愛をさけぶ。母𓆸これってほとんどアイラブユーだよ
母について書こう。
私の母は、ドラマチックに情熱的な女である。
彼女の情熱の場面に舞台装置の様に組み込まれる度に、その自分と彼女との温度の違いに驚く。「瀬戸内の女じゃけん」というどこかで誰か(多分祖父)が言っていたフレーズが頭の中でリフレインされる。
広島生まれが「瀬戸内の女」なのか、母の気質がその生まれた土地故なのか「瀬戸内の女」が何なのかは知らないけれど。
またはそれは、血のせいかもしれない、母の親族は(ほぼ広島に住んでいて)みなよく言えば情熱的、悪く言えば暑苦しいタイプだ。
こんな記憶がある。
私が大学2年の夏休みだ。
当時、祖母が胃がんに罹患し、胃を1/3摘出する手術を受けた。祖母の胃がんは抗がん剤の必要が無いぐらいには初期の初期だと医者に言われていた。
手術が終わったある日の事だ、見舞のわたしが乗ったエレベーターが祖母の病室のフロアについたちょうどその時、そのドラマは始まった。
エレベーターの扉が開いた向こう側で「わたしがあんたを死なせんよー」という叫びが響いた。フロア中に響き渡るその声の主は叔母(母の姉)だった。
「は?」見開いた私の目に飛び込んできたのは、エレベーターホールの真ん中で車椅子に乗る祖母と、祖母を抱きしめて咽び泣く叔母の姿だ。
その姿たるや、完全にスポットライトが当たっていた。ピンスポってやつだった。
もう一度いう、祖母の癌は初期の初期であった。
(何故よりによってエレベーターホールのど真ん中でその劇始まったんだよ)
そして私は、ピンスポを絞るようにそっとエレベーターの扉を閉じたのだ。
(のちに聞いたところ、車椅子に乗った祖母が、足をステップに持ち上げられなかった事でおこった惨事…ドラマであった。らしい)
そう、叔母は母よりもその情熱度(ドラマチック)度合いがひどく、彼女はいつでもどこでもヒロインである。
母はそこまででは無い、無いであろう、無いと思いたい。
情熱は血筋に由来し、けれど土地柄に密接に関わり、つまりは広島から離れ数十年、母の情熱、ドラマチック度合いはだんだんと東に紛れて薄れている様に思えた。
だから母について、私は叔母と同じカテゴリーであると考えていなかった。まあ私よりも母は少々あつくる…情熱的な方ではあるが、私はどちらかといえば関東の冷めたタイプの人であったし、母親なんてものはえてしてあつくる…情熱的なものだ、そんなもんだろう。ぐらいの認識であった。
母を叔母を同じカテゴリーにカテゴライズし直したのは27歳の春だ。
27歳の春。
私は3年付き合って結婚を約束した人と別れた。
彼の浮気により半年ほど別れる別れないでもめていた私は当時ひどく痩せ、ひどく疲弊していた。両親への挨拶を終えた後だったので、私は普段では親に言わない色恋沙汰、つまり彼と別れた事を母に伝えた。
別れた事だけを伝え、「いったん家に顔を見せなさい」という母からの連絡を放置した。あの日々、私は仕事以外の諸々をすべてシャットアウトしながら生きていた。
話しかけないでください、話しかけても良いから慰めないでください、慰めても良いから考えさせないでください。
昔からこういう時、親にも友達にも頼れずひとり閉じこもる悪癖が、私にはある。
2.3ヶ月後だったと思う。何度も何度もかかる母からの電話をのらりくらりと生返事でかわし続けていた日々、母から連絡があったのは冬が終わり、ほんのり暖かくなって来た日曜日の朝だった。
「午後2時に銀座にきなさい。」
有無を言わさない母の誘い、たどり着いた銀座にはあきらかに作り笑いの母が立っていた。
作り笑いの母と、今はもう無い伊東屋のティーラウンジ(大好きな店だった)に入った。
「大丈夫なの…」向かい合った母はぽそりと小さな声で私に問うた。
「大丈夫だよ」ヘラリと笑いながら答える私を見て、何かに堪えながら母は、母は…「育て方を間違えた」と、思ったよりもはっきりした声で断罪した。驚きであった。
「なんでそうなの、なんであなたは生きていくのが大変なの、一個一個考えて、考えすぎて、一個一個立ち止まって、私なんて私なんて…うっ…」だんだん声を大きくして、眉間に皺を寄せて何かを堪えながら母は「…何も考えずパパと結婚して幸せで、幸せでごめんなさい。私だけ幸せでごめんなさい」と堪えきれずに泣き出したのだ。
「…、…、…なにそれ」
慰めを受けるだろう、慰められなくてはいけないだろうとかたく身構えていた私は、突然の叱責とまさかの惚気に、妙に拍子抜けし、ぽかりと肩の力が抜けてしまい、そう、ひさしぶりに笑った。
ひとしきり泣いた母は「まあ、そういう生き方しかできないならしょうがないか」何かに吹っ切れた様な顔をしてすっきりと笑っていた。
その後「こういう時は買い物よ」という母と、松屋に行ってオペーク銀座をまわってシップスに行って、数寄屋橋交差点の不二家レストランでハンバーグを食べて、銀座鹿ノ子で父用のお土産を買って、松屋銀座に戻った。
春色のスカートといつもだったら絶対に買えない17000円もするスエット地のパーカーを買った(買ってもらった)。
あれは正しく、母と娘の銀座散策だったと思う。
(その半分のお店が今は無いのが悲しい)
夕方、帰る母を有楽町の駅の改札口に見送った。
改札から入って5歩6歩と歩いた母は、おもむろにこちらを振り返り、そしてヘラヘラと手を振る私に向かってやまびこを呼ぶように口元に手を添えて叫んだのだ。
「人を愛する事を、人を信じる事を、忘れちゃいけんよー」
2メートルの距離にいる私に50メートル先へ伝える声のボリュームで。
そして、その時母にはやはりまぶしいスポットライトが当たっていた(様に見えた)。
銀座の中心で愛を叫んでんじゃ無いよ(何年か前そういうドラマが流行った後だった)、心の中でツッコミを入れて後、なんだか笑えてしまい、腹を抱えて笑いながら見送った母の背中は、妙にまっすぐだった。のを覚えている。
あれからも何度か母に当たるスポットライトを私は見ている。それは誰かの結婚式だったり、誰かの葬式だったり、父の病室だったりだ。
そんな時私は舞台装置の一部で、スポットライトの外の外からドラマを俯瞰する。
そしてその度に私の中の誰かが「瀬戸内の女じゃけん」と耳元で繰り返すのだ。
そう、スポットライトが当たっている時、母は必ずなぜだか広島弁だ。18で広島を出て日々標準語で暮らす母、そんな母がスポットライトの中でだけ広島弁なので、やはり広島に何かある、と踏んでいる。
母の愛の叫びのおかげで私は愛する事を忘れなかった…なんてことはもちろん無い。その後しばらく私は、やっぱりやさぐれて(笑)、それまででは考えられないほどのスパンで付き合う別れるを繰り返した、その相手はみな「結婚はしない」と豪語している人だったり、すごく歳上だったりと間違っても「結婚」なんて話が出てこない人を選んでいたし、もちろん私も「結婚はしないけれど」と断ってその関係をはじめていた(ひどく捻くれていたなと今では思う)。
けれどいつのまにか、酔っ払った時の口癖が「結婚なんて人生の墓場だ」だった夫と結婚している。
そして今、母は母曰く「育て方を間違えた」娘と結婚した「神様みたいな」夫に会うと、夫をドラマチックに崇め奉っている。
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