国立科学博物館で展示されていたメキシコ産ミイラは、果たして関東大震災により行方不明となったのか?
1:上野の博物館のふたつのミイラたち
少し前に、上野でミイラを見て来た。特にミイラ中心の企画展でなくとも、いま上野では、二つの本物のミイラを常設展示で見ることができる。ひとつは東京国立博物館の東洋館にあるパシェリエンプタハのミイラ。1904年にカイロ・エジプト博物館から寄贈されたもので、棺とセットとなっており、いかにもエジプトのミイラといった風貌である。
もうひとつは国立科学博物館の日本館にある江戸時代人壮年女性のミイラである。こちらは江戸時代に亡くなった女性が甕の中で死蝋化──腐敗菌が増殖せず、脂肪が蝋のように変化──したもので、1999年に発掘されたが、調査過程において乾燥しミイラ化したものである。遺体の状態がよく、顔もわかるミイラのため、故人の尊厳に配慮し写真撮影は禁止されている。
2:大正博覧会のミイラと絵葉書
さて、そうした故人への配慮はもちろん現代的な判断であり、かつては国内で公開されたミイラたちは、当時最先端の流行メディアである絵葉書にされ販売されていた。かの1914年に開催された東京大正博覧会でも、ミイラは第一会場の目玉であり、当然その絵葉書もお土産として販売されていたのである。

同じ看板に「外務省の問題たる」とも書いており……。


この坐禅を組むミイラは中国の唐代の禅僧・石頭希遷(無際大師)のものとされ、現在は曹洞宗大本山總持寺(横浜市鶴見区)に安置されている。もともとは中国の寺院に祀られていたものであったが、1911年の辛亥革命の際に革命軍に焼かれそうになったのを、山崎彪という人物が火の中に飛び込み救出したものだという。
山崎さんは、なんでも猛火の中に飛び込んで大師をかつぎ出したと言っていた。大師の頬や顎が黒いのは火で焼けたためで、また大師を納めてあった四角な桐箱も火で焦げていた。革命軍の兵隊が槍で大師の頬を突いたが、たちまちその兵隊は死んでしまったそうだ。今もミイラの左頬にある傷はその時の槍傷だという。山崎さんはこの大師を、当時、三井物産の上海支店長をしていた叔父さんに頼んで、三井の船の船底にかくして日本へ持って来た。
なんともドラマチックなエピソードであるが、もちろんミイラを勝手に日本へと持ち去られた寺院側はたまったものではない。山崎氏に返還を要求して紛争になり、その最中にミイラは警視庁へと差し押さえられ倉庫の中に保管され、なぜか警視庁内で怪我人が続出したという。そんないわくのあるミイラはその後、絵葉書にあるとおり大正博覧会でご開帳され、全国各地をツアーで巡ることになる。
しかしこのミイラ、件の大正博覧会では、江西省汗州府竜泉寺に奉安されていた【二千年以上前の達磨大師の第二高弟】として展示されている。さきの絵葉書のキャプションにも、文字は小さいが同様の文章が印字されている。これについて『日本のミイラ』著者の安藤更生氏は「中国政府からの返還交渉を怖れて、ミイラの由来をごまかして、こんなデタラメを書いたのだろうと想像する」と述べており、仮にそうだとしたら寺院からの返還要求を解決せずに誤魔化して展示していたということで、かなり危うい橋を渡っている。国際問題だ。これが第一会場の絵葉書に写っていた「外務省の問題たる」ということなのだろうか。
ともあれ、このミイラが真に石頭希遷・無際大師のものとは確認できてはいないが、相当に古い中国製のミイラであることは間違いないようだ。かようにミイラというのは、あちらこちらを移動するものであり、またその出自の特定は非常に難しいものだというのを、まずはご理解いただければ幸いである。
3:東京博物館(国立科学博物館)のメキシコ産ミイラ
さて、これとはまた別のミイラの絵葉書がここにある。本記事のメインの話題となるミイラのものだが、今度は偉い高僧のものではなく、おそらくは一般の女性のものである。

【世界ニ希ナ完全ナルミイラ】と銘打たれたこのミイラは、メキシコ国立博物館の秘蔵品であり、日本に到着したのは大正十二年の九月十二日だという。人種はアメリカ・インデヤン婦人、およそ千六百年前のもので、推定年齢は40歳と書かれている。
このミイラの実物を見たことがある方もいるかもしれない。彼女はかつて国立科学博物館で、幼い赤子のミイラとあわせて二体一緒に常設展示されていたものである。しかし、このミイラたちは科博のリニューアルの際に出所がはっきりしないとのことで撤去され、現在は展示されていない。収蔵品としてはきちんと残っているようで、2020年のミイラの企画展の際に再現として展示されており、さらに2023年の震災特集の番組では、その姿がはっきりと映像で確認できる。
通称「メキシコのミイラ」は1923年、メキシコ政府から贈られました。
