凍てつく雪の夜――私が頼った灯りの正体 (約3,900字 6分30秒~9分45秒)
読者の皆様へ
ストーカー行為を含む内容につき、同様の被害経験や対人関係に不安をお持ちの方は、無理にお読みにならないでください。
注︙人物の特定を避けるため、一部改編しています。見出し画像の生成にAIを使用しました。
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#ぼっち医の備忘録
エネルギーに満ちあふれ若く頼もしいスタッフ
診療中に、受診者から理不尽な要求を迫られることがある。
「住まいを教えて」とか、
「睡眠薬を大量に処方して」とか、
「五年間の病気休暇が必要と診断書に書いて」
などなどである。
やんわり断ったつもりでも、逆上されたり凄まれたり脅されたりすることもあった。
が、そんなとき、なぜかすぐに診察室にやって来て介入してくれる俊敏なスタッフがいた。
まるで、受診者とのやりとりをすべて聞いていたかのような的確な介入をしてくれるので、周囲からのおぼえもわるくないスタッフだった。
私は、なんて「いい人」なんだろう、と、その若いスタッフを頼もしく感じていた。
ロッカーの違和感
異変は、職場に置いていた私用の携帯電話から始まった。
退勤しようとロッカーを開けて携帯電話を手にしたときに違和感を覚えた。
いつも私が置く場所よりも少しだけ奥のほうに携帯電話が動いていたのである。
そのときは気のせいかと思ったが、ある日、ついに正常バイアスの限界を超える事が起こった。
切っておいたはずの電源が入っていたのだ。ロッカーの中で電源が勝手に入るはずがない。
何より、私のではない「におい」が、かすかに携帯電話に付着していたのだ。
なぜか私のロッカーだけ鍵が故障していて、かけられなくなっていた。
けれど、心理検査室の奥の、そのまた給湯室の奥。
どん詰まりにあるロッカーまで部外者が入り込むとは考えられなかった。
誰もが鍵をかけずに使っている、のどかな空気を乱すほうが怖かった。
私は沈黙を選んでしまった。
凍てつく明け方の視線
ある寒い冬の明け方近く、というより未明というべきか、カーテンの向こうは朝の予感がほんのり漂い始めたばかりで、まだ薄暗かった。
私の寮には、収納を兼ねた寝台が置かれていて、そこに小さな電気毛布を持ち込んで寝ていた。
その日の明け方は、枕元がうっすらと霜で白くなるほど冷え込んで、目が覚めた。
吐く息は白く、電気毛布で足腰だけ温めても鼻と耳が氷のように感覚を失ってしまっていて、二度寝したくても、いったんあたたまらないと眠れそうになかった。
電気毛布のぬくもりをガス暖房の前まで引き摺って連れて行き、どうにか着火に成功した。
あとは、ガス暖房からの温風を待つだけとなった。
暖まったらトイレにも行こうっと、などと考えていたとき、なぜか、ふと、カーテンの隙間から外を覗いてしまった。
私の部屋は寮の2階にあり、カーテンの外は、洗濯物を一列干すのがやっとの手狭なベランダだった。
洗濯機は室内にあったが乾燥機がないので、ベランダに干せるだけ干しては、帰宅したときに乾いていれば取り込む、という、ざっくばらんな家事で済ませていた。
雨続きだと何日も干しっぱなしだった。
雪が何日も続き、外の衣類はパキパキに凍りついているのはわかりきっていたので、洗濯物を取り込もうと思ったわけでもない。
なぜそんなことをしたのか今もって不思議だが、本当に、なんとなく、カーテンの隙間から外を覗いてしまったのだった。
今、これを書きながらも、あの瞬間を思い出すと鮮明すぎてゾッとする。
ベランダの手摺りの向こう、ひざ下まで埋まるほどの雪の中、こちらを見上げるように立っていたのは―
―いつも頼りにしていた、あのスタッフであった。
無意識の奥に封印していた記憶
反射的にカーテンを閉じてしまった。
えっ、なに、なんなの、ありえない・・・
ありえないこととして無意識の奥に押し込んで否定していた記憶が頭をもたげた。
あのとき、あの携帯電話に付着していたかすかなにおいが誰のにおいであったか、という、絶対に認められない恐ろしい事実。
それが、くっきりと像を結んで目の前に突き付けられたのだ。
頼もしい灯台と思い込んでいた光は――
―雪原に立つ監視塔のサーチライトだったのだ。
目こそ合わなかったが、寮じゅうに響き渡るほどのガス暖房の音と、それに続いたカーテンの動きに気がつかなかったはずがない。
その気になれば1階の手摺りと雨水管を足掛かりに2階へ上ることなど、エネルギーに満ち溢れた俊敏な若者にとっては、造作もないことだ。
掃き出し窓の鍵はかけてあるはず、と自分に言い聞かせながらも、再びカーテンの隙間を覗いて施錠を確認なんてできるはずがなかった。
ただただ、震えていることしかできなかった。
