芸術営としての装幀考-文学鑑賞にブックデザインが果す役割について-2013
芸術営=アーツマネジメント研究のなかで、
日本では文化ホールの運営論から始まり、
クラシック音楽や演劇ダンスのマネジメントが中心に論じられてきました。
もちろん、美術のマネジメント論も盛んです(こちらは「アートマネジメント」と呼ばれる傾向にある)。
つまり、実演芸術と視覚芸術(映画も入ります)の芸術営は議論されていますが、
言語芸術=詩歌や散文などの文学や書については、芸術営の方面からのアプローチが少なかったと思い、詩集で特にその装幀の工夫がいろいろあったことから、装幀について、その担い手を研究したものです。
pdfで読んでいただくと、見やすいです。ただ、引用できないので、以下のものも活用してください。
芸術営としての装幀考-文学鑑賞にブックデザインが果す役割について-
2013.1.13
小暮宣雄
目次
はじめに
第1章 芸術営的装幀論
第1節 装幀について-装幀家の発言より-
第2節 装幀のレビューと批評
第2章 装幀史と装幀家考
第1節 装幀の大まかな変遷
第2節 戦後装幀家世代論
第3章 菊地信義と書物の装幀、文学の芸術営
第1節 装幀家・菊地信義の誕生
第2節 菊地信義の装幀思想と文学の芸術営
第3節 菊地信義の装幀営為と文学者・蜂飼耳
おわりに
はじめに
文学におけるアーツマネジメントとはどのようなものだろうか。文学という芸術領域においては、アーツマネージャーや関連スタッフはどういう役割を持つのだろうか。装幀やブックデザインによって文学鑑賞の読者はどのように影響されるのか。装幀の役割や機能、魅力を通して、文学領域のアーツマネジメント研究への糸口を見つけることを本研究の目的とする。
本稿では、以下アーツマネジメントを「芸術営」と呼び、アーツマネージャーを「芸営者」、アーツマネジメント研究を「芸営学」と呼ぶ。そのため、本研究の目的は、芸術営としての装幀、文学の芸術営的視点における装本と造本、芸営者としてのブックデザイナーの考察と言い換えることができる。
芸術営とは、ひとことで言えば、社会と芸術との出会いのアレンジメントであり、芸営者は、芸術の創作や鑑賞を促進し、芸術と社会との媒介に携わる職業家である。日本において四半世紀ほど経過した芸術営の実践と研究を概観するとき、文学を中心とする言葉の芸術、言語芸術[1]については、これまであまり話題にならなかったことに気づく。
芸術営について、主にいままで、美術をはじめとする視覚芸術の芸術営や音楽・演劇ダンスなどの実演芸術の芸術営が考察されてきたのは、パーソナルメディア視聴の台頭はあるにしても、芸術の容れ物が鑑賞者と芸術作品を包含する程度には広い空間が必要であり、個人の芸術鑑賞が個人の中にとどまらずに、集合的な形であったからであろう。たとえそれが映画のように営利的市場でほぼ完結する市場芸術においても、本来的には実演芸術や視覚芸術が都市的、社会的存在であり、その多くは公共的な政策としての芸術営の必要が強かったのである。
歴史的に見れば、18世紀のヨーロッパで文芸批評がコーヒーハウスやサロンという公共圏において生まれたという理論的考察[2]があり、連歌や連句のような日本における座の文学という伝統もあった。現在においても、言語芸術営の探究が全く行われていないというわけではなく、文学の博物館としての文学館運営研究があるとともに、実演芸術の隣接領域として、詩人自らによるポエムリーディングや俳優による小説の朗読公演が芸術営的に意識されることはあった。
偶然、副査を担当した学生の卒業研究で「装丁」が電子出版にどのように影響されるのかというテーマに遭遇し、芸営学の領域になるのではないかと思いつき、自宅にあった菊地信義の『装幀談義』(1986)をそういう視点で読みなおした。以下、菊地信義など主だった論者の装幀論を中心にしつつ、装幀の歴史などにも触れながら、文学出版における編集者とともに、文学書の装幀家を文学の芸術営における重要なプレイヤーと仮定して、書物の形、造本、そして装幀というデサイン行為が、社会に文学という芸術を伝えるため、どのように貢献してきたのかについて考えてみたい。
第1章 芸術営的装幀論
これからの記述にあたって、まず表記について、記しておく。
本稿では、表記を「装幀」と統一するが、「装釘」が古い表記で、20世紀に入って「装幀」と呼ばれることが多くなり、戦後は当用漢字制度のなかで、「装丁」となったと一般には解説されている。ただし、『新明解国語辞典 第五版』(三省堂、1997年、p805)によると、「装丁」のもとの用字は「装訂」で、書誌学者によると「装釘」も「装幀」も誤用とする、とあり、変遷や議論があることがわかる。この辞典の装丁の意味は、“1)書物をとじて表紙をつけること。装本。2)造本上の意匠・デザインや技術”である。
辞典にもあるように、装幀(装丁、装釘、装訂)は書物のデザイン、装本である。装うの「装」には、身支度や旅支度、つつむ、たばねる、取り付ける(装置)などの意味や、「しくむ、整える。うわべをかざる。似る」などの漢字の意味がある(『漢字林 改訂版』(大修館書店、1987年、p892)。「装」の意味をみると、読書を誘い、文学の鑑賞を仕組むために、整えるということが納得的になる。
「装」に対して、「幀(丁、釘、訂)」は、様々な漢字が使われるように若干揺れているのかも知れない。「幀」は『漢字林 改訂版』(p319)によれば、絵絹を木わくに張ることや、かけものを仕立てること、あるいは、書画のかけものを数える語で、一幅を一幀(とう)というように使う。「丁、釘、訂」の漢字には、頑丈に言葉を本として固定するイメージがあり、「幀」には、そういう釘付け的イメージを避けようとしたための慣用的用字であったということだろう。
ブックデザインと表記する場合は、明確に本文などの全体的コーディネートが含まれることが装幀という表記よりも全面に出る。出版界の慣習としてあった本文文字組みは編集者の領域という従来の役割分担を崩すことを意図して、装幀からブックデザインへ、というキャッチフレーズ的動きもあった。なお、ブックデザインを日本語にすると「装本」あるいは「図書設計[3]」などが候補である。
第1節 装幀について-装幀家の発言より-
本稿のそもそものテーマは、言語芸術、文学における芸術営とはどのようなものか。言語芸術営を担う芸営者は誰かである。他の芸術分野でみてみると、演劇の「制作」は資金・スケジュール管理、広告などを行う役目の芸営者である。そう考えると、出版社内にいることの多い編集者が文学の「制作」的芸営者で、この編集者と舞台芸術の美術・照明・音響などの技術監督的役割の装幀家とが一緒になって、文学の芸術営としての「造本」が可能になると考えられる。チラシやHPの宣伝美術に対応するのは、文学書の宣伝媒体全般であるが、とりわけ興味深いものとして「帯」があり、これは、チラシの役割にずいぶん似ていると思われる。
