人間と人間は、何によってつながるのか――「庶民」という言葉の向こうにいる、一人を想像する
人は、名前を知っているだけでは、まだつながっていないのかもしれない。
会ったことがある。
名刺を持っている。
連絡先を知っている。
SNSでもつながっている。
それでも、相手が何を大切にし、どのような不安を抱え、何を守ろうとしているのかを知らないことがある。
接点の数は見える。
けれど、関係の深さは数字では見えない。
人間と人間は、何によってつながるのだろう。
そんなことを考えながら、毎日新聞に掲載されていた野中広務さんの記事を読んだ。
「戦争で一番苦労するのは庶民」
短い言葉である。
しかし、この一文は、戦争という大きな問題を、一人の人間の生活へと引き戻す力を持っていた。
「庶民」という名前の人はいない
私たちは社会を語るとき、人を一つの言葉にまとめる。
国民。
市民。
住民。
被災者。
患者。
顧客。
従業員。
社会を運営するためには、こうした抽象化が必要である。
国家は、人口や所得、被害者数を集計する。
企業は、売上や利益、生産性、人件費を測定する。
医療は、検査値や症例数、患者数を記録する。
抽象化することで、私たちは複雑な現実を把握し、比較し、判断できるようになる。
しかし、「庶民」という名前の人はいない。
その言葉の中にいるのは、一人ひとり異なる人生を生きる人間である。
朝、誰かのために食事をつくる人がいる。
大切な人の帰りを待っている人がいる。
言葉にできない不安を抱えながら、それでも今日を生きている人がいる。
一人ずつに名前があり、家族があり、仕事があり、失いたくない日常がある。
問題は、人を数字や言葉にすることではない。
数字や言葉にしたあと、それが一人の人間であったことを忘れてしまうことだ。
人間は、一つの属性だけではできていない
野中さんの記事を読みながら、私はアマルティア・センの『アイデンティティと暴力――運命は幻想である』を開いた。
センが指摘するのは、人間を一つの所属だけで説明しようとすることの危うさである。
人は、国籍だけで生きているのではない。
民族、宗教、職業、性別、世代、地域、家族、趣味、思想。
私たちは複数のつながりを持ち、その時々において何を大切にするかを考え、選びながら生きている。
一人の人間は、経営者であると同時に、誰かの親かもしれない。
医師であると同時に、音楽を愛する一人の生活者かもしれない。
外国人であると同時に、同じ地域で子どもを育てる隣人かもしれない。
人間は本来、一つの言葉では説明しきれない存在である。
危険なのは、アイデンティティを持つことではない。
一つのアイデンティティだけが、その人のすべてだと思い込むことだ。
「あの人はこちら側だ」
「あの人たちは、自分たちとは違う」
そう決めた瞬間、その人が持っていた複数の顔が消えていく。
そして「敵」という一つの属性だけが残る。
暴力の前段には、知性の省略がある。
相手の人生を知ろうとすることをやめ、一つの言葉で説明したつもりになることだ。
つながりとは、同じになることではない
人間と人間がつながるとは、同じ意見になることではない。
いつも賛同し合うことでも、頻繁に連絡を取り合うことでもない。
考え方が違っても、その人を一つの立場だけで決めつけないこと。
自分には見えていない事情があるかもしれない、と想像すること。
意見ではなく、人格まで否定しないこと。
つまり、つながりとは、相手の複雑さを、複雑なまま受け止めようとする姿勢なのだと思う。
距離があっても、相手への関心があれば、関係は残る。
反対に、どれほど頻繁に会っていても、相手への関心がなければ、関係は少しずつ空洞化していく。
つながりを弱くするのは、物理的な距離よりも、相手の人生を想像しなくなることなのかもしれない。
接点、関心、貢献、信頼
私は、人間と人間のつながりには、四つの段階があるように思う。
最初は「接点」である。
会う。話す。名前を知る。
接点は、偶然や仕組みによって生まれることもある。
しかし、接点だけでは関係にならない。
次に必要なのが「関心」である。
相手は何を目指しているのか。
どのような経験をしてきたのか。
いま何に悩み、何を守ろうとしているのか。
関心とは、相手のすべてを知ろうとすることではない。
自分からは見えない生活や事情があると、想像することだ。
