない不快な熱さが頭の中に広がった。

 造影は一時間ほどで終了した。病室に戻され夕方までの安静が指示される。コンドーム型収尿器が途中で外れてしまったので、木村は寝ながら尿瓶しびんに放尿した。

 三日目はヨード系造影剤検査とMRI検査があった。この日のMRIは、磁力の強さが初日の二倍ある最新機器だった。木村は閉所恐怖症で、以前はMRIのガントリーと呼ばれるトンネルに入ることができなかったが、この頃は我慢できるようになった。

 入院してから思い出したのだが、実は、木村が62歳の時にこの病院で「左の頸動脈狭窄」と診断されたのは、MRIによる検査結果からではなかった。MRIに入ることができなかったのだ。いや正確にいうとMRIのガントリーには入ったのだが、あまりの狭さにパニックになり検査技師を呼び出すボタンを押し続けていたのだった。総合病院は患者が多く、MRIの検査スケジュールは埋まっているのが普通だ。ひとりの患者に時間をかけることはできなかった。けっきょく医師の判断で、五日後に造影CT(コンピュータ断層撮影)検査を受けることになった。こちらは機器にそれほどの閉塞感はないが、画像の作成に時間がかかるので、医師による診察は検査の数日後になってしまう。

 ただ木村には、このままでいいのかという思いがあった。「先のことを考えると、MRI検査を受けられるようにしておかないといけないのではないか」と。そこでもう一度挑戦することにした。ガントリーに入ってわかったのだが、下半身は外に出ているのだ。そのことに気づいてから恐怖心は半減した。もちろんまったく平気というわけではない。目の前にガントリーの壁が迫ってくると息苦しさを覚える。そういう時は、外に出ている下半身をイメージすることにした。

 四日目はアセタゾラミド負荷脳血量シンチグラフィ検査だけだったが、これが難物だった。寝台に仰臥し微量の放射線を含んだ薬剤を注射して脳の血流を特殊なカメラで測定するのだが、一時間ほどの間ずっと頭と体を固定され、光の刺激を遮断するため目隠しまでされるので、閉所恐怖症の木村にとっては戦慄以外の何者でもなかった。おまけに、機器を冷却するため検査室がかなり寒いのだ。木村には妄想癖があるのかもしれない。こういう時、生きたまま棺桶に入れられて地中に埋葬されている自分を思い浮かべてしまう。

 緊張のあまりかそれとも薬剤のせいか、ガラガラと乾燥機のような音を立てる機器の中で途中から寝てしまった。「あと13分で終わります。がんばってくださ〜い」という、検査技師の声で目が覚めた。駅のホームで電車を待っているつもりになって残りの時間を耐えた。最後の検査を何とか終え、木村はフラフラになって自分の病室に戻っていった。

 この日の夕方、木村は担当医から検査結果の説明を受けた。左の頸動脈狭窄率は85パーセントで、頸動脈の太さは成人男性は6〜7ミリあるが、木村の場合は1ミリ弱しかないという。血管の太さが1ミリもないという現実に、木村はさすがにショックを受けた。早期に手術をし血管を拡げてもらうしかないと、それだけを思った。

 頸動脈狭窄の手術には、首を切開して血管内部のプラークを削いで直接取り除く「頸動脈内膜剥離術(CEA)」と、鼠蹊部からカテーテルを入れて頸動脈にステントを留置して拡げる「頸動脈ステント留置術(CAS)」があるが、木村の場合は後者のステント留置術を三日後に実施することが決まった。

 手術の予定日が決まってから、自分の名前の「浩」に、木村は違和感を覚え始めた。「浩」と呼ばれるとひどく懐かしい気持ちになるのだが、自分ではないような、そんなどこか間違っているような感覚。そしてどうにも我慢できなくなって、そのモヤモヤを担当医にぶつけると、「木村さん、よかったです。いいです。症状がものすごく改善してますね。もう少しです」と褒められたのだった。

 頸動脈ステント留置術の手順は、頭頸部血管造影と基本的には変わらない。ただ太いカテーテルを使うので、止血と血栓予防のためにベッド上での安静が翌日の午前までとなる。長時間なので排尿のため尿道に管を入れることになった。看護師の「彼女」がテキパキと作業を進める。管が前立腺近くを通る時は声をあげるほど痛かったが、終わってしまうとそれほど違和感はなかった。

 ストレッチャーの準備ができ、二階の手術室に運ばれていく。

 担当医が施術してくれる。今回は、鼠蹊部の動脈からまずバルーンカテーテルを入れて頸動脈の狭窄部を拡げ、それからステントを留置することになる。木村は仰臥しているので担当医の手元は見えない。しかしかなりの速さで手を動かし、ルーティンをこなしているのはわかった。

 カテーテルの正確な位置を把握するために、放射線が断続的に照射されている。担当医は防護衣と防護用メガネを着用しているが、それらに加えて放射線の盾になるパネル状の器具も使っていた。

