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遠回りの、レシピ。#9「逃亡は、お〜くぼ食堂の栄養源です。」

店をやっていたころ、ときどき入口に貼り紙をした。

「逃亡します。探さないでね」

休業のお知らせである。たぶん、もう少しちゃんとした書き方はいくらでもあった。臨時休業いたします、とか。研修のためお休みします、とか。

でも、Mちゃんが考えたのは「逃亡します。探さないでね」だった。

いま思えば、あれは冗談だけで書いた言葉ではなかった気がする。店を閉めて、いつもの場所から離れて、知らないところへ行く。自分たちには、ときどきそれが必要だった。

そして逃亡先で見たり、食べたり、持ち帰ったものは、いつの間にかお〜くぼ食堂の中に入り込んでいた。

ベトナムへ、くっついて行った。

2002年。

2002年、初めてのベトナム

知り合いの会社がベトナムで植林事業をしていて、その視察に行くという。

それに、くっついて行っただけだ。

仕事でもない。植林の専門家でもない。でも、おかげで普通の旅行ではなかなか行けない場所まで行った。

現地の役人とのミーティングにも同席した。

植林地の駐在所で、現地の人たちと。

前回植林した場所の視察にも行った。何もないように見える広大な土地に、若いマングローブが並んでいた。

   前年に植林した場所。若いマングローブが育っていた。

骨組みだけの鉄塔にも登った。上から見た土地は、どこまでも続いているように見えた。

もちろん、本当の興味は別のところにあった。

食べることだ。

見るもの全部が、珍しかった。
旅先では、とにかく食べた。

市場へ行った。ベンタイン市場には、野菜も肉も魚も、見たことのない食材も、ぎゅうぎゅうに並んでいた。

フォーを食べた。バインセオを食べた。

本場で食べたフォー。

唐辛子は使うけれど、何でもかんでも辛いわけじゃない。生野菜をたっぷり使って、フォーに添えたり、バインセオと一緒に巻いて食べたりする。

生野菜をたっぷり巻いて食べる。

これはあくまで個人的な感想だけれど、ベトナム料理は日本人に合うと思う。

味そのものだけじゃない。野菜の食べ方や、素材を生かす感じ。どこか日本の食文化と似ているところがあるのかもしれない。

そして、道具も買った。

食材を見るのも、旅の楽しみだった。

アルミの蒸し器。丸いくぼみがいくつもついた、不思議な焼き型。

当時、その料理の名前を、**「バインコホォ」**と覚えていた。

最後の音は「ッ」と「ォ」のあいだ。文字ではうまく書けないけれど、自分の耳にはそう聞こえた。

今回、昔の写真を引っ張り出して調べてみて、ようやくわかった。

バインコット(Bánh khọt)だった。

ベトナムから持ち帰ったバインコットの型。いまも宮古島にある。

二十四年たって、やっと名前と記憶がつながった。

市場では、ほかにもいろんなものを買った。一つ一つは100円にも満たないようなものだった。

あれも、これも。気がつけば大量になっていた。

会計を聞いて、自分たちは「約8,000円か」と思った。実際は、約800円だったらしい。

ゼロひとつの勘違い。

喜んで買った。

そして帰国するとき。荷物が増えすぎて、超過料金を払った。

持って帰る方が高くついた。

今度は、チェンマイへ逃げた。

次の逃亡先はタイ。バンコクではなく、チェンマイだった。

チェンマイで出会った味。

ベトナムとは料理の印象がまるで違った。甘いものは甘い。辛いものは辛い。味の輪郭が、はっきりしている。

そして、ここでも観光地だけを見て帰るような旅をしなかった。

現地のガイドさんの家族がやっている食堂へ連れて行ってもらった。そこで教えてもらったのが、ソムタムだった。

ソムタムは、この臼でつくる。

青いパパイヤを千切りにする。臼に入れる。唐辛子や調味料を加えて、叩く。

写真を見ると、自分も床に座ってパパイヤを千切りしている。見ていただけじゃない。

見ていただけじゃない。ちゃんと教わった。

ちゃんとやらせてもらっていた。

そして、そのとき使っていたものと同じような臼が欲しくなった。道具屋へ行って、売ってもらった。

同じような臼が欲しくなって、買いに行った。

その臼は、いまもある。

あのとき買った臼。二十四年たった今も現役。

ガイドさんは美容師でもあった。だからMちゃんは、チェンマイで髪を切って、染めてもらった。

旅先で、髪まで切ってもらったMちゃん。

食堂でソムタムを教わって、髪まで切ってもらう。いったい何をしにタイへ行ったのか。

でも、たぶん自分たちにとっては、こういうのが旅だった。

チェンマイから、さらに北へ行った。ゴールデントライアングル。川の向こうに国境がある。

チャーターボートでラオスへ渡った。

チェンマイから、さらに北へ。ラオスへ。

ミャンマーへは橋を歩いて渡った。

そして、ミャンマーへ。

どちらも滞在できる時間には制限があった。だから、何も食べられなかった。

いま考えると、そこだけはちょっと悔しい。

逃亡先から、店へ。

旅から帰ると、そこで食べたものを作った。見たものを真似した。買ってきた道具を使った。

ベトナムで覚えた料理も、タイで覚えた料理も、お〜くぼ食堂の中に入っていった。

料理だけじゃない。食器も、箸も、道具も。店の中には、旅先から連れて帰ってきたものが、いつの間にか増えていた。

だから、お〜くぼ食堂を閉めるときにやったガレージセールでは、ベトナムで買ってきた箸や、いろんなものをお客さんが買ってくれた。

たぶん、物が欲しかっただけじゃない。

お客さんにとってのお〜くぼ食堂の思い出として、持って帰ってくれたんじゃないかと思う。

旅先から自分たちが持ち帰ったものを、最後は、お客さんが持ち帰ってくれた。

全部なくなったわけではない。

いま、宮古島の家を見回すと、ベトナムで買ったアルミの蒸し器がある。バインコットを焼く道具もある。

チェンマイで買ったソムタムの臼もある。

二十四年前の逃亡先からやってきたものが、まだ自分たちの台所にいる。

店を休んで旅に出ることを、自分たちは「逃亡」と呼んでいた。

でも、本当は逃げていたんじゃなかったのかもしれない。

知らない味を食べて、知らない道具を見つけて、知らない人の暮らしの中に入れてもらう。そして、それを持って帰る。

持って帰って、店で使う。料理にする。お客さんに食べてもらう。

そうやって考えると、

逃亡は、お〜くぼ食堂の栄養源だった。

だから、あの貼り紙はやっぱり正しかったのだと思う。

「逃亡します。探さないでね」

探さなくていい。

ちゃんと何かを持って、帰ってくるから。

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NON|食と暮らしの料理人 読んでくれてありがとうございます。チップは今後の記事を書き続けるための資金にします。宮古島からぼちぼち書き続けます。