かわいい無患子の便り――長崎、あこがれの二人がいた街 (約3,500字 5分50秒~8分45秒)
モダンで豪奢な長崎駅。
降り立った瞬間、空気が変わった。
世界の風に吹かれてきた街だからなのか――
あこがれのふたりがいた街だからなのか――
博多弁がピリッとくる明太子なら。
しっとり芳るカステラが似合う長崎弁。
どこかやわらかで味わい深い雑踏を「さるく(歩きまわる)」こと十数分。
駅の洗練を忘れるほど、昔ながらの目まぐるしい交通の要衝に行き着いた。
中央橋バス停。
細い入り江と小高い丘の、坂のまち・長崎。
そのすみずみまでを繋いでまわる無数のバスに、色とりどりの路面電車。
乗り継ぐ市民と旅人で混み合う中央橋。
膝と腰にわけありの私は、その行き交う流れの岸辺にしがみつくようにベンチに逃げこむ。
バス停にベンチは3つしかない。
けれど、満席になる暇などない。
続々とやって来るバスの群れに、乗るべき系統が紛れ込んでいないか――
誰も彼も、右を見つめ、来るバス来るバス、行き先表示を読み取るのに夢中で、ゆっくり座る余念などないのだ。
数珠繋ぎになってのびていくバスの列。
最後尾が交差点の中にまで差し掛からないよう――
乗降客は、降り/乗りを急ぐ。
先頭になるバスは後続を気遣って、標柱よりも一台分ほど行き過ぎてから急ぎ停まる。
その一台分の道程すら難儀そうな御老公がいた。
ベンチから杖をたよりに腰を上げようとするや、サッと手をあげて運転手に知らせる人、スッと肩を貸し出す人。
乗車扉が開ききるまでには、名も無き助さん格さんが左右をささえていた。
恐ろしく慌ただしいバス停なのに、パニックは無い――有るのは、さりげない気づかいの連鎖。
見ず知らずを繋ぐ思いやりは、微笑みの数珠繋ぎとなって、どこまでものびていく。
そんな皆と一緒になって右を向いて待っていると、かすかに胸が高鳴り、足がソワソワする。
このデジャビュ―― そうだ、リレーでバトンを待っているときの、あれだ。
この街では、ちゃんぽんの由来しかり、西洋医学の養生所しかり、思いやりのバトンリレーが、「あの日」を超えて、今も続いているのかもしれない。
ベンチの私は、やって来るバスより少し後ろへ視線を泳がせる。
運転手さんが余計な気をまわさずに済むよう「別のバスを待っている」、私なりの気遣いのつもり。
スマホに目線を落としてしまったら、不意にくるバトンも落としてしまう、そんな気がしていた。
右向きの顔ぶれが一巡したころ、ついに私の番がやって来た。
長崎バス・系統一番。
リュックを前に抱え直し、膝にこないよう、そっと、ぴょん。
跳び乗った。
すぐさま扉が閉まり、座席にお尻を滑り込ませるや、背もたれに押しつけられた。
目指す先は、八十余年前の「あの日」、静かな農村に押し寄せた重傷者たちを、村をあげて介抱したという滑石(なめし)の地。
みずからも被爆していたにもかかわらず、村人たちは、着の身着のまま逃げて来た市民に、物資を分け与え介抱したと伝え聞く。
その中に一人の医師がいた。
海軍の軍医、中佐。
予備役だったし、開業もしていなかった。
なのに、突然の災厄に襲われ文字通り必死に辿り着いた人々を目にするなり、即座に自宅を臨時の救護所として開放し、できうる限りを尽くしたといわれる。
その覚悟に想像が追いつかない。
バスは爆心地の横を通り過ぎ、チンチン電車の終点も過ぎ、電気軌道なら苦しいであろう坂のふもとまで来ると、息つぎするようにギアを落として、うなりながら登りはじめた。
滑石の入り口で降りた。
いつか落ちていきそうな深い青空、今のところ重力で留め抑えられている私。
延々と続く滑石の坂は、桜の香る季節でも額に汗が浮きはじめる。
ハンカチで汗を拭こうと立ちどまった、ちょうど坂の半ばの陰に、使い込まれたベンチが置かれていた。
いつからだろう、気がつくと座れる処を目が探している。
それにしても、なぜ坂の上でなく入り口で降りてしまったのか……後悔あとの祭り。
膝をさすり腰をのばしていると、いつの時代も変わらない無邪気な、はしゃぎ声。
