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お為さんの時代の亀戸住民を歌舞伎関係者に絞ってまとめてみました

 暇なので、お為さんが生きていた1804年から1859年の間、亀戸に住んでいた歌舞伎関係者をまとめてみました(ほとんど自分用のメモです)。

浮世絵師


🖼️三代目歌川豊国/初代歌川国貞(天明6年1786年- 元治元年1865年
五ツ目の渡しの株を持つ竪川沿いの材木問屋に生まれ、42歳の時亀戸天神門前に引っ越し嘉永4年1851年まで暮らしていました。

↓その門人たち
🖼️歌川貞秀文化4年1807年- 明治12年1879年 国貞の門人。亀戸のあちこちに住み、最後は師匠国貞の隣に住んだっぽい。
🖼️四代目歌川豊国/二代目歌川国貞(文政6年1823年- 明治13年1880年)国貞の娘婿長女の婿であり門人。嘉永4年1851年から三代豊国の住んでいた亀戸天神門前の住まいを譲り受ける。

その後、同住居は国貞の娘婿三女の婿であり門人の二代目歌川国久天保3年1832年- 明治24年《1891年》)が譲り受け、孫の豊宣、国峰まで代々歌川家が住み続けます。


歌舞伎狂言作者


📖鶴屋南北宝暦5年1755年- 文政12年1829年
還暦を機に、1816年から1828年まで妻と息子と共に亀戸村に住んでいました。

📖直江重兵衛天明元年1781年-天保元年1830年
鶴屋南北の息子。南北が子役の頃から可愛がっていた10歳下の七代目市川団十郎とは、竹馬の友でした。
坂東鶴十郎として歌舞伎役者を務めたのち、直江重兵衛として父南北の右腕となります。


歌舞伎役者

🎭二代目関三十郎天明6年1786年天保9年1839
実力派として人気でしたが病がちになり、晩年は亀戸に引っ越し療養していました。

🎭松本虎蔵(生没年不明 文化7年に市川万蔵から松本虎蔵に改名)
五代目松本幸四郎の門人。鶴屋南北に性格を気に入られ。端役だけど笑いどころのある役をつけてもらっていました。文政年間に亀戸に居住。

🎭二代目中村里好天明4年1784年天保9年1839
上方役者二代目嵐吉三郎の門人。文政年間に亀戸に居住。

🎭初代大谷門蔵(生没年不明)
初代大谷馬十の門人。のち二代目大谷友右衛門の門人。文政年間に亀戸に居住。

🎭二代目市川あかん平弘化2年1845年)- 明治19年1886年
八代目市川海老蔵。五代目市川海老蔵の七男。父海老蔵が出稼ぎに大阪に行ってしまったため、母ためと妹ひろ、乳母の加納と共に木場の家を出て、嘉永5年1852年末から嘉永7年1854年8月まで亀戸町の越前屋に住んでいました。


戯作者

📘十返舎一九明和2年1765年- 天保2年1831年

橘町の自宅が類焼のため、文化3年1806年3月から文化4年1807年後半まで亀戸村に仮住まいしていました。
 十返舎一九のヒット作『東海道中膝栗毛』に目をつけた鶴屋南北が、文政10年1827年6月に河原崎座に書き下ろしたのが「独道中五十三駅」ひとりたびごじゅうさんつぎです。


網打名人

🐟栄次
🐟(栄次の息子)


亀戸の土手に住んでいた親子。なんと徳川家慶に雇われる程の網打名人で、その噂を聞いた五代目岩井半四郎がたびたび雇い、息子や後輩役者たちと中川で網打ちを楽しんでいました。



また見つけ次第、追加していきます。

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