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B-29と本土防空戦

 B-29が初めて日本本土を空襲したのは1944年6月15日。中国・成都の基地から出撃した75機のB-29が山口県下関を爆撃したのが最初でした。
 最初は軍需施設への精密爆撃から始まりましたが、効果が出ない焦りと、ルメイ将軍の着任を機に、1945年春から都市への無差別焼夷攻撃へと急速に転換しました。本土防空戦の約1年の戦いについて紹介します。


1.アメリカの威信をかけた高価な航空機〜B-29

 B-29はアメリカの最新鋭の技術を満載したアメリカの威信をかけた航空機でした。コストも異常に高く、B-17爆撃機が18万ドル(約72万円)に対し、B-29は約3.5倍の63万ドル(約240万円)かかっています。ちなみに零戦1機が17.5万円くらいのコストなのでとてつもなく高価ですよね。零戦13機分に相当します。
 最新鋭のダブルターボを搭載していたライト R-3350エンジンは火災事故も多く、緊急着陸できる硫黄島の攻略はアメリカがどうして欲しかった拠点になった理由でもあります。この硫黄島に緊急着陸した機体は2千機を超えるとのことなので、防空戦で被弾したり、エンジントラブルが多かった証拠になるといえます。

エンジンも消耗品扱い。

2.高高度からの攻撃と日本防空網の限界

 ドイツが降伏させて1年以内に日本も降伏させるというマッターホルン作戦は、中国の前進基地からB-29による日本本土への戦略爆撃を計画したものでした。
 1944年6月に九州八幡製鉄所への初攻撃が行われましたが、戦果は乏しく、補給面の困難もありました。月に数回の散発的な攻撃で、成果はまったくなく、全出撃数576機で損害が36機(損害率6.3%)という高い数値を出しています。戦闘損失(4機)より事故の方が多い(20機)という、成功とはいえないものでした。

B-29の編隊

 太平洋のマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)が占領されると、急ピッチ滑走路を整備され、より近距離からの出撃が可能となります。重爆撃機を180機一度に運用できる本格的なものとなり、日本本土爆撃の体制が整ってきました。

https://www.yomiuri.co.jp/sengo/20250228-OYT1T50160/より

 当初は九州方面の軍事施設を狙っていましたが、1944年には初の東京の工業地帯爆撃を行います。
 アメリカ陸軍航空軍は、ヨーロッパ戦線と同様に高高度からの精密爆撃によって、工場やインフラを効率的に破壊することを目指しました。

 しかし、当時のB-29搭載の機密扱いだったノルデン照準器は、日本特有の気象条件に悩まされました。偏西風による航路のずれによる進路の見失いが多発、特に日本上空の強いジェット気流(冬季で200km/h超)が照準精度に大きな悪影響を与えました。高高度で爆撃を行う際に、爆弾が目標から流されてしまうので照準精度を大きく低下させたのです。
 結果として高高度からの爆弾投下は目標を逸れまくり、市街地の外れや農村地帯に落ちることも少なくありませんでした。

3.カーチス・ルメイの登場と戦略の急転換

 この戦果の乏しさに業を煮やしたのが、1945年1月に第21爆撃集団司令官として着任したカーチス・ルメイ少将でした。彼は従来の高高度・精密爆撃戦略を根本から覆し、低高度・夜間・焼夷弾による無差別爆撃へと大きく方針を切り替えます。つまり、軍需工場を狙うのではなく、住宅密集地を焼き払う都市焼夷戦略に転じたのです。

 1945年3月10日の東京大空襲は、その象徴的な作戦でした。約300機のB-29が高度2,000メートル前後から焼夷弾を雨のように投下し、東京下町一帯を壊滅させました。この作戦によって推定10万人が一夜にして命を落とします。これは広島や長崎の原爆投下に匹敵する被害規模となります。

カーチス・ルメイ(1906〜1990)と焼夷弾

 以後、名古屋、大阪、神戸などの都市も次々に同様の戦術で攻撃され、わずか一週間のたった5回の空襲でB-29はのべ1,600機ほど投入され、投下された爆弾は9千トンにものぼります。
 日本は全工業力のおよそ22%をこの期間に失ってしまいます(「本土防空戦は失敗だったのか?~B 29の損害とその詳細より)。
 この期間に失われたB-29は7機のみで、一週間足らずで、日本の戦争の継戦能力を奪ったことになります。
 更には硫黄島の奪還と飛行場の整備、P−51マスタングの護衛戦闘機が付くと4月には本格的に封殺されるようになり、ほぼ毎日のように主要都市に空襲が行われるようになります。