顔を上げた目の前の校庭では、横並びのブランコが、見ていてハラハラするほど競い合わされ、キーイ、キーイ、もう限界だよと言わんばかり。
真新しい公園の広場には、よちよち歩きを褒められて得意気にバンザイする幼子を、両手で迎えて「たかい高い〜♫」と抱き上げる家族連れ。
八十余年前に日本中が夢見たであろう穏やかな時間が、まぶしい陽射しのなか、ゆったりと流れていた。
往年の気配をかすかに感じられるのは、「大神宮」へと続く古い石段と社叢を抜けるそよ風くらいだろうか。

古来の表記は「太神宮」。
大きくなくても凛とした佇まい。
駐車場がないのは、この静寂を守るためかもしれない。
バスで来てよかった。
……。
私は何の火傷も負っていない。
膝と腰を言い訳に、空調の効いたバスに揺られて来ただけだ。
燃えさかる瓦礫の街から大やけどを負ったまま歩きづめで焼け出された人びと――その切れ目ない惨状を目の当たりにしたであろう中佐と村人たち。
――自分の軽さに少しだけ、居心地の悪さを覚えた。
せめて次に来る時は、膝と腰をもう少し良くして、路面電車の終点からだけでも歩いてみよう。
そしてもう一人。
私が思春期の頃、古い知人が、「太神宮」のそばに住んでいた。
当時の私にとって、唯一の心の避難場所だった文通相手。
直接会ったことは一度もない。
けれど、封を切って便箋をひろげれば、聡明で慈愛にあふれた薫りが私を包みこんでくれるのが、わかっていた。
今より「ぼっちの闇」に慣れていなかったじぶん、彼女からの手紙は、闇の底まで届く希望の光だった。
一通の返事を書き上げるまでに幾たび書き直したことか。
ボツにした便箋で屑入れが溢れ出すころには、溢れそうだった尖った気持ちはすっかり凪いで、やさしい自分を取り戻していたものだ。
別れは突然だった。
書いた手紙が「転居による宛先不明」で戻ってきた、その日から音信不通になった。
以来、今日に至るまで、どこでどうされているのか、生きておられるのかどうかすらも、わからない。
数十年が経った今。
あのころ何度も書いては想いを馳せていた宛て先のあたりに来てみた。
会えるはずもない。
感謝を伝えるすべもない。
そんなことは、わかっている。
私はただ、あの日々、私を何度も救ってくれた手紙が、どんな世界で綴られていたのか知りたかっただけ、そう、それだけだ。
――大規模な再開発がおこなわれたのだろう。
新しい集合住宅を中心に、色鮮やかな家々が建ち並んだそこには、輝くせせらぎも蝶の舞うお花畑も子犬の小屋も柿の木の一本さえも、見当たらなかった。
ただ、山の稜線の輪郭だけが、色褪せた写真と示し合わせたように「ここで間違いないよ」と告げていた。
彼女が生き、会ったこともない誰かに贈りつづけてくれた、あの滑石の馨りに、もう一度だけ、一瞬でいいから、包まれたかった、ただ、それだけなのに――
私の憧れの滑石を知っているのは、いよいよ「太神宮」とその森だけとなった。
それもそのはずだ、セピア色の思い出には、太神宮の森のほかには、川と畑と小屋と木々、あとは山の稜線を境に広い空しか写っていなかったのだから。
けれど、確かに、ここには私の尊敬し敬愛する人が二人もいたのだ。
こんなに遠くの、小さな、小さな集落に。
何かの縁を感じてしまうのを禁じ得ない。
――お参りした。
木漏れ日と、林を抜けるさわやかな風。
聞こえるのは、木々の葉擦れ、小鳥のさえずり、そして落ち葉を踏む音だけ――
――どこまでも静かだ。
お参りをすませて、帰ろうとした、そのとき。
ポサッ
――?
ちいさな、丸い、かわいらしいものが天から降って来た。

なつかしい木の実だ。
皮をむくと、羽根つきの球になる、繋ぐと数珠にもネックレスにもなる、名前は何だっけ・・・
皮をむくと・・・ムク・・・
検索画面に打ち込んで手がとまった。
――そうだ、ムクロジ。えっ、漢字があったの。
「 無患子 」
子が、患わない。
難病の子どもたちをかかえる私にとって、その名は何よりの贈り物に思えた。
大先輩からの静かな叱咤激励か。
彼女からの数十年越しの返信か。
そっとティッシュにくるみ、ポケットに入れて帰路に就いた。
長崎は今日も快晴だった。