その関心が行動に変わると、「貢献」になる。
話を聴く。
相手のよいところを言葉にする。
必要な人を紹介する。
困っているときに声をかける。
自分にできることを、できる範囲で差し出す。
貢献は、必ずしも大きな行為ではない。
人は「自分を見てもらえた」と感じたときに、もう一度前を向けることがある。
そして、関心と貢献が一度ではなく、時間を超えて積み重なったとき、「信頼」になる。
接点は、会うことで生まれる。
関係は、知ろうとすることで育つ。
信頼は、必要なときに動くことで残る。
人間と人間のつながりとは、最初からそこにあるものではなく、小さな関心と行動の積み重ねによって育てるものなのだと思う。
人に関心を持つことは、ときに痛みも伴う
私は、人に関心を持ちすぎるところがあるのかもしれない。
誰かが挑戦していると知れば応援したくなる。
その人のよさが、まだ十分に伝わっていないと思えば、言葉にしたくなる。
自分に紹介できる人がいれば、つなぎたくなる。
ときには時間を使い、言葉を尽くしても、それが届いたのかどうか分からないこともある。
人に関心を持てば、うれしいことだけではなく、寂しさや落胆を感じることもある。
それでも私は、傷つかないために、人への関心を薄くしていく自分にはなりたくない。
ただし、善意は押しつけるものではない。
貢献は、返礼を求めるための請求書でもない。
人にはそれぞれの事情があり、感謝や関心の表し方も違う。
だから、反応の速さや大きさだけで、関係のすべてを決めないようにしたい。
その一方で、自分の心や時間を守ることも必要である。
関心を持ち続けるためには、無理をして自分を使い切らない知恵もいる。
誰に、どのように関わるのか。
どこまで力を差し出すのか。
人を大切にすることと、自分を大切にすることを、対立させない。
それもまた、長く人とつながっていくために必要な成熟なのだと思う。
私の仕事は、何を守る仕事なのか
私は現在、エネルギー、医療、営業・経営支援など、いくつかの領域に関わっている。
一見すると、まったく異なる仕事に見えるかもしれない。
けれど、私の中では、すべてが一つの問いでつながっている。
「この仕事は、誰の暮らしと選択肢を守るのか」
エネルギーの世界では、出力や容量、投資額という数字を扱う。
しかし蓄電池が本当に蓄えているのは、電気だけではない。
停電した夜に、明かりが戻るまでの時間。
医療機器が止まらずに済む時間。
社会が立ち上がり直すための時間。
そして、人が選択肢を失わずにいられる時間である。
医療では、検査値や症例数を見る。
しかし、その数字の向こうには、不安を抱えながら明日を待つ人がいる。
営業では、売上や契約率を見る。
しかし、その数字の向こうには、迷い、悩み、それでも何かを変えようと決断した人がいる。
数字の先には、必ず生活がある。
仕事が違っても、最後に守るべきものは、その人の生活と選択肢なのだと思っている。
平和は、人間への関心から始まる
平和という言葉は、ときに大きすぎて、自分の日常とは遠いものに感じられる。
しかし平和は、国家間の問題だけではない。
目の前の人を、一つの属性だけで決めつけないこと。
意見の違う人を、すぐに敵と呼ばないこと。
数字や肩書の向こうに、その人の生活を想像すること。
相手の複雑さを、複雑なまま受け止めようとすること。
そうした日常の態度もまた、平和を支える土台になる。
人間への関心が失われれば、相手の顔は消えていく。
相手の顔が消えれば、その人の痛みを「仕方のないこと」として扱いやすくなる。
だから平和とは、単に争いがない状態ではない。
人間を人間として見る力が、社会に残されている状態なのだと思う。
「戦争で一番苦労するのは庶民」
その「庶民」の中にいる、一人ひとりの名前と顔を想像できる社会でありたい。
人間と人間のつながりとは、誰かを知っていることではない。
その人の人生へ関心を寄せ、必要なときに、自分にできることを差し出すこと。
そして、相手を顔のない一人にしないこと。
接点は、偶然に生まれる。
関係は、関心によって育つ。
信頼は、行動によって残る。
平和は、その積み重ねの先にある。
私はこれからも、数字の先にいる人を見続けたい。
人の可能性を見つけ、言葉にし、必要な人と人をつなぎたい。
人間を人間として見る力を、諦めない自分でありたいと思う。