ガス暖房の盛大な音で室内はあたたまってきたはずなのに、ガチガチいう歯も、手の震えも、止まらなかった。
トイレに行くのも忘れ、ただただ、震えているしかなかった。
ひとつしかない2階への階段
どのくらい時間がたったか、サク、ザク、・・・ザクッと雪の上を音が近づいてきた。
音は、ベランダの手摺りを越えなかったかわり2階へあがる階段の入り口のほうへ回り込み始めた。
壁越しの視線に気づかれないよう、そっと毛布を踏み滑らせて辿り着いた玄関の施錠を確認すると、少し震えがおさまってきた。
2階への階段はひとつしかない。
安普請な寮のこと、階段を上がる軋み音は絶対に消せないはずだ。
あんなに朝までが長い日があったろうか。
歯の震えは食いしばれても、手のこまかい震えは、なかなか止められなかった。
そして訪れた朝の光
新聞配達が表を通っていった。
カーテンに一筋の朝日が差し込んだ。
鳥たちの朝一番が戻って来た。
階段からもベランダからも、ついに足音は上がって来なかった。
冷え切った缶コーヒーを静かに開栓すると、いつもの香りにほっとしたのか、急に眠気に襲われて記憶が途切れた。
再び目覚めたとき、時計の針は出勤ぎりぎりの時刻を指していた。
ほっとしたのと裏腹に、今日はいったいどんな顔をして会えばいいというのか、答えを準備できないままに、ゆっくり階段を一階へ下りていった。
階段の二段目の雪までついていた見慣れない足跡を踏まないようにして、まぶしい銀世界の中へと出勤した。
しかし、その日、そのスタッフは、ついに出勤してこなかった。
行かないで!
異変を知ったのは翌日のことだった。
一般病棟の入院者名にスタッフの名を見つけたのだ。
「昏迷、失禁」と書かれ、精神科コンサルト(診察依頼)予定とされていた。
一般病棟からの診察依頼は一番年下の私がまず行くことになっていた。
いつもは「早く来てください」としか言わない一般病棟の看護師たちが、その日は口々に、
「先生は行かないで!」
と、止めてくれた。
なんでも、以前より一部の職員から行動を怪しまれており、私のロッカーを漁っていたところを見つかって、問い詰められた最中に、気を失ったように崩れ落ちたのだという。
しばらく後、その病棟に別の患者さんで呼ばれて行った。
あのエネルギーに満ち溢れて頼もしい「いい人」だったスタッフは、とっくに退院して名前が消されており、病院も退職していた。
だいぶ経ってから、別の病院で働き始めていることを風の便りに聞いた。
当時はまだ「ストーカー」という言葉は一般的ではなかったのか、聞いた記憶がない。
まして規制する法律など皆無だった。
誰かに相談しようにも、「気を持たせるほうが悪い」と言われかねない御時世だった。
だからか、警察に通報することも思い浮かばなかった。
「ストーカー」という「言葉」が知れ渡ったことが、概念と恐怖を社会全体で共有する第一歩になった。
容姿も性別もいい人かどうかも関係なかった
人の心が迷い込む執着という迷路には、誰もが被害者にも加害者にもなりうるという、底知れぬ闇がある。
そこでは容姿も性別も関係なかった。
なぜなら、私の容姿を知る者からすれば百人が百人、私がストーキングされるなんて想像すらできない。
当時、仮に私が誰かに相談できていたとしても「気を持たせるほうが悪い」どころか、「勘違いだろう」もしくは「自意識過剰」と一笑に付されたに違いない。
それほどに特異な容姿をもつ私にまでもふりかかってきたということは、
対象の魅力や容姿といった次元を超えた、執着する側の飢えによって引き起こされるものである
という証左に、ほかならない。
もっと言えば「いい人」かどうかも一切、関係なかったのだ。
ひとに詳細を語れるようになるまで、随分と長い時間が必要だった。というか、ここまで詳細な体験を明かすのは、ここに書くのが、実は初めてだ。
備忘録は忘却に備える記録と書く。
ここに載せておけば、いつか私がいなくなった後でも、ストーキングが死語となる未来まで、あの恐怖が忘れられずに残るかもしれない。
備忘録たる所以である。
あとがき
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「自意識過剰だと思われないか」「勘違いだと笑われないか」。そんな恐怖が、私に長い間この記憶を封印させてきました。
けれど、執着という闇は、相手の容姿や魅力とは関係なく、執着する側の「心の飢え」によって引き起こされるものです。
独りで抱えるには重すぎる記憶も、こうしてしるしておくことで、いつか同じ恐怖の中にいる誰かの「小さな灯り」になれるかもしれない―― そう願って、初めて詳細を綴りました。自分自身の治療でもあったかもしれません。
いまだに笑われる怖さが拭えないため、コメント欄は閉じさせていただきます。
