「ちゃんとしなきゃ」を「手放さなきゃ」はしんどい
8年前、上の子が生まれた頃…
スタイやガーゼハンカチは手作りをした。
月齢ごとに写真を撮ってアルバムにした。
洗濯物は大人の洗剤と分けて洗った。
毎日絵本の読み聞かせをした。
ちゃんとしたいと思った。
ちゃんとすることが楽しかった。
だけど、下の子が生まれたり職場復帰をすると
時間に遅れたらいけないと思って「急いで」と言った。
周りに迷惑をかけたらいけないと思って「静かに」と言った。
ケガをしたらいけないと思って「危ないよ」と行動を止めた。
小学校で困ると思って、ひらがなや計算を練習した。
「ちゃんとしたい」がいつのまにか「ちゃんとしなきゃいけない」に変わっていた。
「私がちゃんとする」がいつのまにか「子どもをちゃんと育てる」「ちゃんとした親にみられたい」に変わっていた。
「ちゃんとやって」「何回も言ってるでしょ」「やめてって言ってるのに」「いい加減にして」
だんだん禍々しいものになってくる。
苦しむほどに沈んでいった。
溺れているみたいだった。
呼吸が上手くできなくなった。
仕事を辞めて、時間の余裕を作って、自分の感情と向き合う習慣を作った。
自分の感情と向き合うなんて初めてだった。
私にとって感情とは「コントロールするもの」であり「抑圧すべきもの」だった。
今まで物心ついて25年以上「ちゃんとして」「根性がない」「もっと頑張らないとダメ」「まだまだ完璧じゃない」そうやって私を奮い立たせてきた1番近くの存在が消えた。
代わりに「まぁいいじゃん」「ちゃんとやってるじゃん」「一旦休みなよ」「頑張ってるよ」そうやって味方になってくれる存在が生まれた。
その存在が私を励ましてくれる。
だから私は子どもたちを励ませる。
「いいじゃん!」「できたね」「大丈夫だよ」「おつかれさま」
気づけば「ちゃんとしなきゃ」も消えた。
そうか、あの声は私の声じゃなくて、私を奮い立たせてきたあの人の声だったのか。
私を奮い立たせてくれる、だけど時に責め立て追い詰めてくる存在が消え、すごく生きるのが楽になった。
呼吸ができるようになって、自分の感情や子どもたちは「コントロールすべき対象」ではなくなった。
ただ…その一方で
過去の私の努力のおかげで、私が持てている知識がある。
過去の私のこだわりのおかげで、信頼してくれている人がいる。
過去の私の頑張りのおかげで、得られた経験がある。
「ちゃんとしなきゃ」にもずいぶん助けられているなぁとなんだか今日ふと思った。
ああ、過去の私を「『ちゃんとしなきゃ』に囚われて可哀想な人だったな」とは思いたくない。
「しっかりしていてえらいね」そう頭を撫でられて、「嬉しい」と感じた幼い私の気持ちを否定したくはない。
「ちゃんとしなきゃ」を手放すと楽になる。
それは本当。
だけど
「ちゃんとしなきゃ」を「手放さなきゃ」はしんどくなる。
これも本当。
「ちゃんとしなきゃ」も全然悪いもんじゃない。
手放せないのはあなたを支えているからかも。
私もずいぶん支えてもらっていたのかも。
風を受けた凧がふっと空に上がるように、何かのきっかけできっと勝手に離れていくものかな、と春風の中思った。
