「波と海」三部作ー机に触れているのに、触れていない ― 「もの」はどこまで本当か
今、目の前に机があるとして、その表面に触れてみてほしい。
たしかに、硬い。指で押せば押し返してくる感触がある。これ以上ないほど「ある」と感じる瞬間だと思う。
ところが物理学に従うなら、これは少し奇妙な話になる。私たちの指先と机の表面は、実は一度も触れ合っていない。指の電子と机の電子が、互いに反発し合っているだけなのだ。「接触」だと思っていたものの正体は、電磁気力による反発である。
もっと言えば、原子核も電子も、誰かが実際に目で見た「小さな球」ではない。教科書の図はあくまでイメージ図であり、実際にあるのは、観測結果をうまく説明するためのモデルだ。もちろんこれは、電子が存在しない、という話ではない。ただ、私たちが「もの」として思い描いている世界像は、すでにかなり解釈された後の世界だ、ということになる。
ここで一つ、面白い見方ができる。
世界は最初から、独立した「もの」の集まりとしてできているのではなく、関係やパターンとして立ち現れているのではないか、という見方だ。
たとえば川の流れの中にできる渦を思い浮かべてほしい。渦は、何か特別な「渦という物質」でできているわけではない。水の流れという条件が整ったときに、一時的に安定して立ち上がる、パターンにすぎない。それでも、渦の中に手を入れれば、ちゃんと水の抵抗を感じる。渦は、ある意味では確かに「ある」。ただしその「ある」は、固定された物体としての「ある」ではなく、条件が続く限り保たれる、パターンとしての「ある」だ。
机も、私たちの体も、もしかすると同じ種類の「ある」なのかもしれない。固定された物体が先にあるのではなく、無数の関係が、たまたま強く安定したパターンとして立ち上がったとき、私たちはそれを「もの」と呼んでいる。
これは、前回の記事で書いた「赤」の話と、実はつながっている。赤という色も、どこかに保管された原型があるのではなく、その都度立ち上がる条件のようなものだと書いた。机という「実態」も、同じ構造をしているのかもしれない。
だとすると、最初の問いが少し変わってくる。
体験が「私のもの」になるとは、頭の中のイメージが、確固たる実態に置き換わることだ、と最初は考えていた。
でも、もしその「実態」自体が、関係が安定しただけの、ある種のパターンなのだとしたら――
イメージと実態を分けていた境界線は、思っていたよりずっと曖昧なのかもしれない。
では、その先に何が残るのか。物質の確かさが揺らぐとしたら、最後まで残るものは何なのか。
それについては、次の記事で考えてみたい。
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