「正論」だけでは届かない。論理と感情のあいだにある、大切な違和感の話
論理(ロジック)は、複雑な問題を整理し、多くの人を納得させるための素晴らしい道具だ。
しかし、時に「論理がすべて」「正論こそが正義」という姿勢に直面したとき、どこか窮屈さや違和感を覚えることがある。
筋道は通っているけれど何かが違う気がしたり、正しいことは分かるけれど心がついていかなかったり──
「論理」の盲点
論理の本質は組み立ての正しさにあるため、出発点となる前提がズレていれば結論も狂ってしまう。
どれだけきれいにロジックが組まれていても、その土台となる「置かれた状況」や「背景」、「人間の複雑な気持ち」が抜け落ちていれば、導き出される答えもピント外れなものになってしまう。
また、正しいからといって人が動くとは限らないという点も重要だ。
「正しいか、正しくないか」という論理と、「やりたいか、やりたくないか」という感情は全く別の次元の話である。
どれだけ完璧な正論を突きつけられても、感情が納得しなければ人は動かない。
人を動かす最後の原動力には、共感、熱意、感謝といった感情がかかわっていることが多い。
さらに、論理は想定外の新しい変化に弱いという側面もある。
論理は基本的に、過去のデータや既知の法則、すでに言語化されたルールをベースに組み立てられる。
そのため、まだ言葉や数字になっていない時代の兆しや、現場のリアルな変化に対応するのはどうしても苦手だ。
モヤモヤする「違和感」を味方にするヒント
論理至上主義の言葉にモヤモヤするときには、自分が感じた違和感を、ひとまず信じてあげたい。
「上手く言葉にできないけれど、何かおかしい」という感覚。
それは、そのロジックが見落としてしまっている人間らしさや、現場のリアルな空気を察知しているからこそ生まれるものかもしれない。
言語化できないものの中にこそ、大切な本質が隠れていることもある。
おわりに
論理だけでも、感覚だけでも、目的地には着けない。
論理と感覚、その両方を重ね合わせたときに、初めて見えてくる本質がある。
ロジックに心が削られそうになったときは、そっと胸に手を当てて、言葉にならない自分の小さな声をキャッチしてあげたい。
