短いものさし
人生の履歴書というものは、紆余曲折が過ぎると、他人には「出来の悪い小説」のように見えることがあるらしい。
先日、noteに投稿した記事に、ある読者から短いコメントをいただいた。
「創作ですよね、だけどnoteだから良いと思います」
パソコンの画面を見つめたまま、私は苦笑するしかなかった。
なるほど、そうきたか。
ここで言う「創作」が、文学的な意味での新しい価値の創造を指していないことくらい、私にもわかる。
かなりの高確率で
「これ、お前の作り話だろ」
という意味だ。
まあ、気持ちはわからないでもない。
さらには「良いと思います」とは何たる上から目線。
私の歩んできた足跡をただ並べれば、深夜の連続ドラマに出てくる胡散臭いキャラクターの設定資料のようになる。
警察官として24年。
刑事として現場を踏み、これから?という時期に途中退職。
そこから何を思ったか、南米ボリビアへ渡り現地の公立学校で教壇に立つ。
帰国後は、民間企業や任用職員を転々とし、スポーツクラブの企画運営やインストラクターとして汗を流し、気がつけば今は、ただの普通の会社員として机に向かっている。
自分で書いていても、「お前はクヒオ大佐の親戚か」と突っ込みたくなる。
もし、これに、数回の結婚と離婚の顛末、警察を辞めた本当の理由、いくつものスポーツ資格を並べたなら、説明すればするほど変な自慢のような詐欺師の口上に聞こえるだろう。
だから、そこはあえて省いているだけなのだが。
ただ、これだけは言いたい。
人生というものは、他人が思っているよりも、ずっと雑に曲がる。
まっすぐ舗装された道路を歩んでいるつもりでも、ふとした分かれ道で砂利の道に入り、気づけば知らない国に立っている。
安定という名のレールにしがみついていたはずなのに、なぜか地球の反対側で、言葉の通じない子どもたちと泣き笑いを共にしている。
それは、誰かにとっての「あり得ないファンタジー」かもしれないが、私にとっては苦しくもあったリアルな現実なのだ。
常識という名の物差しは、それほど立派なものではない。
自分が育ち、働き、付き合ってきた狭い世界の平均値に過ぎない。
それなのに人は、その物差しからはみ出す他人を見ると、自分の物差しの短さを疑うのではなく、相手の存在そのものを「嘘」だと決めつけてしまう。
そのコメントをくれた方のページを、少しだけ覗いてみた。
そこには、自分が大切に書いた文章を、友人に軽く扱われて傷ついた、という趣旨の愚痴が綴られていた。
私はそれ以上読むのをやめた。
人は、自分が他人に刺された傷には驚くほど敏感だが、自分が誰かを刺したナイフの重さには、驚くほど鈍い。
自分の文章が軽く扱われて怒るなら、他人が必死に生きてきた人生も、もう少し丁寧に扱ってみてはどうだろうか。
これはただの、風変わりな人生を生きてしまった男の、小さなお願いだ。
理解できなくてもいい。信じられなくても構わない。
ただ、安易に「創作」と片付ける前に、世の中にはあなたの物差しでは測れない、不格好で、愛おしい現実が転がっていることに、少しだけ想像力を働かせてほしい。
届かない独り言だと知りつつ、画面の向こうの背中に向かって、心の中で小さく呟く。
まあ、あなたの人生だ。
自由にやったら。
