幼き日、自転車は世界の果てまで行けると思った――地球の青い静かな服の下を、そっと覗き見た日 (約3,900字 6分30秒~9分45秒)
いつもひとりで「地図」を描いていた。
「ぼっち」という概念がなかった思春期前の私には、今のように孤独を言葉で意識する発想がなかった。
お手本は国土地理院・二万五千分の一地図。
ネットなんてない時代、地図の記号や等高線を見つめていると、ふわぁっと目の前に湧き上がってくる景色、その中で私は遊んでいた。
住まいの近くの道や川に始まり、神社や田んぼや森や井戸まで、見つけたもの、おぼえた地図記号、見境なく書き込んだ。
紙がなければ、地面に棒で描いた。
毎日毎日、描き集めた、自分だけの世界地図。
少しずつ少しずつ、開拓地は広がっていった。
そして「革命」が起こる。
自転車である。
想像するしかなかった景色を、実際に見に行ける――それだけで、好奇心の塊だった私の世界は、いっきに広がった。
それまでの狭い世界しか知らない私には、いくら地図を読み解こうとしても、絶対的な材料不足で、想像だけでは描けない場所がいくつもあった。
その中でも、特に気になる、変な川。

かなり川幅がある大きな川なのに、東西に走る国道のすぐ南側の脇から「唐突に」始まっている。
しかも、すぐに別の川に合流して終わってしまう、あまりに短くて太い、変な川。
川って、もっと山のほうから少しずつ集まってできるものじゃないの?
この国道の脇からいきなり現れる大河の始まりは、いったいどうなっているの?
――たしかめに行かなきゃ。
それは、幼き日の「大遠征」だった。
東の空が白む頃。
昨日の余りのお惣菜とおひつの残りを銀紙に包み、リュックに詰め込めるだけ詰め込んだ。
タイヤにもシュコシュコ詰め込めるだけ詰め込むと、最後に、大人サイズの水筒を二本、前カゴに積んで出発した。
体の軽さと脚の持久力だけは自信があった。
なんとか昼前に、変な川にかかる唯一の橋まで、たどり着いた。
縮尺から川幅の広さはわかっていた。だけど、何これ、この迫力――地図には迫力の記号なんて、ない。
川は怖いほど深いのに底の水草の動きまで、完璧に透けている――地図には透明度の表示なんて、ない。
水中の水草のしなり方を見ると、流れは恐ろしく速い。
けれど、川底があまりに深すぎて、瀬になるような所がいっさい無いからか、川面はのっぺりしている。
なにより、とてつもない量の水が、もの凄い速さで移動しているのに、水にかかわる「音」が全くない。
無音の激流。
音のない大量の水の流れがあるなんて
それがこんなに怖いものだったなんて
「現場の実際」に、ただ圧倒された。
――地図には流向を示す矢印しかなかった。
さて、川の始まりはどうなっているのか。
こんなに凄まじい川なのに堤防が無いのも変だった。
両岸は茂みに覆われ、川沿いを行く道も無かった。
やむなく、橋を渡りきって最初の十字路を北へ向かうと、ほどなくして国道に当たった。
川の始まりがあるはずの地点まで、南側の歩道を、車の煙に巻かれつつも吸い込まないように、自転車を押してゆく。
地図の通り、国道には川をまたぐような橋は見当たらない。
ただ一点、大渋滞の南側で木々が密集している茂みに目がとまった。
周囲の工場や国道の喧騒の中、そこだけ自然の塊があるのは、遠目にも不自然だった。
近づいてみると、自分のいる歩道と国道は切り立った崖の上にあることがわかった。
茂みだと思ったのは、はるか崖の下から生えている高木の森だった。
地図は、まさにこの地点が短い大河の始まりであることを示していた。
崖の下は、うっそうと生い茂る木々で、まるで見えない。
どうしようかなと見回すと、歩道の手すりに一か所だけ、切れ目があった。
ここから降りられそう…
歩道脇に自転車を押し込んで、リュックと水筒を抱え直し、ゆっくり降りる。
ひと一人分の道になっている。
少なくとも私が初めてではないことは確かだった。
茂みを抜けると――
木々に囲まれた、大きな池、いや小さな湖?
その、ほとりの少し高くなったところに出た。
……。
「音」が、無い。
鳥や昆虫の気配を除けば、完璧な静けさ。
そこに、鏡のような湖面が広がっていた。
美しい緑に囲まれた静かな池。
だけど、どこか何かが変……
……何か、動いている?
違和感につられて見た先の、きらめく湖面のわずかな隙間。
見渡す限りの湖底全体が、音もなく動いていた。
見間違いではない。
下流の橋の上から見えた水中の水草は池のほとりにしかなく、池の底は見渡すかぎり黒っぽい粗い砂だけのようで、深さがよくわからない。
その池の底の砂全体が、まるで見えない巨人の左官屋が漆喰かセメントを塗りたくっているような、謄写版に垂らし過ぎたインクをローラーで塗り拡げているような、巨大な砂の速い流れが、うごめく湖底の正体だった。
明るく鏡のように止まっている水面。
波ひとつ泡ひとつ無い水面の下で、膨大な量の砂が休みなく躍動し続けている。
こんな景色が、あったのか。
地図って地球の静かな表面しか描いていないんだ、と、そのとき気づいた。
じつは地球は、青い静かな服を着ただけの、黒く動き続ける生命体…?
そんな相手の裸を覗き見てしまったような、
見てはいけない秘密を見てしまったような。
底知れない真っ黒な瞳に見咎められたまま、
きらめく闇へと引きずり込まれそうな恐怖。
引き込まれまいと私は必死で目を逸らした。
逸らした先は、池を取り囲む新緑のほとり。
南側だけ木々が途切れて青空が開けていた。
……池じゃ、ない。
ここ、大河の始まりだ。
池だと思ったここには、どこからも水は流れ込んでいない。
なのに、南へ大河が流れ出している。
湖底全体を踊らせ続けるほどの、途方もない量の水が、地球の中から溢れ出し続けていたのだ。
大きな岩があった。
上に座ると、水面の反射をまぬがれて、自分史上最高の透明度のもと、うねり続ける湖底全体を、はっきり見渡すことができた。
しかも、ちょうど荷物をおろしてくつろぐのに、おあつらえ向きな、お休み処。
朝から自転車を漕ぎ通しで、何も食べてなかった。
リュックの中で半日ゆさぶられて、すっかりおはぎのようになったおにぎりを、ムシャムシャ始めていると――

