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正解を収集するのをやめたら。──自分だけの「問い」と、「凪」の時間

「新しい知見に触れたい」という期待に誘われて通う、大学の公開講座。しかし以前の私は、「効率」というたった一つの基準に支配され、受講後に「時間を無駄にした」と自分を責めてばかりいました。
知識の「収集」を目的にするのをやめ、その場の「ライブ感」で自分だけの問いに出会うこと。
情報を持ち帰ることよりもずっと豊かで、心に凪をもたらしてくれる、新しい学びの形について綴ります。



ノートを埋めるだけの言葉と、拭えない「無駄」への憤り

「生涯学習」という言葉が叫ばれて久しく、最近では大学の公開講座もより身近な存在として、その数も年々増えてきたように感じます。私も、新しい知見への期待に誘われて、よく受講を申し込む一人です。

かつて、私にとっての学びは、「いかに効率的か」というたった一つの基準に支配されていました。

もし講座の内容がすでに知っていることだったり、わざわざ足を運ばずとも講師の著書を読めば事足りるものだったりすると、事前にそれを見抜けなかった自分に対して、言いようのない憤りを感じていたのです。

「なぜこの講座を選んでしまったのか」「本を読めばもっと短時間で済んだはずなのに、なんて無駄な時間を発生させてしまったのか」。そんな後悔が、受講中もずっと頭を離れませんでした。
せっかく貴重な時間を使って参加したのだから、仕事や生活に即座に役立つ知識を一つでも多く仕入れなければならない。そうして「せめて元を取らなければ」という焦りに急き立てられるようにして、必死にノートを取りました。しかし、後日読み返してみても、そこに書かれているのはただの知識のなぞりでしかなく、自分の日常に活かされることのない、熱を失った言葉が積み重なっているだけでした。

『スロー・ルッキング』がほどいた、心の焦燥

「何かに役立てなければ」「早く成果を出さなければ」という私の焦りを、シャリー・ティシュマンの『スロー・ルッキング』は、鮮やかな視点で解きほぐしてくれました。

公の教育の多くは満足感を得るのを遅らせるような活動です。試験に合格するために一生懸命勉強するとか(中略)高度な実践に到達するために機械的な手順を覚えるなどです。それに対して、ゆっくり見て世界の美しさを知ることはそれだけで価値があることを生徒たちは直感しているようです。

試験や実利のために、今の満足感を先送りにする学びばかりを追いかけていた私にとって、「それ自体に価値がある」という言葉は新鮮な驚きでした。
知識を仕入れて「得」をしようとするのをやめ、その場に身を置いて、自らの好奇心が動くプロセスそのものを慈しむ。
それだけで、あんなに強かった焦燥感が霧散し、心の中に静かな凪が訪れるのを感じました。

知識の収集から、自分だけの「問い」との出会いへ

それでも、私の心のどこかには「本を読めば済むことだったのではないか」という疑念が小さく残っていました。しかし、著者は自らの目で見る「ライブ感」の正体について、こう記しています。

スロールッキングの価値は自分自身のためにそれを行うことにあります。外部からの情報や又聞きからはそれに代わる洞察や喜びは得られません。

確かに、正確な知識だけなら「外部からの情報」や「又聞き」で手に入るかもしれません。しかし、自分の目で見、講師が放つその場の熱量に触れ、自分の好奇心に従って何かを発見する。そのときに生まれる洞察や喜びは、決して代用のきかない、私だけのものなのです。

今の私にとって、公開講座は「完成された知識」をただ収集しに行く場所ではありません。そこは、「考える種」や「問いの入り口」に出会うための場所なのだと感じています。

持ち帰った種が、いつ、どこで芽吹くかはわかりません。しかし、最短距離で手に入れた情報の束よりも、じっくりと時間をかけて自分の中に溜めていった「私だけの気づき」こそが、これからの人生に豊かな体積を与えてくれるのだと信じています。


「効率」という基準を一度手放すと、世界には、自分だけの「気づきの種」が溢れていることに気づきます。
たとえ見つけたものが、たった一つの小さな「問い」であったとしても、それは最短距離で手に入れたどの情報の束よりも、私の内側で確かな手触りとなり、これからの歩みを支えてくれるはずです。

次回は、この「じっくり見ること」の驚きをさらに深める『スロー・ルッキング』の読書編をお送りします。



晴歩雨綴(はれあゆみ・あめつづる)
知識より、気づきを。進捗より、味わいを。ゴールよりも、道のりを。
学びを楽しむスローラーニングの旅の記録。

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