酒が入ると別人になる夫。どんなに酷い有り様になろうとも、何度も神様に委ねられたインド農村での話。
突然だが、私のインド人夫は酒豪だ。
普段は口数が少なく、冷静で、どんな場面でも感情的にならない。そういう人だと思っていた。実際、しらふの夫はそういう人間だ。
けれど酒が入ると、まるで別人になる。
堰を切ったようにしゃべり出す。内容のほとんどは、誰かの悪口。
そして夜中だろうと明け方だろうと、平気で私を起こしてマッサージを要求する。水を持ってこい、スマホを充電しろ、毛布をかけろ——自分では何ひとつ動かず、すべてを人任せにする。
本職は有機農家だが、今までいろいろな仕事をしてきた夫。それらの仕事終わりには、必ず飲んで帰ってくる。日付が変わってからの帰宅は普通で、朝帰りも珍しくない。今週だけでも、五日のうち朝帰りが一日、残りのほとんどは深夜帰宅だった。
そして休日は、ベッドで寝転がってスマホゲームか映画、それかテレビを見るか眠るかだ。
もっとも、これは夫だけの話ではない。
夫の部族の男たちは、総じてよく飲む。「嗜む」という言葉では到底追いつかない。浴びるように、というほうが正確だろう。狩猟の予定がない日には、男たちはふらりと出かけ、ジャングルや川辺、あるいは誰かの家に集まって、ひたすら飲み続ける。
面白いのは、彼らはキリスト教徒であり、本来ならば飲酒は彼らの教わる教義上タブーとされているという点だ。パーティーの席にも酒は出ない。
それでも、これほどかというほどよく飲む。
キリスト教が伝わる以前から、彼らは米から酒を醸造していた。日本と同じように、主食のお米がそのまま酒になる文化だ。当時、飲酒そのものは悪とはみなされていなかった。
ただし、酒が原因で事故や事件が起きれば、村の掟に従って厳しく裁かれた。村には村の秩序があり、人が人を律していた。
ところがキリスト教の到来とともに、その仕組みが変わった。
「神様がすべてを裁くのだから、人間が人間を裁いてはいけない」
酒による問題が起きると、村は牧師を呼んで家族で祈る。「二度とこのようなことが起きませんように、お酒をコントロールできますように」と、神様に委ねるのだ。
最初にこれを聞いたとき、正直に言えば私は「?」としか思えなかった。
神様だけに頼っていてはだめなのでは、と。
私自身、酒乱の夫と何度も激しくぶつかってきた。ものを壊される、殴られる、蹴られる——そういうことが、決して少なくなかった。そのたびに、このお祈りでうやむやにされてきた気がする。
生まれた時からキリスト教の価値観に囲まれて育った人たちと私とでは、宗教というものの受け取り方が少しどころか、かなり違う。そのことをこういう瞬間に、あらためて実感する。
そしてもうひとつ、気になることがある。
キリスト教到来以前は村の掟で裁けていた問題が、到来後は裁けなくなった。その結果、村の治安は悪化し、トラブルは増えているのだという。
それを聞いた時に思った。
土着の信仰ではなく、外からやってきた宗教が根を張るとき、もともとあった秩序が溶けていくことがある。信仰が人を救う一方で、人が人を律する整っていた仕組みを壊してしまうこともある——そういうことなのかと自問してみる。
ここに何年も暮らしていても答えは出ない。ただ、インドの辺鄙なところで酒乱の夫と彼の周りにいる男たちを尻目に、女たちは静かにひたむきに家庭で畑で田んぼで、または市場で、ひたすら働いている。