本節では、装幀そのものを概観するために、装幀とはどのようなものか、装幀家や装幀関係者が発する言葉、発言から拾っていく。まずは、装幀家自身の言葉から引用して考えてみたい。
1962年生まれの装幀家、鈴木成一(2010)の「はじめに」(p1-3)より。
「個性をちゃんと読み込んで、かたちにする。飾りで読者の気を惹くのではなく、その本にとっての一番シンプルで必要なものを明確に演出する。そのときに、いかに自分が新鮮に思えるか、わくわくできるか、ですね。」
同じ本の「おわりに」(p236-237)より。
「装丁というのは、作家として自己表現するのではなくて、本の個性をいかに表現してあげるか、ということなんですね」。「編集者と一緒に作っていくものなので、彼ら彼女らの直接の反応が重要なんですね。読者の反応って見えにくいですから、まず目の前の編集者を喜ばせる。そうすれば、その先にいる読者にもつながっていく。」
これを読むと、装幀家本人は編集者を通じて読者を意識する。編集者が最初の文学の鑑賞者であるとともに、本の装幀部分のジャッジメントをする門番のようなものだとすると、演劇における演出家の役目も編集者はしているのかも知れないと思う。
次に、1943年生まれの菊地信義(2000)の言葉より。
「装幀表現とは、依頼された作品の内を本という物に化す上で必要な色彩や材料、図像や文字の姿を探り出し、デザインしていく行為だが、これだけでは一方的な装幀作業になってしまう。本という物は読者の読むという体験を経て、真に存在したといえる物である。……書店や図書館で読者と出会い、一人一人の読むという行為の内で、初めて一冊一冊が存在したといえる物としてある。」(p196)
「本という物が読む行為を得て初めて生まれるのであればなおのこと、来るべき読者の目に、作家の物でも版元の物でも、ましてや装幀者の物でもない、ただ読みたいという思いをのみ生む未知の存在として、瞬時、輝く存在であってほしい。」(p197)
詩的な表現になるが、菊地的に装幀とは何かというと「ただ読みたいという思いをのみ生む未知の存在として」の輝きを創るものというようなことになる。菊地信義の言葉は文芸作品を中心にした装幀論でもあるので、後でより詳しく考察したいが、この本には、読者がそれを購入する目的が明確な実用書や娯楽の本とは違い、文芸書は、「新たなズレを作って、見る人の心に不安を生み出す必要」があり、逆にその「不安を渡る舟として、人の心に読みたいという思いが生じるのではないか」(p187)と指摘している点は特に重要である。
1939年生まれの長友啓典(2010)の言葉――装幀についての短いエッセイがまとめられている新書より(p14-15)。
「雑誌はページをひとつずつ積み重ねていって、その結果、全体を作り上げる。一方、書籍の装丁は「本」というパッケージ商品を作ること」。「書き手の作り上げた世界を汲み取って、表紙から中身まで全体のイメージを描き、紙から書体、それぞれひとつひとつを選んで決めていく。」
長友と同世代、1938年生まれの平野甲賀(1986)によれば、装丁はずいぶん控えめでいいという(p20)。
――装丁が本と読者をつなぐんじゃない。本と読者をつなぐのは、あくまでもその本の中身だと思う。装丁は、そのちょっとしたサービス。ぼくができることといったら、その出版社がある感じをもって本を出しつづけている――その動きをサザナミみたいに、できるだけ気持ちよく表現していくことぐらいじゃないかな。
サザナミみたいな動きをたやさないということでは。いくつかの特定の出版社と持続的につきあっていくというのが、いちばんやりやすいんです。
平野甲賀と言えば、晶文社との長い付き合いが有名である。彼は「60年代半ばから、前衛演劇のポスターや、『ワンダーランド』誌など、アンダーグラウンドで前衛的な分野でエネルギッシュにグラフィックデザインを制作していたが、晶文社のすべてのブックデザインを一人で手がけ、その築き上げたデザインポリシーで、この新興の出版社は広く知られることになった。」(小泉弘(2005、p42)より
昔は特に画家や版画家が装画だけではなく装幀をもしていたという例が多かった。1936年生まれの司修(2011)にとって、「装幀は、ぼくが絵を書き続けるためのアルバイトとしてはじめた」(p264)ものだったという[4]。この書物には、司が装幀した15冊の本について、文学者との出会いが書かれている。そして、出版社の熱意ある編集者とのタッグマッチがあり、本そのものの魔法にかかってしまう過程が綴られている。
第2節 装幀のレビューと批評
前節でみたような装幀家自身の言葉とともに、外からの評価やレビューがどのようにあるのかにも触れたい。
顕彰制度としては、「講談社出版文化賞・ブックデザイン賞」がある[5]。この講談社出版文化賞は、1970年から毎年授与されていて、さしえ賞、写真賞、ブックデザイン賞、絵本賞からなりたっている。受賞年順で本稿に関わる装幀家などを中心にピックアップすると、亀倉雄策(1970年受賞)、杉浦康平(1971年受賞)、田中一光(1973年受賞)、和田誠(1974年受賞)、原弘(1975年受賞)、司修(1976年受賞),横尾忠則(1978年受賞),田村義也(1982年)、平野甲賀(1984年受賞),戸田ツトム(1985年受賞)、菊地信義(1988年受賞),鈴木成一(1994年受賞)、祖父江慎(1997年受賞)、鈴木一誌(1999年受賞)、長友啓典・十河岳男(2006年受賞)、大久保明子(2007年受賞)という面々であり、錚々たる装幀家が受賞していることがわかる。
1946生まれの装幀家(ブックデザイナー[6])である小泉弘(2005)は、この『デザイナーと装丁』においては、戦後の装幀史と装幀家の特徴を淡々と綴っている。したがって、小泉のこの小冊子による紹介や臼田捷治の通史を道標にして戦後の装幀の変遷を知ることができる。本書によって、概要をつかむためには、戦後直後の原弘(はらひろむ)の活動から装幀考を行えば大丈夫だろうと目安をつけた。
「画家や工芸家たちによる装丁という感覚ではなく、グラフィックデザイナーが明確な意志をもってブックデザインに取り組んだという視点に立って眺めると、その先頭を歩む姿が浮かんでくるのはやはり原弘(1930~1986)であろう。」(p10)
