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世界史の飾り窓161革命家孫文と日本

「国父」孫文は、世界史業界では革命家ではなく「亡命家」と冗談で呼ばれるくらい有為転変の人生を送り、日本によく亡命してきた。後継者蒋介石が1949年に台湾に逃亡し「大陸反攻」を掲げて国民党独裁を敷いたために悪役となったことで、その「高潔」「無私」イメージが増幅され、日本での彼の評価は高い(特に神戸では高い)。だがハワイ在住の頃から日清戦争前後の孫文は「大ホラ吹き」の若造でしかなく、あだ名は「孫大砲」だった。ただ、その純粋さで人の気持ちを引き付け、貧富の差なく多くの人から革命運動の資金を調達する能力は素晴らしかったらしい。宮崎滔天兄弟との交友、私財を投げ打って孫文を支援した梅屋庄吉の存在はその証拠であり、政府間とは異なる日中協力・友好の証である。
 ただ孫文の革命運動は挫折の歴史だった。清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年にハワイで興中会を結成したものの、彼の名は華僑にしか知られていなかった。翌1895年に日清戦争の終結後に広州での武装蜂起を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって福岡県にある政治団体玄洋社の頭山満(とうやまみつる)と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。住居である早稲田鶴巻町の2000平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
 1899年に義和団事件が発生すると、それに乗じて翌1900年に孫文は恵州で再度挙兵した。実はこの武装蜂起は台湾総督の児玉源太郎(日露戦争で二〇三高地奪取に成功した参謀)と後藤新平(台湾の経済開発を進め、農業インフラを整備し、特産の樟脳に専売制を導入して神戸の鈴木商店飛躍のきっかけを与えた人でもあり、関東大震災の復旧を復興にしようと壮大な都市計画を企画した人でもある)も呼応する予定だったが、直前に二人=台湾総督府が裏切り、失敗に終わった。


 その後、1902年に日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚したが、実態は「日本の現地妻」みたいなものだった(ただ、この時代の政治家や財閥首脳にはよくあることだと弁護しておく)。こう書いたのは、この直後にアメリカを経てイギリスに渡ったが、政治犯となって清朝から国際手配を受けていた孫文は、ロンドンで逮捕され、在ロンドン清国公使館に拘留された。その体験と中国革命に賭ける熱い思いを綴ったを『倫敦被難記』として発表し、革命家として世界に名を馳せた話は有名だが、皮肉なことでもあった。
 この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得し、革命資金を集めるために世界中を巡った。その資金力を背景に翌1905年に宮崎滔天らの援助で東京池袋にて興中会、華光会、光復会を統合して中国革命同盟会を結成し、その党首に就任した。「民族の独立・民権の伸張・民生の安定」という三民主義が掲げられたのはこの時である。ちなみにここで陸軍士官学校留学中の蒋介石と出会っている。
 幹線鉄道国有化問題に端を発し、1911年10月10日、大陸の革命組織共進会と同学会の指導の下、新軍の武昌蜂起が起き、18省のうち14省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文は国籍を有するアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで激しく争った。だが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。しかし、革命派には軍事力はなく、清朝最強の北洋軍閥の司令官袁世凱が北京にいた。清朝滅亡を最優先した孫文は袁世凱と妥協して臨時大総統の地位を彼に譲った。袁世凱は宣統帝溥儀夫妻がテニスに興じていた紫禁城を軍事接収し、溥儀を退位させ、ここに清朝は滅亡した。
 1913年3月、中国史上最初の国会議員選挙において中国革命同盟会を発展させ、孫文が理事長である国民党が870議席の内401議席を獲得、同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。清朝の実力者となった袁世凱はアメリカのグッドナウの「強権政治の勧め」の意見を取り入れ、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧=逮捕即処刑を始めた。これに伴い、同年7月に袁世凱打倒の第二革命が始まり、1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。さらに袁世凱は1915年には共和制を廃止して帝政復活を宣言、袁自らが中華帝国大皇帝に即位した。すぐに反袁・反帝政の第三革命が展開され、日本を除く国際社会は袁世凱を国家元首と認めなかった。翌年、袁は失意のうちに病死する。


 この頃に同じ客家出身で、上海に浙江財閥を築いた宋嘉樹の次女の宋慶齢と日本で結婚した。駆け落ち婚である。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913~16年の間とされ、この結婚を整えたのは戦術の梅屋庄吉夫妻だった。なお、宋慶齢はのちに中国共産党に入党し、1936年に張学良が西安事件を起こした時、周恩来とともに西安に駆けつけ、解決と蒋介石釈放に尽力する。彼女は中国国民党の台湾逃亡後も本土で別格扱いを受けていた。

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