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No.300 2025年11月22日 「ミスタージャイアンツ 長嶋茂雄氏 お別れの会」

 2025年6月3日に89歳で亡くなられた巨人軍終身名誉監督長嶋茂雄氏の「お別れの会」が11月21日、東京ドームで開催されました。


『スポーチ報知』2025年11月22日一面より

 『スポーツ報知』(2025年11月22日)一面リード文に次のような文章が書かれていました。
 
 まな弟子の松井秀喜氏(51)=ヤンキースGM付特別アドバイザー=は「お別れの言葉」で、ちょうど33年前の1992年11月21日のドラフト会議で、4球団1位指名で競合の末、当たりくじを引き当ててくれた恩師に感謝の言葉をささげた。関係者の部、一般の部を合わせて約3万2400人が来場し、別れを惜しんだ。

 松井秀喜選手がデビューした時の長嶋茂雄監督の背番号は33でした。「33年前」「背番号33」が重なりました。
 偶然ですが、私は松井選手が一軍でデビューし2塁打を放った時の試合を取材し『スポーツ記者を追いかけろ』(リブリオ出版、1993年)の出版をしました。松井秀喜選手を間近で拝見しました。


『スポーチ報知』2025年11月22日、一面と最終面より


『スポーチ報知』2025年11月22日、二面と三面より

 私はエッセー「私立小学校研究所」で長嶋茂雄氏に関する3つの原稿を書いてきました。
No.3 1993年11月10日 長嶋茂雄監督が推薦『スポーツ記者を追いかけろ』の出版
 
最も取材を楽しく興味深く普通では入ることができない場所に入れていただいての出版がありました。それが、1993年11月10日に出版した『スポーツ記者を追いかけろ』(リブリオ出版)です。主に子ども向きに出した大型の本です。この本はプロ野球、大相撲、サッカーのJリーグを取材された新聞記者とカメラマンの行動と新聞の編集、実際の記事を追いかけたものです。この年はプロ野球では長嶋茂雄さんが監督で松井秀喜選手が入団し、大相撲では貴ノ花、若乃花、外国人力士の曙、小錦、武蔵丸が活躍し、Jリーグがスタートしたプロスポーツ全盛の時代でした。


 当時の読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督の推薦をいただくことができたのでした。「どうか新聞でぼくたちの活躍を読んでみてください。テレビは一瞬ですが、新聞はあとに残ります。そして、それをつくっている人たちのことを考えて読むと、また違った楽しみが見つかるかもしれませんね。」と推薦文の最後に子どもたちにメッセージを送って下さいました。


写真は拙著『スポーツ記者を追いおいかけろ』(リブリオ出版、1993年)より

No.249 2025年6月3日 長嶋茂雄氏ご逝去 私の著書『スポーツ記者を追いかけろ』(1993年)への長嶋茂雄氏の推薦文「永久に感謝」

 長嶋茂雄読売巨人軍終身名誉監督が2025年6月3日にご逝去されました。89歳の人生でした。まさに89(やきゅう)の人生だったことでしょう。
 私は川崎市で生まれ川崎市で育ちましたので、子どもの頃からプロ野球は川崎球場が本拠地の大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のファンでした。ただ一人選手として応援していたのが長嶋茂雄選手でした。小学生で野球する時は4番でサードを守ることを日常にしていました。


『スポーツ報知』『スポーツニッポン』『サンケイスポーツ』『日刊スポーツ』2025年6月4日より


田園調布駅近くの焼鳥屋さん「鳥鍈」(とりえい)で。

 私は長嶋茂雄氏がご逝去された2025年6月3日の夕方、長嶋茂雄氏のご自宅がある田園調布に行きました。雨が1日降っていた日でした。


No.250 2025年6月 長嶋茂雄氏を綴った書籍を読む
 
 長嶋茂雄を綴った書籍を2冊読みました。
1冊目はテリー伊藤氏著『長嶋茂雄を思うと涙が出てくるのはなぜだろう』(ポプラ新書、2015年)です。


2冊目は作家・詩人ねじめ正一と長嶋家研究会編著『長嶋家の謎』(光文社、1999年)です。


 2冊とも長嶋茂雄氏の不思議なところとなぜ人々に元気を与えられるのかが分かりました。
 
 私の心の中で長嶋茂雄氏は永久に不滅です。
 今回のエッセーはNo.300です。背番号3、33に関わる数字を付けることができて良かったです。3は私のラッキーナンバーです。

 2025年のエッセーはこれで終了です。
 2026年からもよろしくお願い致します。原稿を書き続けることができるまで頑張ります。

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