「本の装丁、ブックデザインは、店頭で人の目と手を引き付ける瞬間的なインパクトと、所有された後の長い存在に耐えるものでなくてはならないという、二つの相反する時間軸を内に抱えている。このことこそが、他のグラフィックデザインの制作とは異なる、本をデザインすることの難しさであり、愉悦でもある。」(p73)
どうしても、文学作品を読者が読むための準備作業としての装幀にばかり神経が行きがちであるが、読書中の書物の重さや触感、あるいは、スピン(紐の栞)の役割、そして、書棚に収まりまた読もうと思った時の保存のことなど、物造りとしての造本のことを考えることも大切だと気づかされる。そういう意味で、装幀と建築インテリアデザインとの共通性に言及していた長友啓典(2010)の言葉を想起することができる(『装丁問答』p15)。
1943年生まれデザインジャーナリストで装幀史研究の臼田捷治(2004)によれば(p7)、「本がデビューを果たして書店の店頭と出会うとき、読者に最初の選択の手がかりを与えてくれるのが、本の内容との触媒となる装幀であ」り、「装幀は、文章を束ねてひとつの構造体としてまとめ上げるとともに、署名と著者名、出版社を明らかにし、それに挿画や写真をからめて内容を視覚化することで、読者に本を手に取る行為へといざなう」ものである。
さらに、装幀(ブックデザイン=造本)は「本のサイズとか厚み、重み、手触り感といったオブジェとしての魅力」「本自体が帯びるメチエールの誘惑。これらの複合する材料感を包摂するかたちで装いを付与する」。
また別の書物で臼田捷治(2003)は、装幀を次のように愛で、その愉悦について語っている(p8)
函やカバーの用紙の材質がそなえる手触り、見返しのハッとするような色調、ページを繰るときのかすかな紙すれの音、ほのかにかぎとれるインキの匂い。本に固有の感触と物性は語感を刺激してやまない。ときには、『花ぎれ』(背の内側上下に貼る布)のような極小世界の色模様の選択にも、装幀者の息遣いが聞きとれるときの新鮮な驚き。また、タイトルとか扉、目次の活字の精妙な配置、そして本文の美しい活字の流れ。その本文にさらに立ち入れば、活字の書体とサイズ、一行の字数、行間、紙面のなかでの余白の取り方などに配慮が行き届き、奥付にいたるまでのすべての要素が、交響楽の流れる旋律のようにみごとに調和していることを確認したときの喜び……。
「交響楽」としての装幀論[7]、装幀芸術の鑑賞というジャンルも十分に考えられる。また、装幀術を一つの批評領域に入れることは可能であると思う。交響楽ではあまり目立たないバスクラリネットやピッコロみたいな装幀のなかの「花ぎれ」や「スピン」(本に綴じ込まれている布のしおり)について、和田誠(1997、p257-258)が中山千夏さんから和田の「花ぎれ」などの装幀を気に入ったという手紙のところで触れている。
臼田捷治(2004)は装幀のジャーナリスト(伝達者)でありレビュアー(批評家)である。彼によると「現代の旗手」としては、祖父江慎(1959年生まれ)、中島英樹(1961年生まれ)とともに、前述した鈴木成一(1962年生まれ)を、「いまや人気と実力とともにトップ格のブックデザイナー」として紹介している。鴻上尚史の戯曲集を学生時代に劇団「第三舞台」のポスターをつくっていた関係からデザインしたという経歴を持つという。
「…本来、装幀は個別のテキストに即したそれぞれ別個の解答を用意するものだろう。いいかえると、それぞれの内容との格闘をつうじて、その内容を息づかせる触媒と鳴ることである。そして、そうしたプロセスを介して練り上げたものを三次元の物体として構造化する営為だといえるだろう。鈴木はまさに『媒体』であろうとする。そのような姿勢に徹するからこそ、私は鈴木が立ち上げる『本の物性』にしばしば凄味さえ感じるときがある。」(p189)
竹信悦夫(2005)は、ワンコイン(100円)で売っている古本屋の店先の本の読書体験を綴った書評集を出している。この書評集は百円コーナーの本なので、気楽に購入することができる。竹信によると「本の方から『面白いですよ』とお誘いがかかる(ような気がする)」。でも、装幀は立派なのにハズレのもの多い。ということで「装幀と中身、美人と気だて」というタイトルで以下のように綴られていてとても面白い。
「装幀とタイトルである程度ぴんとくるものがあるわけですが、なかには見当のつかないのがあり、時にこういうなかに、大当たりがあるから油断がならない。……
「日本の本の場合、装幀にずいぶん工夫が凝らされている。フランスの本などは、たいてい『フランス装』と呼び慣わされている装幀で、どれも似たような感じになっている。装幀に無頓着なわけではなくて、色もデザインも実にあかぬけていて、けばけばしさがというものがあまりない。……
「その点、日本は、少し前ならいざ知らず、もっと多彩多様で、結構硬い本でも、派手っぽい装幀になっていたりする。」(p16)
第2章 装幀史と装幀家考
前章では、言語芸術の芸術営という切口を保有しつつ、まず装幀という世界の概観について、装幀家の言葉や装幀の評価などに関わる書物を活用して、装幀という世界の入り口をスケッチしてきた。言語芸術営とともに、装幀についても、これまでほとんど意識してこなかったためである。
照明を演劇の芸術営として探求するという課題がもしあったとして、生活のインテリア照明や野外照明など、広く照明は演劇の照明以外にももちろん使われ照明家の活動領域は広いのだから、演劇における照明家の役割にしぼり、演劇照明というのが、視覚芸術ではどうだろうか、とか、同じ実演芸術においても、ダンスや伝統芸能の舞台照明とどう違うのかというようなことに言及する必要がある。
考察中の装幀やブックデザインについても同じであって、装幀は書物のデザインであるから、芸術営の研究、芸営学という観点から考察するのであれば、言語芸術を入れる本の装幀に限って考えることが必要になる。文学と一口にいっても、詩歌と小説、戯曲、評論、エッセイでも特色がある。
書物一般のデザインなのだから、絵画や彫刻、建築造園の紹介本の装幀などもあるし、写真集の場合を考えると、それがオリジナルの容れ物という場合もあるだろう。このように、様々な論点があるということに注意しながら、そこまで装幀の多様なコンテンツの差異についての研究に未着手な筆者としては、できるだけ、文学に沿いながら、書物の装幀にはどのような変遷がありどのような装幀家が活躍したのかをみていきたい。
第1節 装幀の大まかな変遷
人間に言葉が生まれ、文字が発明される。文字は、紙や筆記道具の発明工夫により、書き写され保存され伝達されていく。「書」き言葉が「物(オブジェ)」になって、「書物」が誕生するのである。なお、印刷術の発明と伝搬、改良の役割は文学の普及発展を考えたとき、とても大きな技術革新であった。
