失敗さえも、循環の一部 ──『庭仕事の真髄』に見つけた、再生の足場
前回の記事では、雑草だらけの庭を前に、植物の速度に自分を合わせる「降参」という名の安らぎについて綴りました。
自分の意志ではどうにもならない自然の時間軸に身を置くことは、私にとって何よりのスローラーニングの実践でした。
この実感を、さらに深い納得へと導いてくれたのが、スー・スチュアート・スミスの『庭仕事の真髄』です。2021年に一度手に取ったこの本を、今、スローラーニングという旅の途上で「再読」したとき、かつては読み飛ばしていた言葉が、今の私の心に深い「地層」となって重なっていくのを感じました。
季節という名の「慰め」と、再挑戦の権利
かつての私は、読書一冊にさえ「得をすること」を求め、期待した成果が得られないと「時間を無駄にした」と自分を激しく責めていました。
しかし、著者は庭が持つ循環について、次のように記しています。
季節という時間構造には慰めがある。寛大で、次のチャンスがあるから人間は学ぶことができる。もしも今年何か失敗しても、翌年の同じ時期にまたやってみればいいのだ。
「また来年やればいい」。前回の記事で私がたどり着いたあの「降参」の正体は、実はこの季節がくれる「慰め」だったのです。一度の失敗を「無駄」と切り捨てる直線的な時間上ではなく、巡り来る循環の中に自分を置くこと。庭は、失敗をしても何度でもやり直せる「学びのチャンス」をくれる寛大な場所なのだと、再読を通してようやく腑に落ちました。
プロセスは、決してスキップできない
この本をスロー・リーディングで読み進めるなかで、私はある確信に近い気づきを得ました。それは、「ガーデニングにおいて、プロセスは欠かせない。それをスキップしては何もできない」ということです。
種をまいて、いきなり花が咲くことはありません。当たり前のことですが、焦燥感に追われる日常にいると、私たちはついこの「飛ばせない時間」を、知識やノウハウでショートカットできると信じ込んでしまいます。
かつての私が「園芸療法」を性急に習得しようとして挫折したのは、庭が求めるこのプロセスを無視しようとしたからでした。土を触り、芽吹きを待ち、枯れるのを見届ける。そのスキップできないプロセスを身をもって体験すること自体が、私の内側に「情報の束」ではない、確かな経験の体積を積み上げてくれるのです。
心の「足場(あしば)」としての庭
以前の記事で、日本語教師としての役割は、学習者の気づきを支える「足場(あしば)」を提供することだと綴りました。『庭仕事の真髄』を読み終えた今、私は、庭そのものが私の心にとっての「足場」になってくれているのだと感じています。
命の速度は植物の速度である。速度は落とされ、安全な囲いの中にいるという感じと親近感が、心をより内省的な状態に変えてくれる。
日常生活の速すぎるテンポに消耗したとき、庭は私を基本的な生物学上のリズムへと引き戻してくれます。効率を追い求めて「思考の箱」の中に閉じこもっていた私を、ふかふかした土の感触や、複雑に絡み合った根っこのたくましさが、再び自力で立ち上がるための土台となって支えてくれるのです。
打算的にノウハウを収集しようとしていた、私の庭との付き合い。しかし、今、私はあえて「草だらけのまま」の庭に立ち、一季節を待つ豊かさを味わっています。
庭で改めて実感した「待つこと」の豊かさは、私が以前から大切にしているある習慣とも、今、静かに響き合っています。
次回(5月27日)は、買い物の衝動を静め、本当の「心惹かれるもの」を見極めるために私が長く続けてきた「一週間寝かせるルール」について。庭の循環を知った今だからこそ見えてきた、このささやかな日常のルールの「奥」にある意味について、お話ししたいと思います。
晴歩雨綴(はれあゆみ・あめつづる)
知識より、気づきを。進捗より、味わいを。ゴールよりも、道のりを。
学びを楽しむスローラーニングの旅の記録。