「…なんだ、どこから来た。」
突然の声に、心臓が飛び跳ねた。
おにぎりだけでなく水筒まで落としそうになった。
振り向くと、妙に背筋のしゃんとした、みごとなまでの白髪の御老人が立っていた。
(ちなみに、私は割りたての黒曜石のようなつやのある黒髪が自慢だった)
ほおばったものを飲み込めずに黙っていると、
白髪の御老人。
「そこ、いいだろ、タケチヨも座って休んだとこだ、ハハハ…」
とだけ言い置いて、私の来たのとは別の茂みに入って行こうとする。
黒髪の私。
「えっ、ちょっと、タケチヨって、まさか徳川家康!?」
白髪の御老人「お、知ってるな…そう、やたら名乗りを変えおってな、ここへ来たときはイエヤス…」
(こんなところに来るはずないよね~ 家康は、三河と駿府と浜松、あとは江戸。 知ってるもん、子どもだからってばかにして…)
白髪「やっこさん、ここにたいそうな家を建てようとしたんだ、けどな、ここに気づくのがちいと遅かった、建つ前にくたばった、ハハハ…」
(やっこさん? こんなとこに天下人が家? いやいや、このお爺さん大丈夫?…)
白髪「駿府にあこがれて育ったから、しゃあない、若いうちはあこがれを追うもんだ、今川より大きく建て直すのに夢中でな…」
(「若いうちは」とか、さっきから、家康を、そんな、知り合いの子どもみたいに…戦国時代からここに居るわけでもないでしょうに…)
白「…気をつけて帰れ。」
黒「? どこ行くんですか?」
御老人の向かう茂みを覗こうとすると、
「そっちは◎▲◇☆があるんだ、危ないから来るな、帰れ!」
さっきまで笑ってたのに、なんか急に恐い声。
しかたなく私は荷物をまとめて国道に戻った。
もう日が傾きかけていた。
早く帰らないと夜になっちゃう。
大量の水が湧き出るところを見たのは初めてだった。
もっと、かわいく湧き出る湧き間はわかるんだけど、あんなふうに湧くのか…地図には描きようもないな。
それにしても、あの爺さんはなんだったんだろう…。
それに、茂みの向こうは一体何があったんだろう…。
「◎▲◇☆」って、よく聞き取れなかったな…
あ―…
…水筒に湧き水を汲み足してくればよかった…次に来るときは、水筒にカルキが残っているうちに、そうだなあ、半分くらい飲んだら、半分汲んで入れれば、おなかこわさず飲めるかなぁ…
黄色くなり始めた西日の中、渇いた喉のまま、帰り道を急いだ。
もっと通いたかったけど、いろいろあって、かなわなかった。

半世紀ぶりの再訪。
すっかり立派な公園が整備されていた。
崖を降りる急な細道、
大きな池のような湧水地、
家康も休んだ?岩、
何もかも、わからなくなっていた。
けれど、今の私は、スマホで写真が撮れる。
noteの備忘録に加えておこう。
そうそう、あの日、水筒に汲みそびれた水。
公園の出口近くに、湧き水が試飲できる器具が置かれていた。
初めてなのに、なつかしい味がした。
でも、「◎▲◇☆」が何だったのかは今も謎。
あの御老人も、どこかで会ったような気がするのだけど、思い出せない。
注︙見出しのイラストの生成にAIを使用しました。
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