文学では、『万葉集』20巻が最も古い時代の文学であろう。『古事記』や『風土記』もまた広い意味(神話や歴史物語)の言語芸術かもしれない。手書きから印刷へ。最も必要性を持つ印刷書物は、経典であった。
庄司浅水(1978)によれば、古代の文学は、「古写本、古版本、古活字本、写本、版本の形をとってのちの世に受け継がれ」(p34)た。江戸時代になると、朝鮮活字の移入、読書階級の増加によって書物の需要が増加し、本屋(書肆[8])が成立するようになった。
明治、大正、昭和と時代が移り、出版文化も華やかに展開される。装幀にも工夫がほどこされ、戦前までは、装画中心の世界であった。そのなかで、画期となるのは、夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』の1905年の出版である。紅野謙介(1999)によれば、「表紙や扉、カットなど装幀は、東京美術学校洋画科を卒業したばかりの橋口五葉、挿絵は上篇ではフランス留学から帰った直後で、太平洋画会に属していた中村不折が、中下篇では子規をつうじての共通の友人である洋画家浅井中が、漱石の直接の依頼によってあった」(p83)という。
中村不折の装幀になる島崎藤村『若菜集』(春陽堂、1898年)、石井柏亭装幀の北原白秋『邪宗門』(易風社、1909年)、恩地孝四郎装幀の萩原朔太郎『月に吠える』(感情詩社、1917年)[9]など、初版本の豊富な写真紹介のある工藤早弓(1997)を眺めると、小説よりも一層、美術との接点が多いのが詩歌集である。
代表的な装幀者として、小泉弘(2005年)によれば、藤島武二、平福百穂、石井柏亭、津田青楓、富本憲吉、木村荘八、川上澄生、芹沢銈介、竹久夢二、小村雪岱(せったい)、斎藤昌三、青山二郎、東郷青児、佐野繁次郎、江川正之、野田誠三、恩地孝四郎、北園克衛、瀧口修造、吉岡実などが挙げられている(p7-9)。
太平洋戦争が始まると物資不足と相まって出版業界も戦時色に染まり、文学の出版などは二の次であった。それに対して、異色を放ったのは、15ヶ国語で出版された対外宣伝誌『FRONT』の豪華さであり、斬新さである。多川精一(2000)によれば、東方社の写真部長の木村伊兵衛と美術部長の原弘が中心となり、最新のデザイン思想で最高の技術により、日本の軍事力とともに経済力、デザイン力を誇示し国力を情宣するためのものだったという。多川精一(2000)p314-316より、以下、原弘の仕事について引用する。
『FRONT』のレイアウトに関しては、原部長が一手に引き受けて、最後まで余人にはまかせなかった。
昭和の初めに“USSR”や“LIFE”“LOOK”などの優れた海外のレイアウトに魅せられ、十年以上も独学でそれらを研究してきた彼としては、その成果を発揮するのは今この『FRONT』しかないという信念に燃えていたと十分に想像されるのである。ルーペを片手に密着をのぞき込む姿や、割付け用紙上に引き伸ばされた写真原稿を並べ、タオルを首に巻いてしばし黙考する姿は、常時同室している私にも近寄りがたい迫力が感じられたのである。
(中略)
『FRONT』の制作における原の立場は、今でいうアートディレクターであったが、作業の流れを見ていると、すべてが原を中心に動いていたようだ。原はこれまでの研究の成果のすべてを『FRONT』にそそぎ込むように真剣に取り組んでいたのである。
豪華な装幀だった東方社の対外宣伝誌も戦況の悪化や運搬の困難さにより薄いものに変わり、悲惨な敗北へと進む。文学分野ではなく、イデオロギッシュな雑誌の編集と造本という分野ではあるが、装幀史上に名をなす原弘は、戦中における東方社での貴重な経験を経由して、敗戦直後からの装幀実践を始めたという歴史的事実に留意しつつ、戦後の装幀史に移る。
第2節 戦後装幀家世代論
戦後すぐの装幀家も、まずは引き続き戦前から活躍していた人たちであった。臼田捷治(2003)によると、「その主だった顔触れは、版画家の恩地孝四郎、武井武雄、川上澄生、棟方志功、装幀家の青山二郎、染色家の芹沢銈介、画家の小穴隆一、初山滋、中川一政、木村荘八、佐野繁次郎、演出・劇作家の村山知義ら」(p17-18)が戦後も引き続き活躍したという。とりわけ、恩地孝四郎は装幀の復旧と進展に指導者的活動をいちはやく再開した。
そのなかで、「戦後という新しい時代にふさわしい方法論を提示したの」(p19)が、原弘(はらひろむ。1903年-1986年)であったと評価されている。原は、すでに40歳代になっていたが、装幀を美術からデザインへと転換する先導者として、そのあとの装幀家・ブックデザイナーに決定的な影響を与えたという。活字主体のタイポグラフィカルな構成、文字組みの工夫を行い、それまでのレタリング(書き文字)や筆文字から活字と写真へという移行を行ったと評されている。皮肉にも戦時中の東方社における本格的グラフ誌におけるグラフィックデザイン(本文はすべてグラビア印刷だが、表紙は、多様な印刷技法が用いられ)の実践的経験が役立ったのだろう。
手元に、1946年発行の石川淳『黄金傳説』(中央公論社版)があるが、ここには、レモンのようなものが盛られた器が表紙にある[10]が、翌年の坂口安吾『堕落論』(銀座出版社刊)では、よりすっきりとした表紙となっている。そして、安吾はその後記において、「出版物の装訂とか組み方など全然出版社まかせで一言半句注文をつけたことのない私が、この一冊に限って、色々の注文、お伽ばなしみたいな組み方、これみな私の出版事情を無視の無理の願ひで、この本に対する私の愛情のあかしである」と注記されており、この時代においては例外的に本文組みにも装幀家が関与したことがわかる。
『黄金傳説』も『堕落論』も、装幀者の名前は、目次の最後に書かれているが、前者では「装釘 原弘」と表記され、後者では「装幀 原弘」となっている。
手元に河出書房新社の『世界文学全集』(グリーン版、1959年から順次発行)の一冊(世界文学全集48『世界近代詩十人集』)があるが、グリーンの箱は活字による構成と水色の横線、そして、水色の大きなローマ字(ANTHOLOGY)が株に箱を巻くように配置されていて、確かに時代を画したデザインだと確認できる。ほぼ同時期のKawade Paperbacks 12『文芸読本島崎藤村』(河出書房新社、1962年)での原弘の装幀は、ペーパーバックの簡易装で写真が大きく使われていることが特徴である。また、「装幀者 原弘(NDC)」と奥付に書かれている。
