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仕立てられなかった服のぬくもり。――私にだって若い頃があった!! (約2,800字 4分40秒~7分)

【読者の皆様へ】

 このお話は、私が若手医師だった頃の、患者さんとの交流にまつわる思い出話です。
 医療従事者への「付け届け」という、今では考え方が厳格化されているテーマを扱っておりますが、当時の時代背景と、一人の医師としての葛藤、そして患者さんの純粋な厚意の物語としてお読みいただければ幸いです。
 (約2,800字ですので、4分40秒~7分ほどでお読みいただけるかと存じます。)

#ぼっち医の備忘録
#花嫁修行
#香り
#贈り物
#百貨店
#研修医
#社会人1年目のわたしへ

 

金ピカの巨塔

 「患者さんからの付け届けはもらわない、現金の心付けなど、もってのほか。」
 という医者が稀少だった時代に、私は医師免許を取得した。

 「先生」と呼ばれ始めたばかりの私が御世話になった学派は、金権政治に抗い、大学内のヒエラルキーからはずれるのも意に介さない、誇り高き一派だった。

 当然、患者さんからの付け届けなどはもってのほか。

 そんな清廉潔白を良しとする空気の中で、若き日の私は、「正しい医者」であろうと肩を張っていた。

 私は、今でも、診療代以外の付け届けをいただくことには抵抗を感じるが、当時は、患者さんに不公平感が生じることを病的なまでに恐れていた。

 大学内のヒエラルキーの頂点は教授である。

 当然ながら、付け届けの宛先の多くは、教授であった。今はどうか知らないが、少なくとも当時はそれが当たり前だった。

 そのヒエラルキーからはみ出しかかっていた私の学派の先輩たちは、みな大学以外の病院で活躍されていた。

 私の師事した科長は、学派の信念を継承する大ベテランの医師だった。

 科長がなにごとも清廉に徹する方針を貫いていたため、科内には付け届けを受け取らない暗黙の了解が浸透していた。
 まして、まだ経験の浅い私のもとに、そのような話が来ることはないはずだった。

 しかし、実際には「上司の先生には言わないでおきますから」と、いろいろ持ってこようとする患者さんや御家族がいて、いつも相手を傷つけないよう失礼のないよう断るのに四苦八苦していた。


診察室に満ちた「都会の香り」

 そんなある日のことだった。

 定年退職を機に移住してきたものの、諸事情で都会に戻ることになったご夫婦が、最後の診察にやってきた。

 奥様が両手で抱えるほどのつづらのような箱を診察室のドアにぶつけないよう、えっちらおっちら持ち込んで来た。
 
 「今度は何・・・」

 心の中で頭を抱え、断る口上を考え始めたとき、目の前でつづらの蓋がはずされた。

 刹那、診察室の空気は一変した。

 箱の中から立ちのぼる上質な布地の匂いと、蓋の裏から広がる、都会の百貨店特有の華やかで、少しかしこまった香り。

 出来合いの服しか知らない私の前に、見たこともないオーダーメイドの世界への入り口が、「お仕立て券」と書かれた小さな賞状のような招待券とともに現れたのだ。

 オーダーメイドで仕立てるだなんて、まさか自分の人生に、そんな場面が用意されていたとは思いもしなかった。

 「先生が、お金も品物も受け取らないのは、ようーく分かっておりますよ、わかってますけどね、でもね、百貨店でこれを見たとき、絶対に先生に似合うわあと思って、気がついたら買ってしまっていたの。返品もできないのよ。最後だから、是非受け取って・・・」

 蓋に隠れてしまいそうなほど華奢な奥様から繰り出される熱弁の勢いといったらない、完全に診療が止まってしまった。

 お待ちになっている患者さんがいるので本当に申し訳ありませんが・・・、と平身低頭お願いして次の患者さんの診察に進んだ。

 改めてお話ししようと診察室を出ると、外来総合受付から声をかけられた。

 「先生が最後だからと言って受け取ってくれたけど、診察室に置く場所がないみたいだったからこちらで、って」
 奥様は受付に預け、うれしそうに帰っていってしまったという。

 私がいつも間に合わせの服ばかり着ているのを見て、「まだお若いのに、惜しい、惜しい」と言ってくださっていたそうだ。
 その言葉は、私を「医師」としてだけでなく、一人の「若者」として、慈しむように見守ってくれていた証だった。

 装う楽しさも忘れて仕事一筋に働いていた自分の姿が、ふと、ひどく味気ないものに思えて恥ずかしくなった。

 それと同時に、張り詰めた現場でいつしか硬く張っていたものが、春の陽だまりに触れて溶かされるような感じがした。


包み込まれていた気配

「精神科ですごい贈り物があった」

 うわさは、私の報告よりも早く科長や院長の耳にも入ったようだったが、誰からも何も言われなかった。

 いただいた生地は箱ごと、寮の部屋の祭壇(と勝手に呼んでいた備え付けの棚)に、お供えもののように置いていた。
 しかし、都会の百貨店まで行って仕立てを頼む気持ちのゆとりがないまま、ついに、仕立券の有効年月を過ぎてしまった。

 幼き日、母が、「もらい上手になりなさい。」と言っていたのを思い出す。
 もらえるものはもらっておけ、という意味ではなく、贈ったり贈られたりすることで円滑になる人付き合いを大切にしなさい、という想いを言葉にした口癖だった。

 「もらったとき、次に会ったとき、そして何かの拍子で話にでたとき、の3回、お礼を言いなさい。」とも言っていたっけ。

 何かに追われる日々に、母の言葉はすっかり抜け落ちていた私。

 今になって、3回目のお礼を述べている気分になっている。

 めぐり巡って、寮の引っ越しのあとの院内バザーの目玉商品として、箱入り生地は巣立っていった。

 当時の田舎では、女性は花嫁修業の一つであった洋裁の心得のある人が少なくなく、生地から服を仕立てられる玄人顔負けの方々が其処彼処におり、上質な生地は大人気だったと聞く。

 結局、私が高級な生地に身を包むことは一度もなかった。

 けれど、あの箱が祭壇にあった数年間、私は間違いなく、患者さんの厚意という頼もしい何かに背中を守られながら毎日を戦っていたのだ。

 仕立てられた一着より、全身を温かく包み込んでくれた想いが、何倍も心強かったと、年を追うごとに確信をもって言えるようになった。

 なぜなら、もう「若者」とも「惜しい」とも、誰も言ってくれなくなった今になってもまだ、包み込まれていた気配がかすかに残っているから。

 頑なだった私が、患者さんからの厚意を例外的に受け取ることになった――そんな珍しい思い出を、備忘録として残しておくことにした。

 

【あとがき】

最後まで読んでくださってありがとうございます。
 規則や正義感で自分を縛っていたあの頃、患者さんからいただいた「生地」は、単なる品物ではなく、私という人間を全肯定してくれる「守り」のような存在でした。
 結局、その生地が私の体に合わせて裁断されることはありませんでしたが、今こうして筆を執ることで、ようやく、母の言っていた「3回目のお礼」を言えたような気がしています。

 次回は、ぼっち医うさぎが失った超嗅覚のお話です。


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