No.2056 樹上の人
『伊勢物語』の「むかし男」とは、在原業平と限らないようですが、多くは業平に関するお話(一代記)と言われています。
その母親は、第50代・桓武天皇の第八皇女・伊都(いと?いず?)内親王です。名の伊都(伊豆)は、乳母が伊豆氏出身だったことに由来するとも考えられているそうで「いと」と「いず」の読みがあるようです。思わず、
「It is Narihira’s mother.」
などと、ダジャレ爺さんが脳裏で口出ししてきます。
また、父親は、第51代・平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王です。普通なら命名したくないような響きなのですが、そのお住まいがあった、地名からの命名でしょうか?810年薬子(くすこ)の変に連座して大宰権帥に左遷され、後に許されて帰京し、子の行平・業平に在原姓を賜ったそうです。
伊都内親王(801年?~861年)と阿保親王(792年~842年)は、叔母と甥っ子の関係でしたが、叔母の方が甥っ子よりも10歳前後若かったことが知られます。
『伊勢物語』第八四段には、その母子の歌の贈答が記されています。
伊都「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな」
(年取った私は、死が避けられないから、いっそうあなたにお逢いしたいものですよ!)
業平「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと祈る人の子のため」
(この世に避けられぬ死別が無ければなあ。親の千年の長生きをと祈る私のために)
子を思う母親の情愛の深さ、母親への慕情溢れる息子の歌です。
そんな母を見送った在原業平(825年~880年)も、55歳で亡くなります。
「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」
(最後に行く道だとは前もって知ってはいたが、まさか昨日今日に迫っていたとは思わなかったよ!)
『伊勢物語』最終段(第一二五段)のお話です。
業平の最終官位は、「蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守」(くろうどのとうじゅしいのじょうぎょうこのえのごんのちゅうじょうけんみののごんのかみ)という舌を噛みそうなくらい長いものでした。
今年は、義父の13回忌です。30歳で一念発起して茨城から上京し、庭師になるべく修業を積み、数年後には家族4人で生活するために自立して造園業を始めました。夏の真っ盛りの猛暑の日々も、冬の寒さ厳しい身も凍るような中でも、瘦身に鞭打って働きました。
三度の飯よりもタバコが好きで、仕事中も手(口?)離しませんでした。いや、それが仕事に集中する、無くてはならない必需品だったのかもしれません。
「酒は止められても、タバコは止められん。」
と言ったこともあります。
私の祖父はド田舎の農夫であり山男でした。夕食中に酒を飲む時、
「俺が飲むんじゃねえ、仕事が飲むんじゃ!」
と威張って飲んでいました。明治生まれの男は、なかなか気骨があり、酒を愛しました。
80歳を過ぎたある日、酒2合が入る透き通った燗瓶(かんぴん)が半分くらいなくなったのを前にして禿げ頭を抱えて黙り込んだことがありました。
「どしたんかえ?爺ちゃん!」
「歯痒(はがい)ーのー!酒が飲めんごとなった!」
と言いました。我々は顔を見合わせて笑いました。80歳でそんだけ飲めたら十分でしょ!
わが義父も、タバコに愛されたかのように相思相愛で、蜜月の関係でした。義母も娘たちも「言って聞くような人ではない。」と諦めていました。しかし、「百害あって一利なし」の言葉もあるように、長年義父の体に棲み着いた盟友は、その同盟を反故にし、悪さを働くようになりました。
「モンゴル人は、馬上で育つ」
と言うそうですが、わが義父は、庭師として樹上で生涯を送りました。ゴツゴツした無骨な右手は、鋏胼胝が出来、左手は間違ってハサミを入れて怪我したところに樹木の脂が染みついて黒く固くなっていました。
それは、仕事人ならではの美しい手でした。しかし、肺を病んで入院生活を余儀なくされた義父に、再び剪定鋏を握る夢は叶いませんでした。
「昨日今日とは思はざりしを」
とは、12年前の、まさに遺族の実感でした。あっという間の12年間でした。一層強まる義父への報恩にと、今年は上京して「樹上の人」の供養の列に並びます。
※画像は、クリエイター・男性看護師會-感護師-坪田康佑さんの、タイトル「石川県 金沢」とあった兼六園の松の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。