小泉弘(2005)による「原弘」装幀評は紹介したが、その続きを書いておくと、「原の学究的素養と関心じゃ、グラフィックデザインだけの狭い世界にとどまらず、製紙、クロス、活字そして写植といったグラフィックデザインの関連分野の開拓と啓蒙に持続的な情熱をもって臨み、グラフィックデザイン、そしてブックデザインの世界に計り知れないほどの大きな貢献と足跡を残した」(p13)と小泉は言う。原弘と同世代の河野鷹思、10年ほど若い処にいる亀倉雄策(1915年-1997年)と早川良雄(1917年-2009年)。この4名に代表されるのが、装幀家の戦後第一世代ということになるだろう。 そのほか、名前がよく挙がる装幀家としては、佐野繁次郎(画家)、花森安治、田村義也(岩波書店編集者)、多川精一などがいる。
続く第2世代は、1960年代から70年代にかけて活躍のデザイナーたち、田中一光(1932年-2002年)、杉浦康平(1932年生)、粟津潔(1929年-2009年)、清原悦志、勝井三雄、横尾忠則(以上は、小泉弘(2005)p34に記述がある名前)、平野甲賀[11]、司修、宇野亜喜良、安野光雅、池田満寿夫、和田誠、湯村輝彦、加納光於、道吉剛、廣瀬郁、多田進、亀海昌次、栃折久美子[12]、代田奨、中垣信夫などである。第一世代と異なる点として、本文組みにも関与することが可能になる初めての時期で、ブックデザインとエディトリアルデザインの境界が、1960年代後半からは崩れ始め出したわけである。
菅原正晴編集『ブックデザイン 復刻版』(2006年、p8)での臼田捷治の言によると、「60年当時、本文組みに対して最も意識的だったのは、杉浦さんでしょう。66年の『田村隆一全詩集』では、どういう活字を、何ポイントで、ということを奥付にはっきりと記載しています。その後も組版のデータを載せていきますが、その初期の例。これは原さんもやっていない、杉浦さん独自の新しい方法論なんです。」
この世代では、アングラ演劇や舞踏、水牛楽団など筆者が関心をもつ分野との関わりが深い平野甲賀の装幀に着目し、彼がその多くの装幀を手がけた、晶文社の本はじめ彼の手による装幀本を手元に集め観察した。大正時代の映画の看板などにある独特の描き文字が特色で、「甲賀流」と呼ばれるようになったことが一目でわかる。しかしながら、彼自身は、写植・活字に非常に詳しく、書体の使い方は熟達していたそうだ。「でも彼の前には杉浦さんという大きすぎる存在がありますから、自分の道を探ろうと」(『ブックデザイン 復刻版』p23の工藤強勝の言)したのだという。
第3章 菊地信義と書物の装幀、文学の芸術営
装幀家の戦後世代論的にいうと、菊地信義(1943年生)は、第3世代になる。年代的には、1980年前後からであり、たまたまだが、小劇場演劇の第3世代といわれる時代もこの1980年代である[13]。
対談「現代装丁史を探る[14]」(2006)によれば、80年代の顕著な特徴のひとつは、ブックデザイナーが職能として確立したことである。それまでは、グラフィックデザインと並行してブックデザインの仕事をする形であった。「80年代になると、装丁専門のデザイナーが登場し始める。その象徴的な例が、菊地信義さんあたりではないか」(p20)という。
第3世代からあとの装幀家の名前を記しておく。上記の対談で名前が挙がっている装幀家は、菊地信義のほか、対談者の一人、工藤強勝(1948年生)、戸田ツトム(1951年生)、鈴木一誌(1950年生)、渡辺稔、高麗隆彦、羽良多平吉、山崎登、奥村靫正(ゆきまさ)、東幸見、佐藤篤司、谷村彰彦、山口信博、松永真、佐川英治、建石修司、柄澤齊、望月通陽などとなる。
今に近づく90年代以降になると、デジタルテクノロジー、DTP技術の世代(ポスト杉浦・ポスト菊地の世代という言い方もあるようだ)ということで、有山達也、鈴木成一(1962年生)、祖父江慎(1959年生)、中島英樹、間村俊一、池田進吾、吉田篤弘、原研哉、葛西薫、近藤一弥(1960年生)、松田行正、白井敬尚、大久保明子(文藝春秋デザイン部)などが装幀に関する紹介本などによく登場する名前である。
独断ではあるが、装幀家世代論としては、“戦前世代(代表:恩地孝四郎)、戦後第1世代(代表:原弘)、第2世代(代表:杉浦康平)、第3世代(代表:菊地信義)、第4世代(代表:鈴木成一)から現在”とジャーナリスティックにまとめることもできる。
第1節 装幀家・菊地信義の誕生
菊地信義の装幀について詳しくみていこう。菊地が装幀家になる前は、広告制作に関わるグラフィックデザイナーであった。『花笑』という化粧品会社のPR誌を手がけながら、単行本の仕事にシフトしたと言われている。小泉弘(2005)の紹介をいささか長いので、二つに分けて紹介する(p45-46)。
70年代の末頃より、意識的にブックデザインと取り組みはじめた、菊地信義の仕事は、80年代に入り、多くの愛書家や著作者などから支持されるようになる。彼の手がけた本は俗に〈菊地本〉と称されて、ブームといれるほどの人気ブックデザイナーとなった。彼の装丁の特徴は、広告制作者であった経験から,ブックデザインにマーケティングの発想を取り組み、〈惹きつける装丁、売れる装丁〉を始めから考えた点にある。それも、それまでブックデザイナーたちが手を染めることがまことに少なかった、文芸書を中心としていた点も特徴的であった。
文学の装幀は、それまで、デザイナーによるのではなく、美術家や詩人、あるいは本人が手がけていた。デザイナーのような応用芸術家ではなく、文学者と同じタイプの専門芸術家によるものが多かったのである。菊地の新機軸がマーケティングの発想であるというのは、彼以降のより華やかなデザインを知っている私達には奇異な印象も受けるが、八重洲ブックセンターの2階から、平台に並んだ新刊本を選ぶ読者の行動を長く観察した彼自身が追憶するエピソードを思い出すと納得できる。以下、小泉弘(2005)の紹介の続き。
用紙と文字表現へのこだわりが生み出す、静謐でありながら華のある、艶やかな表情を持つ装丁は、彼に内在する文学的感性の視覚化、触覚化でもあった。彼の功績は、質量共に圧倒的な装丁作品そのものにあることは申すまでもないが、もう一点、その優れた仕事を通して、続く若い世代のデザイナーたちの視線を装丁に向けさせた点も、菊地信義の大きな功績であろう。
菊地の装幀家デビューは、1979年の埴谷雄高(はにやゆたか)著『光速者』(作品社)で、CTスキャナーで撮影した埴谷の脳の断層写真を表紙に使って、新聞紙上でも話題になる。翌年1980年、菊地の仕事に注目した山口百恵が自身のエッセイ集『蒼い時』(集英社、プロデューサーは残間里江子)の装幀者として菊地を指名する。このように、ベストセラー本から、埴谷雄高、吉本隆明、三浦雅士の思想書までを手がける点が彼の特色である。