 「ここからは動かないでくださいね。唾を飲みこむこともしないでください」と言われる。狭窄部にステントを置くのだ。喉が動くと血管の位置がズレてしまう。ミリ単位の作業だ。

 そして手術は終了した。担当医は、カテーテルを引き抜いたあとの傷口を手で強く押さえ続ける「用手圧迫止血ようしゅあっぱくしけつ」を行い、止血バンドで固定する。終わった。木村の血管は拡げられ、脳梗塞から免れたのだ。しかし次の瞬間、不思議なことが起こった。「翔太しょうた」という名前が、ふいに頭に浮かんだのだ。頸動脈がステントによって拡張されたために血流が変わり、脳が混乱しているのだろうか。しかし、木村は「翔太」というその名前をすぐに忘れてしまった。

 木村にとってはどちらかというと、手術が終わってから翌日の午前までのベッドでの安静の方が気が重かった。モニター機器が体のあちこちにつながれ、点滴と尿の管もあって身動きが取れない。便意を催すといけないので、この日の食事はすべてキャンセルした。こまめに水を飲みながら排尿を繰り返す。担当医の来訪が待ち遠しかった。ずっと寝ているのでさすがに腰が痛い。翌日、鼠蹊部の傷を確認し「安静終了」の指示が出た。ようやく終わった。9月11日の脳梗塞発症から手術までは長かった。木村は解放されたのだった。

「木村さん、明日は退院ですよ」

 その日の夜、看護師の「彼女」から告げられた。

「本当ですか。うれしいな。看護師さんにはお世話になりました。それにしても毎日出勤だったみたいだけど、大変だね」

 木村の言葉に、「彼女」は微笑を浮かべ、病室から出ていった。その後、木村はすぐ眠りについた。

3. スパルタ

「木村さん、木村浩さん」

 見知らぬ高齢の男性が木村の顔を覗きこんでいる。白衣姿だ。

「意識が戻りましたね」

 そこは病院のようだった。MRIによく似た機器の寝台に仰臥している。

(「浩」は親父の名前だよ)

 苦笑しながら、「翔太です」と答えると男性は、「そうでした。失礼しました。木村翔太さんでしたね。もうだいじょうぶですよ。2060年に帰ってきましたね」と笑った。その瞬間、何とも形容し難かった体の不調は嘘のように消えた。自分の世界に戻ってきたという安心感が木村を包んでいた。

 ここは東京にある国立病院機構の医療センター。男性は医師だった。

「あとは、AI医師から説明があります。ここは人間のスタッフが少なくて、こんな年齢まで働かされて」と、ぶつぶつ言いながらどこかへ行ってしまった。

 先ほどの医師の後ろに隠れていた人物が姿を現わした時、木村は思わず「アトムだ」と叫んだ。大きな目に、特徴的な髪型は、間違いなくあの有名キャラクターだった。

「おかしいですね。木村さんは1995年生まれですから、リアルタイムで『私』のことを知っているはずはないのに。おそらく、お父さんの記憶がまだ残っているんでしょうね」

 そう言って彼はウインクした。

 木村は診察室に案内され、ソファを与えられる。向かいの椅子にきちんと座っている「アトム」は、ロボット型AIの医師だった。人間が恐怖心を抱かないように、ボディは小型に設計されている。もちろん、AI本体は別の場所にある。両者は、アンテナの役割を果たしている病院の建物を経由して無線で結ばれていた。

「こちらの病院に運ばれてきた時のことを覚えてますか?」

 AI医師の発声は聴き取りやすかったが、近くにあるディスプレイにも二人の発言内容が文字化されている。

「はい。思い出したような気がします」

 木村翔太は、外出するために完全自動運転のロボタクシーを自宅に呼んだのだった。人々の足となっているロボタクシーは、動力源が電気モーターで静粛性が高く、全輪駆動で加減速もスムーズだ。運転席が無いので、座席は向かい合わせのラウンジシートになっている。大昔に装着が義務だったシートベルトは無く、代わりに乗客の体全体を瞬時に包み込むエアバッグが備わっていた。

 人口減少によって都市部でも公共交通機関が縮小し、19世紀末に誕生した自動車の特性である「好きな時に、好きな所へ」というパーソナル・モビリティが、本来の意味で実現していた。自動運転車を個人が購入するケースは少なかった。ロボタクシーを呼べば、すぐ迎えに来てくれる。その結果、東京でも自動車の数はかなり減り渋滞も見られなくなった。そもそも自分の体を移動させる必要がほとんどなくなっていた。

「タクシーに乗ってしばらくして、手足が痺れ始めて」

 翔太の記憶は鮮明に甦っていた。

「そうです。翔太さんは、そのまま意識を失いました」

 AI医師は、記録された車内映像を再生しながら話を続けた。

「異常を感知したロボタクシーは都の救急センターに連絡し、指示を受けてこちらの病院にあなたを搬送してきたというわけです。もちろん、その時のことは覚えていませんよね」

 AI医師は、翔太に先回りするように言葉を選んでいる。

「すぐに検査をしました。症状からすると『脳梗塞』だったんですが、血管の詰まりはどこにもありませんでした。理由は不明ですが、虚血症の状態で脳の機能が大幅に低下していたんです」

