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ロシア・ウクライナ問題(歴史背景)

【鬼丸式】世界情勢の読み解きシリーズ

この投稿をUPした数時間後には、プーチン大統領とトランプ大統領がアラスカで会合します。ロシア・ウクライナの戦争の背景を整理しておくために書きました。ここではどちらが悪いという判断ではなく、歴史として整理する為に起きた出来事を中心に書いています。

善悪の判断を横に置いて

テレビやSNSで毎日流れてくる、ウクライナでの悲しいニュース。

「ロシアが一方的に悪い」
「いや、NATOにも責任があるはずだ」

私たちはつい、分かりやすい「善悪」の物語を探してしまいます。
でも、本当にこの戦争は、そんなに単純な言葉で語り尽くせるものなのでしょうか。

ある日突然、戦闘状態になった!私達にはそう見えても仕方がありません。

しかし、なぜ、かつて「兄弟国」とまで言われた二つの国が、銃を向け合うことになってしまったのでしょう。

その背景には、私たちが思っているよりもずっと長く、複雑で、そして悲しい歴史の積み重ねがありました。

この投稿では、あえて「どちらが正しいか」というジャッジをしません。
ただ、歴史という名の静かな川を遡り、どんな出来事が今日の悲劇につながってしまったのか、その事実の連なりを一緒に辿ってみたいのです。

これは、誰かを断罪するための物語ではありません。
遠い国で起きていることを、少しでも「自分ごと」として考えるための、ささやかなヒントを探す旅です。

もしよろしければ、少しだけお付き合いください。

この投稿は、二段階になっています。
前半無料部分でも十分に流れが解るようにまとめていますが、詳細な事には触れていません。後半は有料部分となりますが、起きた出来事がかなりエグいので、どうしても記事もエグいです。

平和を考える上で、無料部分だけでも知って欲しいです。


この戦争は、30年以上の「すれ違い」が積み重なった結果です

このウクライナで起きている戦争は、ある日突然始まったわけではありません。

冷戦が終わった約30年前から、大国同士の思惑、守られなかった約束、そしてウクライナという国の中で引き裂かれてきた人々の願いと絶望が、まるでパズルのピースのように、少しずつ、しかし確実に今の形へと組み上げられていった結果なのです。

では、なぜそう言えるのでしょうか。

①「NATOは東に拡大しない」という約束の存在
②西側への不信感を募らせていったロシアの事情
③「ヨーロッパの一員になりたい」と願う人々と「ロシアとの繋がりを大切にしたい」と考える人々との間で揺れ動いたウクライナ国内の対立

3つの大きな流れと権力のせめぎ合いの中で育ったのでしょう。
これから、その歴史を少し具体的に、時を遡りながら見ていきましょう。

すべては「口約束」から始まった? ソ連崩壊・ 冷戦終結とNATOの意義

物語の始まりは、1990年にまで遡ります。

ドイツが統一される時、アメリカのベイカー国務長官は、ソ連のゴルバチョフ書記長に対して、こんな言葉を伝えました。

「NATOの管轄は、東に1インチたりとも拡大しない(not one inch eastward)」

これは、統一ドイツがNATOに残ることをソ連に受け入れてもらうための、大切な「保証」でした。この言葉を信じて、ソ連はドイツ統一を認めたのです。

しかし、この約束は正式な条約にはなりませんでした。

そして1991年末にソ連が崩壊すると、この「口約束」は少しずつ忘れ去られていきます。西側は「あれはドイツ東部の話だけだ」と解釈を変え、ロシアは「西側に裏切られた」という強い不信感を抱くようになりました。

この小さな、しかし決定的な「すれ違い」が、すべての始まりだったのかもしれませんね。

混乱するロシアと、西側の「思惑」

ソ連崩壊後の1990年代、ロシアはエリツィン大統領のもとで、大変な混乱の中にありました。

急激な経済改革で多くの国民が貧しくなり、国は不安定に。アメリカをはじめとする西側諸国は、そんなエリツィン大統領を「改革派のパートナー」として強く支援しました。

1996年のロシア大統領選挙では、支持率が1桁台に落ち込んだエリツィン大統領を再選させるため、アメリカが水面下で動いたこともあったと言われています。IMFからの巨額の融資を選挙前に実行させたり、アメリカの選挙コンサルタントを秘密裏に派遣したり…。

西側にとっては、自分たちの言うことを聞いてくれるリーダーがロシアにいてほしかったのです。

その一方で、西側は着々とNATOの東方拡大を進めていました。
1999年には、かつてソ連の影響下にあったポーランド、ハンガリー、チェコがNATOに加盟します。

ロシアから見れば、自分たちのすぐそばまで、かつての「敵」だった軍事同盟が迫ってくる。

この時、ロシアの人々が感じたであろう恐怖と屈辱を、私たちは想像することができるでしょうか。

プーチンの登場と、深まる亀裂

2000年にプーチン氏が大統領に就任します。
彼は当初、西側との協調も探っていましたが、NATOの拡大は止まりませんでした。

2004年には、ロシアと国境を接するバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)までNATOに加盟。ついに、NATOはロシアの玄関先までやってきたのです。