文芸書に限っても、中上健次、古井由吉、大江健三郎などの本格的文芸書から、新人(当時)の俵万智『サラダ記念日』(河出書房新社、1987年)のような売れ筋本までを菊地は手がけている。この『サラダ記念日』には、本人の写真とごチック体の題名(ローマ字で名前を入れるのは彼の工夫の特色)を使って親しみやすい表紙に徹し、後ろのカバーには、荒川洋治、高橋源一郎、小林恭二の推薦文がおしゃれに記されたりもしている。たとえば、高橋源一郎は「コピーが詩人たちを青ざめさせたのはつい最近のことだった。今度は短歌がコピーライターたちにショックを与える番だ。読んでびっくりしろ、これが僕に出来る唯一の助言である。」と記している[15]。
第2節 菊地信義の装幀思想と文学の芸術営
菊地信義の『装幀談義』(1986)の帯、カバーにしめされたコピーは、以下の3つである(「/」は改行の印)。
<誘惑術/本の顔を作り/本という〈もの〉に/人を誘惑する/装幀家/菊地信義が/手がけた作品を/例にあげながら/自在かつ率直に語る/秘密と方法>(帯の表。斜文字)
<本という器は、人の心を沸き立たせるものではなく、静かで真に孤独な、読む人の心を鎮めてくれるものを盛るのに向いている。>(帯の裏、p180を踏まえている)
<装幀者の仕事とは、/作家によって書かれた作品を、/本という物にする際、その箱、カバー、表紙、/見返し、トビラまでの装と形を考案する事にある。/現在、本も商品として書店から読者の手に渡る物である以上、/装幀の役割は、書店で人々の心を誘いこむ事にある。/しかしそれは商品としての本という事からだけではない。/言語という表現手段で表された本という物は、一人一人の読むという行為の内で真に一冊一冊の/本になるのだと考えているからだ。/依頼された作品ごとに、作品の内から装いを考え、/その考えを来たるべき読者の目と手の内で/形にしようと心がけて来た。菊地信義>(カバーの表の折り返しの中の上部)。
菊地信義(1986、p106)によると、実用書、ハウツウ本においては、装幀の役割は、読者の目を止めることはもちろん、その本がどんな内容の本かというために「瞬時に答が出ていなければだめ」である。文芸書では、ハウツウ本とは違って、「逆にそこに答が出ていたらだめなのではない」か、と主張する。ここに、文学という芸術をマネジメントし広報するときの要点が記されている。装幀でその芸術、文学の内容がわかってしまうともうその魅力がなくなってしまうというわけである。実用書では、その効用をきちんとわからせてほしい、そうしないと、時間も経費ももったいない、となる。
とはいえ、まったく無名の新人の作家の場合(導入期の作家)には、装幀はわかりやすい方がいいし、解説レベルの装幀にする必要がある(先述した『サラダ記念日』がその例になるかも知れない)。菊地としては、導入期を終えて普及期、成長期になった作家の装幀の方が面白いという。その作家をすでに知っている読者が、彼の装幀によって、その作家の知らない領域に気づき、その未知の世界を味わいたいという気持ちにさせるというのが、菊地の文芸書の装幀論の基本となるのである。
言い換えると「テキストの構造と装幀を組み上げる要素の構造が重なるように」(p121)するのが理想なのである。「テキストの要点をくくって、その要点を視覚化し、ビジュアライズして説明してあげる、解説してあげるんだという装幀」を超越しようと菊地は宣言したといえる。
この主張の背景には、文学の読書という行為には、「ただ読んだということで完了するもの」であり、「読むことを純粋にしていく」書物に出会い、それが文学の鑑賞者へ、芸術の体験を通して「その人の実生活の中で、真に個々の体験を切り開いていく力、現実を開示していく力」をその読書という体験が与えるという思想がある。
ここでの結語的な文章がこれである。「装幀表現を考えるとき、最終的に考えることは、その本の姿に、静まりみたいなものを生み出したい、ということですね。人が、底知れない静かな沼みたいなものに出逢う本と出会ってくれたらいと思うんです。」(p180)
『新・装幀談義』(2008)も上記の『装幀談義』と同趣旨の思想が敷衍されている。違うのは、菊地が装幀した本の厖大な蓄積である。よりシンプルな思想がそこには開陳されている。
「作品を、本という物に化すためのデザインが装幀です。」p15
「その作品の最初の評が装幀なのだと思います。」p17
「『手のなかではじまる劇』といっているのですが、本は触覚的なものから自由になれない、立体的なオブジェです。」p21
「(装幀で本の印象を固定化し強要するというのではなく、装幀は)来たるべき読者の目に、……ただ読みたいという思いを生む透明な存在としてありたいのです。」p24
「先ほど、既知を未知へと転じる、手の内の劇、その謎を解こうとする心の動き、それが読むという行為の火種になるといいましたが、人は装幀に目が止まり、心惹かれ、その理由を探すように手に取り、読みはじめる。」p29
「読者を『解き放つ』ということは、人に小さな不安を生じさせることです。自分はこういう理由で手に取ったはずなのに、なにかがちがう――そういう思いが、読むことへの火種になる。自分が感じた『なぜ』の答を探しにページをめくる、作品を読んでいく。」p31
読者を文学作品へと旅立たせるための糸口としての謎。心を解き放ち、文学という芸術に純粋に向かうことを段取りする芸術営としての装幀。菊地の言葉から、文学の芸術営に不可欠の要素としての装幀術のあり方が鮮やかにみてとれる。
第3節 菊地信義の装幀営為と文学者・蜂飼耳
菊地信義が装幀して世に送り出した作家の一人、蜂飼耳の文学における菊地の装幀について取り上げたい。前節に示したように、菊地は新人よりもその次の段階の作家を装幀することを好む。いまから、取り上げたい作家、蜂飼耳(1974年神奈川県生)も、菊地の装幀の前に、詩集『いまにもうるおっていく陣地』(紫陽社、1999年)ですでに第五回中原中也賞を受賞した詩人である。
ただし、菊地が彼女の初エッセイ集『孔雀の羽の目がみてる』(白水社、2004年)の装幀と本文レイアウトを請け負ったのは、彼女の図書新聞の連載を読んだからだという。彼女の2003年出版の物語絵本『ひとり暮らしの のぞみさん』(径書房)で彼女の素晴らしさを確認する。「白水社 : 【特集】菊地信義×蜂飼耳【対談】http://www.hakusuisha.co.jp/topics/hachikai01.php」によると(2013.1.6閲覧)、本文の活字などトータルなブックデザインを考え、「書見台で本を読んでいる人の姿。台の上の和綴じの本にはチリが無い。書見台がチリの役を荷って、本の外の物や空間から版面を読むという行為の結界を結んでいる。上製本のチリは自前の書見台なのだとすれば、チリを深くすることで版面の余白の不足を補える」ということに思い至る。チリ(表紙と本文の判との間の、三方はみ出た部分)を通常は3ミリ程度なのを、ぎりぎりの採算ラインとの妥協で8ミリにした。続けて、菊地の言葉の引用:
今度の仕事で一番意識したことは、蜂飼さんの文章を盛る容器、入れ物を作るんじゃないということです。文章を読むことで起きる読者の心の事件、その現場を作るという意識です。「蜂飼さんの文章ってどんなイメージ?」「こんな印象だよ」というように印象を紡ぎあげた容器では駄目だと。ブックデザインは通常、情報としての文章の容器として存在している。蜂飼さんの文章は、一つの事件の現場をつくってみろ、と僕に要求してきた。(http://www.hakusuisha.co.jp/topics/hachikai01.phpより)
装幀が、文学においては、「事件が生まれる場」「読者の心の事件現場」を創るということをこの実践は示している。翌年の2005年、菊地信義は、蜂飼耳の第2詩集を装幀する。彼による装幀のイメージとその実現方法は以下のようであった。菊地信義(2008)p188-190より:
蜂飼さんの詩集の造本・装幀のイメージは、未知の小さな動物を手にする、というものでした。
本体の表紙はコースター原紙(実際にコースターに使う紙)。この紙は約1ミリの厚さがありますが、三層に合紙してイメージの厚さを獲得しました。当初のイメージは五層の厚みを考えていたのですが、試作で製本時の裁断が無理だということで断念しました。背表紙はつけずに、本文の前後に見返し紙で表と裏の表紙が糊づけされています。
背は、かがった本文の折り丁をそのまま露出してあります。動物の背骨見立てました。背表紙がないので本がピタリと開きます。関節のやわらかい小さな動物が伏していた姿です。表紙には一切文字を入れず、カバーと帯を兼ねる筒状の函を用意しました。両手で函を垂直に持って、力の加減で本体が抜け出てきます。この詩集は二種類出ています。重判のさいコストと手間の関係で新装版として造本・装幀を替えました。背の折り丁を見せる形を生かした並製、捕獲された動物の姿です。
菊地信義を通して、若い詩人でエッセイスト、物語作家の蜂飼耳を知った。実に楽しみな作家である。動物の背骨を手のひらに持たせようという菊地の意図通り、その詩やエッセイ、小説において、彼女や主人公は小動物がいる森の中を自由自在に歩く。さらに、山の中、海辺を歩むように街を巡り、小さな祭礼を巡る。時に宮沢賢治のような心象風景を垣間見せると思うと、時には深い古典と戯れる。
1943生まれの菊地が31歳年下の蜂飼の文章に惚れるだけある力強くて凛とした文学者である。装幀家冥利につきるのだろう。そして、装幀という営為が文学という芸術営の一翼を担うことの証明でもあると言える。蜂飼耳の第3詩集『隠す葉』(思潮社、2007年)、第2エッセイ集『空を引き寄せる石』(白水社、2007年)、初めての小説集『紅水晶』(講談社、2007年)も菊地の装幀である。
菊地はまた広告業界に身を置いていたからこそ、毎年、広告代理店から出てくる刺激的なビジュアルの一時的な新しさという価値に誤魔化されてしまう悲しさを知っている。だから、『季刊デザイン d/SIGN nol.1』(2001年)の「装幀・菊地信義…私性と共同幻想のあいだ」において、広告代理店がスポンサーの製品に付与するビジュアルショックによって、「日常生活のなかでの小さな発見、たとえば、妻と子どもと暮らす2DKのマンションの照れ合うに咲いたクロッカスの花が、美しく思えなくなる」(p35)のだ。「クロッカスの開花の驚きよりも、テレビから毎日送り込まれる新しいコマーシャルの、見たこともないような映像の新しさの方が話題になる」怖さの自覚から、菊地の装幀は、お知らせするのではなく、それぞれの読者自身が「ものごとを発見するための手段としての表現」であるという。
謎に誘われ発見しようと蜂飼耳のエッセイ『空を引き寄せる石』を開く。すると、「クロッカスの開花」に驚く日常の積み重ね、市井の生活の空隙に潜む普段は「見えないもの、聞こえないもの」が何気なく提示されている。限界音楽を聴くというふうにも受け止めることのできる一節を以下に引用しておく(p34-35「空」より)。鳶にパンくずを投げていた「私」が地上の音に気づく一瞬のところ。
パーと音をたてて、豆腐屋の車が通る。見えなくてもわかる。吹き方に元気がないのは豆腐屋が年を取ったからだ。きぬ、もめん、がんもどき、しらたき。豆腐屋さんは鳶になにか投げてみたことがあるだろうか、と考える。パーと急に勢いを増して去る。合図を聞いて出てくる人もなく、だれも買わないときには、そんなふうに去っていく。一定の距離を過ぎると、音色が変わる。豆腐屋さんは、自分のことだから気づかないだろう。
装幀による文学芸術発見のサポートという菊地の基本思想を、子供たちとのワークショップという形で示した事例が、『みんなの「生きる」をデザインしよう』(2007年)に記録されている。NHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」のために行われた27人の子供たちとの授業科目「装幀」である。教材は大小さまざまな文字のコピーと、谷川俊太郎の詩「生きる」。これに、子供たちが一夜悩み感じ考えぬいて、自分なりの装幀をつくる、というものであった。
この菊地信義(2007)を読み、文学のワークショップの大きなヒントがここにあると思った。同時に、装幀という応用芸術のアウトリーチ(部外者へのアクセスサポート)としての面白さと広がりも実感した。文学の芸術営にとりかかる一つの補助線がようやく装幀から見えてきたようにも思う。
おわりに
「はじめに」で述べたように、本稿の目的としては、「文学書の装幀家を文学の芸術営における重要なプレイヤーと仮定して、書物の形、造本、そして装幀というデサイン行為が、社会に文学という芸術を伝えるため、どのように貢献してきたのか」を挙げた。
そこで、まず、装幀とはどのようなものか、装幀家の簡単な歩みとはどのようなものかについて、不十分ながら記述した。その上で、文学と装幀の関係、文学という芸術を読者へといかに届けるか、そのあり方について、装幀を真正面から問い続けてきた菊地信義の思考と実践を事例にあげて、具体的に追ってみた。