 21世紀後半になると、予防的な治療によって脳梗塞自体が珍しい病気になっていた。そして翔太の場合は、血管の詰まりがないのに血流が低下しているという、さらにレアな症例だった。

 AIが検討を重ね(といっても、人間の時間感覚からすると「瞬時」だが)、採用を決めたのは、患者の脳にシミュレーションをさせて回復を図るという画期的な治療法だった。「幸いにも」というべきか、2025年に翔太の実父の浩が脳梗塞を発症していた。年齢も翔太と同じ65歳だった。AIは、浩の治療記録をもとにシミュレーション・プログラムを構築し、その中に息子の翔太を「放り込んだ」のだった。翔太の脳は、浩の闘病を追体験することで治療が施されたと「認識」し、機能を回復することが期待された。血族の記憶を使うと、効果が極めて大きいことはわかっていた。

「翔太さんも若い頃使っておられたから覚えているでしょう。昔のパソコンはけっこうフリーズしていましたよね。その時に再起動して正常に戻していた」

 AI医師は「クスッ」と笑った。感情はないはずなのに、人間が必死の形相でパソコンと格闘しているイメージが可笑しいというのだろうか。

「そうですか。そうだったんですね。ありがとうございました。命を救っていただきましたね」

「翔太さんの命を救ったのは、お父さんですよ」

 AI医師の声はどこか慈愛を感じさせた。

 翔太は、父親が脳梗塞を発症した時のことを思い出していた。30歳。すでに東京で仕事をしていた。

「軽い脳梗塞やった。麻痺も残っとらんし、入院してちゃんと治療してもらっとるけん、心配せんで。帰ってこんでもよかよ」

 スマホに届いた父親からのメッセージに、「大したことなかったのだ」と合点した自分が、今となっては浅はかだった。どれだけの恐怖と苦しみと痛みを父親が味わっていたのか、35年たってようやく理解できた。

「翔太さんが受けた治療の正式名称は、『生体適合型共鳴シミュレーション(Biocompatible Resonance Simulation:BRS)』といいます。翔太さんの脳がお父さんの記憶に共鳴していなければ、『二人』で向き合うことはできませんでしたね」

 AI医師は饒舌じょうぜつだった。

「プログラムには、お父さんの記憶を一部加工して入れました。実際には、お父さんは複数の病院で入退院を繰り返して、発症から手術まで二ヶ月近い時間がかかっています。その記憶が、翔太さんの真正の記憶に置き換わることが、治療効果のメルクマール(指標)となります。翔太さんは途中で気づきましたね。病院のそれぞれの職種の担当者が一人しかいないこと。そして自分の名前が「浩」ではないのではないかということ。これが「真贋判定(オーセンティフィケーション)」です。プログラムの中に意図的にそういった関門をいくつか設置しておいたのです」

 翔太は問いかける。

「あの、私は何日くらい入院していたんでしょうか。ずいぶん長かったように記憶しているのですが」

「1時間弱です。それ以上は脳に負担がかかりますから。翔太さんがここに搬送されてきたのは、今日のお昼過ぎでした」

「えっ」

 時間感覚があまりにもかけ離れていることに翔太は驚愕したが、質問を続けた。

「しかし不思議ですね。心と体は別なのに、父親の記憶に反応して自分の体が治るなんて。どうしてなんでしょう」

 AI医師は淡々と答えた。

「すみません、翔太さん。私にはわかりません。身体を持っていないからです」

「ええっ」

 「アトム」は、切羽詰まった表情に変わった。

「身体を持っている生物の中でどのようなことが起きているのか、私たちAIには正直わかりません。私が発している言葉は、その状況において『統計的に最も適切である確率が高い』ものを並べているだけです。本当はわかっていないんですよ」

「それでは、今回選択された治療法は、『確率的に』いちばん正しい方法だったと」

 翔太の質問に、AI医師はしばらく沈黙してからこう答えた。

「はい、最も確率の高い方法でした。これ以上は何とも申し上げられません。私は『信じる』ということができませんから。でも、翔太さんはどこかに信じる気持ちがあったから回復したんじゃないですか」

 診察室を出ようとする翔太の背後から、AI医師が付け加えた。

「この治療法は、一部の医師の間では『スパルタ』と呼ばれています。『呼び水』とか『迎え水』という者もいますが」

 医療センターのエントランスに立つ木村に、ロボタクシーが近づいてくる。

(65歳になって、死んだ親父に助けられるなんて)

 父親は温厚な人で、子どもたちに手を上げたことは一度もなかった。今回の治療は、父親の最初で最後の「スパルタ」だったのかもしれない。

(完結)

 本作品のベースになった実録(ドキュメンタリー)『従心〜65歳大学教員の脳梗塞発症から手術までの48日間〜』はこちらからお読みいただけます。

 本作品の「創作の裏側」です。あわせてこちらもどうぞ。

2060年でお待ち申しております



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