そして2007年、プーチン大統領はミュンヘン安全保障会議という国際的な場で、ついにアメリカやNATOに対する不満を爆発させます。

「世界はアメリカという一国の言いなりになっている!」

この演説は、ロシアがこれ以上、西側の言いなりにはならないという「決別宣言」のようなものでした。

翌2008年、NATOは「将来的には、ウクライナとジョージアもNATOのメンバーになる」と発表します。

ロシアにとって、すぐ隣のウクライナがNATOに加盟することは、絶対に受け入れられない「脅威」でした。この時から、ウクライナをめぐる対立は、決定的に鋭くなっていくのです。

ウクライナで起きた「オレンジ革命」と大国の影

ここで、少しウクライナ国内に目を向けてみましょう。
2004年、ウクライナの大統領選挙で、親ロシア派の候補が勝利したと発表されます。しかし、多くの国民は「大規模な不正があった」と信じませんでした。

首都キーウの広場は、野党候補のシンボルカラーであるオレンジ色に染まり、人々は公正な選挙を求めて声を上げました。これが「オレンジ革命」です。

この市民の平和的な運動を、実はアメリカなどが資金面や組織面で支援していました。(ジョージソロスや米国系NGO団体などを通じて)

「民主主義を広めるため」という名目でしたが、ウクライナに親西側な政権を作りたい、という思惑があったわけです。

結局、選挙はやり直しとなり、親西側派の候補が勝利。ウクライナはNATOやEUへの加盟を目指し始めます。

当然、ロシアはこの結果を「アメリカが裏で仕組んだクーデターだ」と見なし、ウクライナへの警戒感をますます強めていきました。

運命の2014年「マイダン革命」

オレンジ革命後も、ウクライナは親西側派と親ロシア派の間で揺れ動きます。

2010年には、一度失脚した親ロシア派のヤヌコヴィッチ氏が大統領に返り咲きました。彼は当初、EUとロシアのバランスを取ろうとします。

しかし2013年11月、EUとの大切な協定を結ぶ直前になって、ヤヌコヴィッチ大統領は突然それを破棄し、ロシアからの巨額支援を受け入れると発表しました。

「私たちのヨーロッパへ行く未来が奪われた!」

この決定に怒った若者や市民が、再びキーウの独立広場(マイダン)に集まりました。「マイダン革命(尊厳の革命)」の始まりです。

この時も、アメリカのヌーランド国務次官補といった高官がデモの現場を訪れ、公然とデモ隊を支持しました。

彼女が革命後の新政権のトップに誰を据えるか、同僚と電話で生々しく語り合う音声が流出し、世界に衝撃を与えたこともあります。

デモは次第に激しくなり、2014年2月には治安部隊との衝突で100人以上が亡くなる悲劇に。

最終的に、ヤヌコヴィッチ大統領は国を捨ててロシアへ逃亡。
ウクライナには、再び親西側な政権が誕生しました。

西側諸国はこの政権をすぐに承認しましたが、ロシアは「またしても西側が仕組んだ暴力的なクーデターだ」と激しく非難。

そして、この直後から、ロシアは力による反撃を開始します。クリミア半島の併合、そして、ウクライナ東部「ドンバス地方」での紛争の始まりです。

8年間続いた「忘れられた戦争」ドンバスの悲劇

2014年にキーウで親西側政権が誕生したことに、ウクライナ東部のドンバス地方の人々は強く反発しました。

この地域にはロシア語を話す人々が多く、ロシアとの繋がりを大切に考えていたからです。

「新しい政権は、私たちの言葉や文化を奪うのではないか」

そんな不安とロシアの介入が結びつき、武装した人々が「独立」を宣言。ウクライナ軍との間で、泥沼の内戦が始まってしまいました。

このドンバス紛争は、2022年の全面侵攻が始まるまでの8年間も続き、国連の推計では、兵士と民間人を合わせて1万4000人近くもの人々が亡くなっています。

ウクライナ軍による砲撃も、親ロシア派による攻撃もありました。
双方に、多くの民間人の犠牲者が出たのです。

この8年間の紛争の中で、互いへの憎しみは深く、深く刻まれていきました。

そして2022年2月24日。

プーチン大統領は、「ドンバスのロシア系住民を、ウクライナのネオナチによる虐殺から守る」という言葉を大義名分として掲げ、「特別軍事作戦」の開始を宣言。

ロシア軍は、ウクライナ全土へと侵攻を開始したのです。
8年間くすぶり続けた火種が、最悪の形で燃え上がった瞬間でした。

そして私たちは、何を考えるべきか

ここまで、冷戦の終わりから始まった長い歴史を駆け足で見てきました。

こうして振り返ってみると、この戦争が、単純な「侵略者 vs 被害者」という言葉だけでは捉えきれない、本当に複雑な背景を持っていることが、少しだけ感じられるのではないでしょうか。

どちらか一方だけが100%正しくて、もう一方が100%間違っている。
世界は、残念ながらそんなにシンプルにはできていないのかもしれません。

歴史の歯車が、少しずつ、しかし確実に、誰も望まない方向へと回り続けた結果、今の悲劇が生まれてしまった。そう言えるのかもしれませんね。

貴方はどう思いますか?
コメントも歓迎しますし、スキやフォローで応援して頂くととても励みになります。


さて、ここから先は、上記の記事をより詳しく解説します。
歴史好きの方や、権力や政治に興味のある方に刺さるかも知れません。
表現や描写には気持ちが悪くなるようなものも(例えば国家元首の嘘や欺瞞など)含まれていますから、閲覧は有料として制限しています。

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冷戦終結とソ連崩壊(ペレストロイカ期)

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