その結果、言葉の芸術である文学を装幀という観点から考察することの意義について、一定の確信を得ることができたと思う。芸術営としての観点のみならず、文学と装幀を組み合わせたアウトリーチやワークショップのヒントを、考察する途中に得ることができたのも僥倖であった。
もちろん、文学の芸術営としては、重要なプレイヤーである編集者の研究が残されているのも忘れてはならない。また、文学原稿のゲラを書物というデサインによって読者へとプレゼントする装幀から、その想定された書物を飛び出して、もう一度、読み語る朗読のこと。あるいは、絵本や漫画など、文学と美術とを合わせた芸術ジャンルにおける装幀探究もこれからの領域であり、言語芸術の芸営学研究は広大であることを垣間見た気がする。
《参考文献》
・臼田捷治2003『現代装幀』美学出版
・臼田捷治2004『装幀列伝-本を設計する仕事人たち-』平凡社(平凡社新書)
・大貫伸樹2003『装丁探索』平凡社
・菊地信義1986『装幀談義』筑摩書房
・菊地信義2008『新・装幀談義』白水社
・菊地信義2000『樹の花にて―装幀家の余白―』白水社(白水Uブック)、白水社により1993年刊行
・菊地信義2007『みんなの「生きる」をデザインしよう』白水社
・菊地信義+フィルムアート社編著1986『装幀=菊地信義―本の肖像 書物のドラマ』フィルムアート社
・工藤早弓1997『明治・大正詩集の装幀』京都書院
・小泉弘2005『デザイナーと装丁』デザイン製本シリーズ・デザイン製本①、印刷学会出版会
・紅野(こうの)謙介1999『書物の近代-メディアの文学史-』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、「ちくまライブラリー」80として筑摩書房より1992年刊行
・庄司浅水1978『日本の書物 古代から現代まで』美術出版社
・鈴木成一2010『装丁を語る。』イースト・プレス
・多川精一2000『戦争のグラフィズム-『FRONT』を作った人々』平凡社
・竹信悦夫2005『ワンコイン悦楽堂-ミネルヴァの梟は百円の本に降り立つ-』情報センター出版局
・司修2011『本の魔法』白水社
・戸田ツトム1989『森の書物』発行:ゲグラフ、発売:河出書房新社
・長友啓典2010『装丁問答』朝日新聞出版(朝日新書)
・西野嘉章2011『新版 装釘考』平凡社
・平野甲賀1986『平野甲賀〔装丁〕術・好きな本のかたち』晶文社
・和田誠1997『装丁物語』白水社
・菅原正晴編集2006『ブックデザイン 復刻版』ワークスコーポレーション、2003年、2004年にBOOK DESIGHN Vol.1・ Vol.2として刊行されたDTPWORLD別冊BOOKを編集増補して合本。オリジナル編集は、津田淳子(主な内容:「現代装丁史を探る」工藤強勝と臼田捷治との対談、「大久保明子のブックデザイン」ほか)
・2001年8月『季刊デザイン d/SIGN nol.1-特集 紙的思考-』発行:筑波出版会、発売:丸善出版事業部(主な内容:菊地信義「装幀・菊地信義…私性と共同幻想のあいだ」、「紙を風景に延長する 戸田ツトムと鈴木一誌との対話」、佐々木正人「自然のデザイン原理◆1 包囲光、複合されたレイアウト」ほか
・日本図書設計家協会編2007『装丁の仕事169人 BOOK DESIGN 2008』WORKBOOK ON BOOKS 7、玄光社
・日本図書設計家協会編2012『装丁・装画の流儀 装丁装画家163人の仕事』玄光社
[1] 芸術を大きく3つに分類すると、美術工芸や映画などの視覚芸術(ビジュアルアーツ)、演劇ダンス、音楽などの実演芸術(パフォーミングアーツ)、そして、詩歌、小説、評論エッセイなどの文学や書(書道)などの言語芸術に大別することができる。
[2] ユルゲン・ハーバーマス『[第2版]公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究』細谷貞雄・山田正行訳、未来社、1973年(初版)、1994年(第2版)
[3] 日本図書設計家協会のHP(http://www.tosho-sekkei.gr.jp/)によると「図書設計とは、装丁・装画から印刷・造本までを含むブックデザインのこと」とある(2013.1.6閲覧)
[4] 「朔太郎がいうように、文学者の心配をひきうけてたくさん装幀をやっているうちに、文学者からの『生き方』の影響を受け、造本力より、ぼくの人生の色彩を増やした」「本の魔法にかかって、びりびりと感じた」(p264)と司修は、『本の魔法』(白水社、2011年)で述べている。
[5] 講談社出版文化賞【ブックデザイン賞】過去の受賞者一覧 : http://www.kodansha.co.jp/award/archive/book-design.html (2013.1.16閲覧)
[6] 小泉弘の装幀家としての仕事は、例えば、日本図書設計家協会(2007)のp62参照
[7] あたかも、交響楽を聴取するように、装幀を総合的に楽しみレビューする形。
[8] 近世の商業出版社兼印刷所兼書店。書林ともいい、町人たちの文化繁栄の始まりを知らせる拠点でもあった。
[9] 次の萩原朔太郎詩集、『青猫』では、初版(新潮社、1923年)自身の装幀、『定本青猫』(版画荘、1936年)では、表紙カットに川上澄夫を起用している。
[10] 原弘自身による作画をもとにしたもの
[11] 「平野は一貫して文字の持つ、パワーやメッセージ性を思考し、その独特な表情を持つ描き文字によるブックデザインは、多くの支持を得た。『本郷』、『父・長谷川四郎の謎』」(小泉弘(2005)p42)。
[12] その後、彼女は、筑摩書房の編集者から独立してルリユール(製本工芸)の世界で活躍する。
[13] ただし、野田秀樹や鴻上尚史などがその代表なので、10歳以上装幀の第3世代は上であり、先に取り上げた平野甲賀は小演劇第1世代でアングラ演劇の人たちと同世代であった。
[14] 菅原正晴編集『ブックデザイン 復刻版』ワークスコーポレーション、2006年(2003年、2004年にBOOK DESIGHN Vol.1・ Vol.2として刊行されたDTPWORLD別冊BOOKを編集増補して合本。オリジナル編集は、津田淳子)・・・「現代装丁史を探る」(工藤強勝と臼田捷治との対談)、「大久保明子のブックデザイン」ほか
[15] 黒い下地に白抜きの文字の「帯」にも、大岡信、馬場あき子の推薦文が載っており、コピーは「万葉集もなんのその、与謝野晶子以来の大型新人類歌人誕生」とあり、ピンク文字で彼女の短歌「万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ」とある。
