No.249 2025年6月3日 長嶋茂雄氏ご逝去 私の著書『スポーツ記者を追いかけろ』(1993年)への長嶋茂雄氏の推薦文「永久に感謝」
長嶋茂雄読売巨人軍終身名誉監督が2025年6月3日にご逝去されました。89歳の人生でした。まさに89(やきゅう)の人生だったことでしょう。
私は川崎市で生まれ川崎市で育ちましたので、子どもの頃からプロ野球は川崎球場が本拠地の大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のファンでした。ただ一人選手として応援していたのが長嶋茂雄選手でした。小学生で野球する時は4番でサードを守ることを日常にしていました。
この原稿は6月4日の朝、日本テレビの「ZIP!」での長嶋茂雄氏の貴重映像を見ながら書いています。「選手・監督・人柄」の視点から放送されていました。「愛される人柄」が紹介されています。
私には生涯忘れることができない「永久に感謝」の気持ちが長嶋茂雄氏にあります。1993年11月10日に出版した『スポーツ記者を追いかけろ』に推薦文を書いて下さったことです。このことについては、エッセーNo.3「1993年11月10日 長嶋茂雄監督が推薦『スポーツ記者を追いかけろ』の出版」をご覧ください。

「スポーツ記者を追いかけろ」を推薦します。
まず、タイトルですね。これを見たとき、わたしは率直にいっておもしろい本がでたなと思いました。といいますのは、わたしはいつも記者のみなさんに追いかけられています。その追いかける彼らを、こんどは追ってみようというわけです。
スポーツ記者というと、どんなイメージが浮かんでくるでしょうか。試合が終わった後なんかに、ひかえ室に戻ってくる僕たちにインタビューしている、そういうちょっとカッコいいすがたをテレビなどで見ているんじゃないでしょうか。
でもね、じっさいはとても大変な仕事だと見ていてわたしは思うんです。ちゃんと家に帰っているのかなってこちらが心配になるくらいがんばっています。
この本に登場する読売新聞運動部の記者をはじめ担当記者の人たちには、顔なじみがおおぜいいます。そうすると、もうこっちもすっかり友だちみたいな気分です。その友だちが、一生懸命にぼくの話を聞こうとするからそのひたむきな感じがうれしくて、本当は疲れて口をきくのもいやなときでもついしゃべっちゃうんですね。
朝、わたしは起きるとすぐ新聞にとびついて野球の記事を読むんです。そうすると、きのうの試合に勝った喜びとか、負けたくやしさとかと一緒にわたしたちの活躍を書くためにがんばってくれた記者の人たちのひたむきな顔がうかんできます。その一生懸命さをこの本で感じとっていただけたらいいな、と思います。野球でも一生懸命プレイしなければいい結果は残せません。当たり前のことですが、新聞も同じなんですね。
このあいだ、新聞の投書らんにあるお父さんの手紙が載っていました。そのお父さんの子ども、男の子ですが、毎朝必ず新聞のスポーツらんを見て学校に行くんだそうです。ファミコンより、プロ野球やJリーグのことを友だちと話す方が楽しんだそうで、きっと学校では元気いっぱいのお子さんなんでしょうね。わたしはその話を読んでとてもうれしくなりました。
私も選手も、一生懸命やっています。ときには思い通りにうまくいかないこともありますが、「負けるもんか!」とがんばっています。そんな姿を、文字と写真で毎日毎日伝えてくれる新聞記者がおり、毎日毎日読んでくれるファンのみなさんがいる。
それはとてもすばらしいことで、これ以上の励ましはありません。どうか新聞でぼくたちの活躍を読んでみてください。テレビは一瞬ですが、新聞はあとに残ります。そして、それをつくっている人たちのことを考えて読むと、また違った楽しみかたが見つかるかもしれませんね。
読売巨人軍 監督 長嶋茂雄

監督時の写真とサインも付けて下さいました。
1993年のプロ野球・大相撲・Jリーグ取材を引き受けて下さり、多くのお世話をして下さったのが当時の読売新聞運動部長の島田公博氏でした。

プロ野球の取材は1993年5月1日(土)の読売ジャイアンツ対ヤクルトスワローズの試合でした。なんと偶然にも松井秀喜選手が一軍デビューした日で2塁打を打ちました。試合は5対4でジャイアンツが逆転で勝ちました。