横浜港に届いた直後に大震災が起こり、何者かに持ち出されて行方が分からなくなりました。
数年後に発見されたものの、由来についての記録はすべて失われ、坂上さんは、4年ほど前にようやく持病があった形跡や誰かが修復した痕を発見しました。
動画に撮影されているミイラは、ポーズから何から絵葉書のものと一致しており、同じミイラと考えてよいだろう。このミイラがメキシコ政府から寄贈されたのは1923年。日本に到着した直後に関東大震災が起こり、その混乱の際に失われ、数年間行方不明になっていたという。こうした災害から文化財をどう守るか──記事はそういった内容で結ばれている。国立科学博物館こと当時の東京博物館は、関東大震災の際に建物は倒壊しなかったものの火災の被害に遭い、標柱と貸し出していた資料以外は全焼したという。いちどそうした被害に遭っているからこその、強い課題と言えるだろう。
ところで、さきほどの絵葉書に書いてあった内容を少し思い出してほしい。ミイラの到着日について、こう書かれていなかっただろうか。

日本到着大正十二年九月十二日、とある。関東大震災が起こったのは、皆もよく知っているとおり防災の日こと九月一日だ。11日もズレがあり、震災よりも後に届いている。これは「届いた直後に大震災」というコメントとも矛盾するし、地震後の混乱でミイラが行方不明になったにしては、いささか日時が経過しすぎてはいないだろうか。いったい、どういうことだろう。
4:行方不明のあいだ、ミイラはいったいどこに?
メキシコ産のミイラは、本当に関東大震災のせいで行方不明になったのだろうか。ここからは、複数の資料を見て、経緯を検証していこう。まず紐解くのは、現在もこのミイラを収蔵している国立科学博物館側の記述だ。ミイラの由来についての記録は失われたというが、昭和52年に出版された同博物館の百年史に「ミイラの受贈」としてその記述がある。
大正12年メキシコ政府から外務省を通じてミイラが寄贈されることになり、メキシコから横浜に向けて発送された。横浜港に無事到着した貨物船は、標本の陸揚げを行ったが、その直後に関東大震災に遭遇されたと推定されている。そのため、直後の混乱によってこの標本は行方不明となった。
メキシコ政府から寄贈されたミイラが、横浜港到着直後に震災に遭ったという。ただしこれについては【推定】とあり、詳しい到着日時や経緯については書かれていない。そしてその後、行方不明になったミイラはさらに数奇な運命を辿ったと書かれている。
大正15年秋になってメキシコ政府からの照会により大騒ぎとなり早速追跡調査をしたところ、ある男が横浜でこれを入手して、見せ物として全国各地を巡回していたことがわかった。前後数回興業師の手を転々として最後に埼玉県の某寺に成仏を願って納められていたところを発見され、ようやく本館に収容されるという数奇な運命をたどった。このミイラは成人婦人と子供の2体であり、昭和2年4月以来本館に展示され来観者に強い印象を与えている。
なんとミイラは興業師の手にまわり、見世物として各地を転々としていたという。やはりミイラというのは、あちらこちらを移動する。ミイラを寄贈したメキシコ政府からの照会により追跡調査が行われ、最終的には国立科学博物館(当時は東京博物館)に収蔵されることとなったという。
このミイラが、見世物興業として展示されていたことを裏付ける資料がある。昔の新聞記事に詳しい松崎貴之氏のポストから引用させてもらう。
大正15年4月21日付『都新聞』浅草公園木馬館階上に世界的珍品!母と娘二人のミイラ来る pic.twitter.com/fO9tIM0k2f
— 松崎貴之 (@gelcyz) April 16, 2026
当時の東京ナンバーワン地元紙の都新聞に掲載されていた広告で、【世界的珍品!母と娘二人のミイラ来る】と銘打たれている。成人女性と子供の二人という特徴が国立科学博物館の記述と一致し、千六百年前という数字は絵葉書と一致する。また1927年発行の山本巌の詩集『美苦留里』に収録の「浅草情調」という詩には、この木馬館のミイラのことが書かれている。
女の生首 白虎隊
木馬館の階上でミイラをみた
(中略)
木馬館の女ミイラに
満腔の恋をささげた
坊ちゃんが
浪曲の玉蘭嬢をきいて
またその気になる
メキシコから寄贈されたミイラが、行方不明のあいだに見世物興業に出されていたのは間違いないだろう。メキシコ政府からの照会がなければ、現在もどこかの寺院の秘蔵品として収蔵されていたかもしれない。いっぽう行方不明になった経緯は前述のとおり推定でしかなく、実際に関東大震災が原因だったのかははっきりとしない。これについてはさらに、別の資料を紐解いてみることにする。
5:ミイラは本当に震災で行方不明になったのか?