空襲を受ける東京市街(1945年5月25日)

4.絶望的な迎撃戦〜それでも立ち向かった戦闘機乗りたち

 このような戦略変更は、日本の防空戦術をさらに困難にしました。高高度を飛ぶB-29の迎撃ですら困難だったところに、今度は低高度・夜間というさらなる難題が加わったのです。日本軍はレーダー設備も夜間戦闘機もごく限られており、飛来する敵編隊を発見することすら難しかったのが実情です。

 それでも、日本の戦闘機乗りたちは命を懸けて空に上がりました。陸軍の四式戦「疾風」、海軍の「雷電」、そして夜間戦闘機「月光」などが応戦し、時には体当たり攻撃すら敢行されました。その戦意は極めて高く、「一機でも多く、目標に到達させるな」という覚悟がにじんでいました。

本土防空戦で活躍した陸海軍の迎撃機たち

5.本土防空戦のその戦果

 B-29の本土空襲が始まった1944年6月から終戦までの1年2ヶ月間で、アメリカは約485機のB-29を失ったとされています。うち約300機が日本軍の攻撃によって撃墜されたという説もあります。
 アメリカ陸軍航空軍統計管理室の統計では、戦闘機・高射砲・共同撃墜などを合計して147機が確実な戦闘損失とされています(戦闘機74機、高射砲54機、共同撃墜19機、未確認も含めると最大485機)とされています。
 全爆撃任務における総出撃数は33,000回ですから損害率は約1.5%程度です。
 日米で判定基準が異なるため数字に開きはありますが、それでもB-29搭乗員(11名)の戦死者は3,000名を超え、損失率は1.5〜2.2%に達しました。

B-29はその機体構造から損失も大きかったようです。

 ドイツ本土空襲も初期は10〜15%以上(最大で20%)でしたが、護衛戦闘機が付くと損失率が大きく現象し、最終的には1〜2%程度にとどまりますから、最終的には日独同じような感じでしょうか。  アメリカの恐ろしさは、初期に大失敗しても、それを教訓として学び、速攻で対策を立ててくるところだと思います。それに加えての物量作戦で。  B-29撃墜王として人気のあった遠藤幸男少佐も奥さんにこうもらしています。

「墜としても、墜としても、いくらでもやってくる」「いくら叩いても、いっこうにこたえそうもない。アメリカという国は、おそろしい。大変な国だ」と呟いたという。

相良俊輔『夏の空―厚木空叛乱始末記』より

6.技術と倫理──B-29が遺した問い

 B-29は文字通り日本全土を焼け野原にしました。そして広島、長崎と原爆を投下し、日本は敗戦に至ります。  本土防空戦で戦ったパイロットたちは、戦局に影響を与えるほどの阻止力には至らなかったかもしれません。しかし、技術力や物量で大きく劣る中、工夫と覚悟で空を守ろうとした防空戦の努力は、今なお評価されるべきものだと思います。  敵機の性能がいかに優れていたとしても、「一機でも落とす」という精神力と使命感は、戦史の陰に埋もれてはならない事実です。

 そしてもう一つ、私たちが見つめ直すべきなのは「戦争における技術の運用と倫理」です。B-29は当時としては画期的な航空技術の結晶でしたが、その使用法〜無差別爆撃という手段がもたらした結果は、民間人に甚大な犠牲を強いるものでした。

 戦後の東京裁判では、これら連合国側の空襲は一切裁かれることなく、日本側の戦争犯罪だけが追及されました。1949年に改訂されたジュネーブ条約の視点から見れば、当時の無差別爆撃は今日の国際基準では明らかに違法と判断される可能性が高いといえます。  「正しい技術」は「正しい運用」があってこそです。B-29が象徴するのは、科学の進歩だけでなく、それを使う人間の倫理と責任を問う問題でもあるのではないでしょうか。


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