松井選手を身近で見ました。右にいる方が三宅記者でずっと一緒に行動させて頂きました。ベンチに入ったり記者席で座っていたりインタビュー室に入れて頂いたりして取材をさせて頂きました。

試合後のインタビューも身近で見させて頂きました。このような経験を教師である私ができたこと感謝致すことと同時に幸せな人生を感じました。
島田公博運動部長は、私が立教大学大学院修了・聖心女子学院初等科教諭ということをご存じでした。長嶋茂雄氏が立教大学を奥様の長嶋亜希子氏が聖心女子大学をご卒業ということで私と関係が深いので推薦文を書いて頂きましょうとユーモアたっぷりにお話され実行して下さいました。島田公博氏へも感謝で一杯です。
2025年6月3日から4日の長嶋茂雄氏ご逝去へのメディアの報道について見ていきます。
6月3日朝、私はネットでのニュースにより知りました。
スポーツ新聞の電子版では次のように報道していました。
スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20250603-OHT1T51024.html?page=1
スポーツニッポン
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2025/06/03/kiji/20250603s00001173067000c.html
サンケイスポーツ
https://www.sanspo.com/article/20250603-KNIQN7CQGZNRJPMXGHNMSWULVU/?outputType=theme_giants
日刊スポーツ
https://www.nikkansports.com/baseball/news/202506030000150.html
6月4日スポーツ新聞では次のように報道していました。

「スポーツ報知」「スポーツニッポン」「サンケイスポーツ」「日刊スポーツ」2025年6月4日より
読売新聞は読売巨人軍の親会社ですので、一面で大きく取り上げていました。

改めて長嶋茂雄氏の経歴と私の自分史を並べてみますと、いくつかの偶然が見つかりました。
1954年 長嶋茂雄氏立教大学に進学
私が生まれた年です。後に立教大学大学院を修了しました。
1959年 長嶋茂雄氏後楽園球場での天覧試合で阪神の村山実氏からサヨナラ本塁打
皇太子明仁親王が正田美智子さんと結婚 正田美智子さんは聖心女子学院を卒業されています。
後に私は聖心女子学院初等科の教師になりました。
1972年 長嶋茂雄氏 読売巨人軍監督に就任(背番号「3」) 私は青山学院大学文学部教育学科への進学を決めました。このことが聖心女子学院初等科教師への道につながるのでした。
1976年 長嶋茂雄氏監督で初優勝 私は大学4年生で小学校教師への道に進むことを決めました。
1993年 長嶋茂雄氏読売巨人軍の監督に復帰(背番号「33」)
私の著書『スポーツ記者を追いかけろ』に長嶋茂雄監督が推薦の言葉を掲載してくださいました。長嶋茂雄氏が監督に復帰した
ことにより実現しました。
2000年 長嶋茂雄氏監督の背番号が「3」になりました。日本シリーズON対決で長嶋茂雄監督日本一に。
私は娘が生まれ、小学生の男の子二人と娘とでセリーグの読売巨人軍の試合を東京ドームで観戦しました。

2013年 長嶋茂雄氏国民栄誉賞を松井秀喜氏と同時受賞されました。
私の息子が結婚しました。
2021年 長嶋茂雄氏が文化勲章を受章されました。
私の看護学を学んでいた娘が第一希望の病院に就職の内定を頂きました。この前身の病院で私は生まれました。

私が生まれてから最近までの人生での8つの出来事が偶然にも重なりました。
私は1993年に長嶋茂雄氏が読売巨人軍の監督に復帰(背番号「33」)され、私の著書『スポーツ記者を追いかけろ』に長嶋茂雄監督が推薦の言葉を掲載して下さってから、ラッキーナンバーは「3」としています。このことはエッセーNo.33「1981年~ ラッキーナンバーは長嶋茂雄氏の背番号3」をご覧ください。
私は長嶋茂雄氏がご逝去された2025年6月3日の夕方、長嶋茂雄氏のご自宅がある田園調布に行きました。雨が1日降っていた日でした。

日本で最も国民に愛されたスポーツ選手長嶋茂雄氏に哀悼の意を表します。