戦前に出版されていた『植民』という雑誌がある。これはアルゼンチンやブラジルなど、当時の海外移民向けの情報誌であり、いっけんミイラとは無関係そうな雑誌なのだが、なんとここに『五年間転々した運命のミイラ』として、ミイラの詳しい経緯が掲載されているのだ。
このミイラはメキシコ国立博物館でも由緒ある無きずのミイラとして珍重されていたもので大正十二年メキシコの博物館が東京博物館にある日本特有の尾長鳥が欲しいといふので交換の意味で石井商務官とメキシコ政府が交渉して取交わされたものだがこれを託された人は船中で死亡し横浜にはただミイラと手荷物だけが到着した。
※その前月出版の『教育研究』の時報から、改題・転載された記事と思われる。
ざっくり要約すると、この二体のミイラは、メキシコ国立博物館が土佐の尾長鶏を欲したため、その交換品として提示されたものだった。そこで石井商務官なる人物が間に立ってメキシコ政府と交渉し、ぶじ成立したが、肝心のミイラの輸送を担当していた人物が渡航中に死亡したため、ミイラと手荷物だけが横浜港に残ってしまった。国立科学博物館の百年史に書かれていなかった行方不明までの経緯が、ここには詳細に書かれている。関東大震災の影響に関する記述はなく、さらにその後の展開は科博の記録とは異なっている。
これを縁者の府下五日市町僧侶長谷不徹氏が、横浜税関から荷物と共に受取つて寺に持ち帰つたが土産物と思つて開けて見てビツクリ中から出たのがこのミイラ、一旦は売るつもりで持ち廻つたが買手もないので名古屋に住む長谷氏の兄の寺へ持込んだがお寺にミイラが来たとて朝夕の見物人、とうとう持て余してまたまた長谷氏の寺へ送り返されて来た。
横浜港に取り残されたミイラは、輸送担当者の縁者である玉林寺(西多摩郡五日市町)の僧侶・長谷不徹が引き取ったが、中身がミイラなのでびっくり仰天。名古屋の兄の寺へと持ち込むが、お寺にミイラが来たとして大行列ができ辟易してしまい、また玉林寺へと戻されたという。はて、興業主に売却され各地を転々していたはずでは? と思ってしまうが、これに関してはさらに別の資料がある。ミイラが紆余曲折を経て東京博物館(国立科学博物館)にて公開された1928年に出版された写真通信で、公開ほやほやのミイラの写真をメインに、奇しきエピソードとしてミイラの由来が書かれている。尾長鶏との交換でメキシコ国立博物館から譲り受けたこと、それに石井商務官が交渉したことなどは『植民』の記事と一致しているのだが……
大使は今度帰国する愛知県人某にこれを委託した所が、某が途中死亡したので、遺族はこれを故人の所有物と思ひ、売却して五年の間転々地方を廻り、興行物にされていたのを今度漸く発見したものである。
やっぱり売ってたんやないかい。
この記述に加えて、先述したとおり実際にミイラが見世物になっていた記録もあるため、売却されていたと考えるのが妥当だろう。おそらく『植民』のほうのインタビューは、死亡した輸送担当者の縁者である僧侶・長谷不徹から直接なり間接なりで聞いた話を掲載しているのだと思われる。長谷僧侶のほうも、まさかメキシコ政府から寄贈された由緒ある貴重なミイラを勝手に見世物に売っぱらってたとは言えず、「兄の寺に送ったり戻してもらったりしてェ…」と、お茶を濁した回答となったのではないだろうか。
ちなみに国立科学博物館の記述では、ミイラを寄贈した側のメキシコ政府からの連絡を照会という事務的な言葉で表しているが、実際は激おこだったようだ。こちらも同じく『植民』からの記述を引用する。
一方外務省にはメキシコ政府から五年前に贈つた珍重なミイラに対して礼状一つ寄越さないのは礼儀を知らぬ国だときつい詰問状が来る始末に狼狽し各府県知事にその行方を捜さした。
詰問状である。激おこである。このため先のミイラと尾長鶏との交換交渉に尽力した石井商務官が再び、無事にミイラが発見された話を報告するとともにメキシコ政府にお詫びするため、メキシコへと出立した旨も書かれている。石井商務官、マジお疲れさまです。この石井商務官の本名は石井忠吉といい、大正期に高島屋アルゼンチン支店の支店長を務めたのち、駐アルゼンチン大使館の商務書記官へと抜擢されたという。秋田県の大館の出身であり、郷里の広報誌にその人となりが詳しく記載されている。日本とアルゼンチンの貿易に夢を賭けた人物だったが、おりしも巻き起こった太平洋戦争により、事業の中断を余儀なくされたという。
戦後、忠吉は戦禍に泣く祖国へ救援物資を送り、郷里十二所町へは資金を贈って貧しい家庭の子弟のために奨学基金を設立した。昭和二十五年には「石井商会」を復活させ、在亜日本人商業会議所会頭などを務めた。
