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「歩ける」という障害――「もう、寝たきりにしてやってくれ」と呟かれた医師の私にできること (約2,700字 4分30秒~6分45秒)

【読者の皆様へ】
 今回のお話には、介護現場の過酷な描写が含まれます。
 冒頭の御家族からの呟きは、制度の狭間で追い詰められた悲鳴でした。
 執筆の意図は、誰かを責めるのではなく、制度の矛盾と、現場の葛藤を浮き彫りにすることにあります。
 ご自身の体調や心の状態と相談しながら読み進めていただければ幸いです。

注︙見出し画像の生成にAIを使用しました。

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#要介護認定
#認知症介護
#いまあなたに伝えたいこと

 

「歩ける」という名の「障害」

「もう、寝たきりにしてやってくれ・・・!」

 絞り出したような御家族の注文に、私は思わずうつむいた。

 書くのも馬鹿らしいが、医師に「寝たきり」を作る権限などない。

 決して悪意から出た言葉ではない。

 文面に起こすといかにも問題発言じみているが、我が国の高齢者医療と福祉の現場で、どうにもならない状況に追い込まれた介護家族の悲痛な叫びである。


介護保険の核、介護度の認定。

 昭和の時代、私の祖父母のときもそうだったが、「老人の世話はカネ次第」という剥き出しの現実があった。

 「高齢者介護」と言葉に配慮をかぶせる現代は、介護保険制度があり、どういうサービスをどれだけ受けられるかは「要介護度」という数字に支配されるようになった。

 私が医学生の頃、のちの介護保険制度に至る議論が始まった。

 しだいに白熱する議論の渦中にいた国会議員の講演会に、実習で御世話になっていた施設長のカバン持ちで行ったことがある。

 施設長は、のちに「要介護度」と呼ばれることになるサービス量を決める基準の認定方法がカギになると主張し、議員と鋭い意見を交わした。

 当時の私は、はずかしながら、連日続いていた汗だくになる入浴介助実習から解放された午後を、講演会場の快適な空調で癒すことに夢中で、ふーん、そんなもんか、くらいにしか考えていなかった。

 

介護度の認定とブラックボックス

 医師になってしばらく経ち、介護保険が始まると、主治医意見書を書く立場になった。

 主治医意見書は調査員の報告書とセットで判定機械(ブラックボックス)に入れられ、弾き出された要介護度が審査会にかけられて決定される。

 しかしここで、審査会が1件の議論にかけられる時間は極めて限られていることはあまり知られていない。

 結果、少なくない案件が、ブラックボックスの出した要介護度のまま認定され、介護サービスの質と量に直結する。

 事実を淡々と書くしかない意見書だが、最後にある備考欄の余白に、どれだけ配慮されるべき生活背景・状況を盛り込めるか、主治医の腕の見せ所である。
 そこに有用な情報が記されていれば、審査会のメンバーはそれを口実にブラックボックスの出した要介護度に異を唱えて変更できるのだ。

 逆に、ほとんど何も記されていないと、議論の余地がなく、ブラックボックスの結論のまま認定されてしまう。
 使われなかった時間は、熱心に情報を記されてきた意見書のケースの議論にあてられる。

 ちなみに意見書は、具体的なサービス内容の参考にもされるから、主治医の責任は大きい。

 人気のある医師は多忙を極め、意見書をじっくり書くゆとりがないジレンマを抱えていることがある。
 逆に、あまり人気のない無愛想な医師が、悩ましい現場が目に浮かぶような「アツい」意見書を書いてくることもある。

 医者は見かけによらない。

 

ブラックボックスの中身

 特におそろしいのが、この「ブラックボックス」には独特のクセがあることだった。

 たとえば、徘徊の有無を問う項目。

 徘徊ありと書くと、ブラックボックスは「徘徊がある=歩ける=身体機能は維持されている」と判定し、サービスが少ししか利用できない軽い要介護度を打ち出してきた。

 つまり、機械の目は「徘徊」を「元気な散歩」としか認識していなかった。
 一方、現場の目には、それは「目が離せない地獄」にほかならない。
 徘徊があれば、危険回避や見守りに要する労力は、寝たきりの方の何倍にもなる。

 ブラックボックスの「数字上の元気さ」と現場の「絶望的な疲弊」の大きな乖離が、家族を奈落へ突き落とす、悲劇のしくみが隠れていた

 

「寝たきり」を求める悲劇

 主治医意見書とセットでブラックボックスに入れられるのが、調査員の報告書である。

 調査員が本人に会いに来ると、しばしば、はりきった本人が、
(あれもできます、これもできます、大丈夫です、ボケてなんかいません……)
などと精一杯、取り繕う。すると、
(じゃあ介護サービスはほとんど必要ないですね)
となってしまい、少しの介護サービスしか利用できない要介護度になってしまう。

 少ない介護サービスでは、自宅では看きれない。
 では、施設に入る、といっても、重い要介護度に認定されなければ入所は断られる。
 自宅にも施設にも行けず、社会的入院となる。

 国は医療費を抑えるために高齢者の社会的入院を問題視し、診療報酬の改定のたびに、長期入院を締め上げてきた。
 しかし、いくら締め上げられても国の利益誘導に乗り切れない病院は、現場に早期退院の圧力を転嫁せざるをえなくなっていく。

 そして、現場の医師やケースワーカーは家族と一緒に眉間にしわを寄せてオロオロしているのである。

 その流れの中には、介護を受ける本人の意思などないに等しい

 冒頭の「受けられない注文」は、「寝たきり」なら重い要介護度が得られて、自宅でも施設でも選び放題になるのに、という、心の叫びである。
 本人と家族の生活を守るための、最後で最悪の「裏技」を求めるような、悲痛な叫びである。

 

認知症を治せない医者にできること

 行き場を失った高齢者は、やがて転倒や骨折、肺炎を経て、皮肉にも注文どおりの「寝たきり」へと向かっていく。
 そんな悲劇を指をくわえて待つのは、医者の仕事ではないはずだ。

 認知症をすっきり治すほど、医学は進歩していない。
 目の前の家族を救えない現実に、無力感に囚われることもある。

 けれど、医学が認知症を克服できるその日まで、私たち医師は、やるせない思いを意見書に込め、戦い続ける。
 それが、あの悲痛な注文を断る医者の、せめてもの責務だと思うのだ。

 

あとがき

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
 
通知される要介護度に、私たちは何度ため息をついてきたでしょうか。
 主治医は、意見書のすみにある備考欄に、介護者の涙や、夜中の足音を、専門的な記述に換えて書き込めます。
 審査会で審査する者も、意見書に込められた想いを武器に、限られた時間の中で戦っています。
 認知症との果てしない戦いの中、主治医は、本人家族の幸せを守る盾になることを願って、今日もペンを走らせています。


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