五代目市川海老蔵が食べた「葛餅」はどこのくず餅?
五代目市川海老蔵の豪快エピソード
五代目市川海老蔵は、亡くなる前年の一八五八年七月、舞台中に葛餅を買いに行かせ、出番直前に届いた葛餅を上手の障子屋台(歌舞伎の大道具の一つで障子で囲った座敷の事)でムシャムシャ食べ、キッカケ(出入りの合図)を無視し平気で又ひとつ口に入れたという豪快エピソードを持っています。

国立国会図書館デジタルコレクションより
三段構成の「けいせゐ返魂香」の上の段、通称「吃又」上演中の事です。
こちらがその時の配役です。
五代目市川海老蔵 生没年1791-1859
→土佐将監役
四代目市川小団次 生没年1812-1866
→浮世又平役
梅幸(四代目尾上菊五郎) 生没年1808-1860
→おとく役
家橘(五代目尾上菊五郎) 生没年1844-1903
→雅楽の助役

浮世又平役の小団次(左)と土佐将監役の海老蔵(右)
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより
舞台上にいたのが梅幸と小団次という芸達者だったから何とか繋いでもらえたものの、大先輩を迎えにきて食べ終わるのを待たされていた若手俳優の家橘はさぞかし冷や冷やしていた事でしょう。
海老蔵が買って来させたのはどこのくず餅?
さて、海老蔵が共演者に迷惑をかけてまで買ってこさせた「葛餅」は、一体どこのくず餅だったのでしょうか。
元々大らかで伸び伸びした性格の海老蔵ですが、さすがに最初から本番中に食べるつもりではなかったと思うのです。
楽屋から買いに行かせ、本番前に食べるつもりが出番直前に届いてしまった
という事であれば、近場のお店ではなく、少し遠いところへ買いに行かせていたと考えるのが自然です。となると可能性が高いのは、亀戸の船橋屋(1805年創業)です。

現在、船橋屋は天神通り沿いにお店を構えていますが、創業当時は亀戸天神境内の茶屋の株を買って営業していました。
浅草猿若町の市村座から亀戸天神までは、徒歩で片道四十分ほどです。走ったり舟を使えば、一時間もあれば行って帰ってこれたでしょう。
亀戸と言えば、浮世絵師歌川国貞が生まれ育った町です。海老蔵は亀戸の国貞と兄弟同然に育っていますから、船橋屋の馴染み客であってもおかしくありません(国貞の父と海老蔵の祖父五代目団十郎は狂歌仲間で、家族ぐるみの付き合いをしていました)。
船橋屋は、海老蔵が十四の頃に創業しています。もし創業時から食べに行っていたとしたら、海老蔵にとって船橋屋のくず餅は青春時代の思い出の味という事になります。
あるいは創業からしばらく経ち、船橋屋のくず餅が江戸名物になった時に「どれどれ」と初めて口にしたかもしれません。
そもそも船橋屋のくず餅は食べた事がなく、買いに行かせたのは全然違うくず餅屋だった可能性もあります。市村座の近くにくず餅を扱うお店があったのかもしれません。
研究者としてはエビデンスがないとなんとも言えませんが、亀戸地域活性化活動をしている身としては船橋屋で断定したいところです。
【豆知識】
現在船橋屋では、葛粉を使った関西の葛餅と区別するため、葛餅ではなく「くず餅」と表記しています。
関東のくず餅はもっちりと弾力があるのが特徴です。小麦澱粉を湯で練って蒸して乳酸発酵させて作ります。
プルプルした葛粉の葛餅とは食感も味も全く違う別物です。
くず餅を食べてきました
海老蔵のエピソードを読んで無性にくず餅が食べたくなったので行ってきました。
現在、船橋屋はこんな感じです。

入り口頭上にあるのは藤棚です。4月中旬から5月初旬にかけて紫の藤の房が垂れ下がります
まずレジで注文と会計をしてから、席に座るスタイルです。満席で人が写ってしまうので、店内写真は撮れませんでした。
頼んだのは、飲むくず餅乳酸菌とくず餅です。飲むくず餅乳酸菌は、水とお米とくず餅乳酸菌だけで作った乳酸菌飲料です。
砂糖不使用ですがお米の甘さだけで充分甘く感じました。ほのかに酸味があり、後味に甘酒っぽさがあります。好き。

団十郎親子も連れてきました。

海老蔵「おお。久々だな」
団十郎「お父ッさん、出番がきてるのにキッカケを無視してくず餅をムシャムシャ食べていたというなあ、本当ですか」
海老蔵「黒蜜がうめえんだよ」
団十郎「おッ母さんと別居を余儀なくされた直後で張り合いがなくなっていたのかもしれませんが、それにしても気い抜きすぎですよ」
海老蔵「言うな。喰わせねえぞ」
因みに亀戸天神向かいの船橋屋別館は、歌川国貞(三代目歌川豊国)の住居跡地に建てられています。船橋屋四代目渡邊寅吉が国貞の孫の国峰に土地を譲り受け、その後一旦手放しましたが六代目が買い戻しました。そして2026年現在、老朽化のため建て壊しが決定しています。

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