石井商務官の立派な人柄が伺える内容である。彼のミイラ交渉に関する活躍が、当時の移民たちの誇りとして『植民』に事細かに掲載(転載)されていたのも頷ける。かくてミイラは5年間の放浪を終え、本来の寄贈先である東京博物館へと戻ってきた。しかし興行で各地を転々としたことにより、メキシコ側が用意したミイラに関する由緒書きは、失われてしまっていたという。
ミイラに添へられた由緒書は転々する中紛失し詳細不明であるが、村川、小金井両博士の鑑定によるとエヂプト産のボロボロのミイラに比べ珍しく完全なミイラで一つは中年の婦人一つは生後七ヶ月位の女児のミイラ、東京博物館で関係者の下見をやり、十三日に一般に公開する。
※ちなみにこの鑑定した博士のひとり、小金井博士=小金井良精で、
SF作家・星新一の祖父であり森鴎外の義弟でもある。
この失われた由緒書の内容が、実はさきの絵葉書に書かれている情報そのものではないだろうか。
6:ふたたび絵葉書へ、そしてまとめ
最初の絵葉書を、もう一度見てみよう。国立科学博物館側は【由来についての記録はすべて失われ】と述べているが、絵葉書には産地・到着日に加えて人種・推定年限・推定年齢までこと細かに書かれている。またこの千六百年前という数字は、前掲した木馬館での見世物の広告とも一致する。

この絵葉書は、おそらくメキシコのミイラが行方不明になっていた五年間のあいだ、各地での興業の際に販売されていたもので、そのキャプションは紛失したというメキシコ国立博物館からの由緒書を元にしていると思われる。もちろん横浜でミイラを手に入れた興業主か誰かが適当な由緒を書いた可能性もあるが、そうであれば産地のメキシコ国立博物館という正確な記述を書くのは難しいのではないだろうか。どこかからある程度、正確な内容を得て書いたものではないか。
情報を整理しよう。絵葉書のミイラを含む大人と赤子の二体のミイラは、土佐尾長鶏を欲しがったメキシコ国立博物館との交換で、メキシコから日本へと贈られた。1923年のことである。ところが石井商務官に頼まれて輸送を担当した愛知県出身の某氏が船内で死亡してしまい、ミイラは持ち主がいないまま同年9月12日、関東大震災直後の横浜港に到着してしまった。
死亡した某氏の縁者であった玉林寺の僧侶・長谷不徹はそのミイラ引き取ったものの、持て余し興業主へと売却してしまう。ミイラは見世物として各地をまわり、その間に由緒書きをもとにした絵葉書が作られ、興業とともに販売された。5年後にメキシコ政府から激おこ詰問状が外務省へと届き、あわててミイラの捜索をしたところ発見され、1928年3月11日に東京博物館(国立科学博物館)にて正式に公開されることとなった。
複数の資料を重ね合わせることにより、ミイラが行方不明になった直接の原因は関東大震災ではなく輸送担当者が死亡したせいと考えられるだろう。もちろん震災から11日後の横浜港に到着し、そのころ寄贈先の東京博物館は火災により全焼した後だったのだから、その影響を受けなかったとは言えないが、それでも輸送担当者が生存していたならば、何らかの措置を講じることができたはずだ。輸送担当者が亡くなったことにより、引き取った縁者が売却してしまい、かくてミイラは五年間各地をさまよい歩くことになった。
現在、このメキシコのミイラは国立科学博物館に収蔵されているものの、かつてのように常設展示はされていない。メキシコ国立博物館でも稀有な全身がきちんと残っているミイラであり、石井商務官が交渉に尽力し、メキシコ政府からの激おこ詰問状により外務省が必死に探し当てたミイラである。もし常設の展示がされない理由が前述のように出所がはっきりしないということであれば、残念でならない。もちろん、この記事で書いた由来が全て正しいとは微塵も思っていない。せいぜい数冊の資料と、一枚の絵葉書から引用したにすぎない。しかし、見世物興業や絵葉書(これ一枚ではなく、赤子のミイラの絵葉書の方もあるはずだ)、メキシコ政府との交渉や外務省、玉林寺の長谷不徹などの方向からもさらに調べれば、展示に足る由来がわかるのではないだろうか。
筆者は幼い頃に国立科学博物館でこのミイラたちの実物を見ているはずなのだが、残念なことに記憶に残っていない。一緒に展示されていた干し首の方に恐怖したからだ(この干し首も現在は常設展示から外れている)。
どのような形であれ、いつかまたこのミイラたちが展示される機会があれば、その素性をほんの少しだけ調べた間柄として、あらためてご挨拶に伺いたいものである。その日を待ちながら、記事の結びとさせていただく。
