見出し画像

文学の効用


はじめに


文学と言うと、文学作品についての学問を指しているように思われる。

しかし文学部には歴史学、哲学、言語学、心理学なども含まれる。

学問は役に立たないからこそ尊いのではなく、あらゆる学問がそれ自身で尊くもありながら、人文学も普通の意味で役に立つと思うのである。

それこそ皇室典範をとっても歴史学者の意見は聞かれるし、各国の憲法には哲学者の思想が刻み込まれている。

歴史学の知見が浸透するならば安易な政治的プロパガンダはよろよろと力を失うし、各人の尊厳が保障されているからこそ物理的に勝てっこない大企業に一個人が勝訴するのだ。

ほかにも卑近な例を挙げてみる。国民が平均してどのような言葉を話すかは「民度」と言い換えることもできようが、言語学はこれを間接的、限定的に対象にしうる。心理学はDaiGoである(ではない)。

そもそも心理学や言語学、その他の分野では実験や統計が用いられるので、文学部といってもさまざまである。

そのなかでも今日は、狭義の「文学」つまり「文学作品を対象とする学問」の効用について書いてみたい。


一、人間の感情や行動、その置かれている構造を明確に規定する


文学はさまざまな人間を描く。読者が感情移入できる登場人物もいれば、理解しがたい人物もいる。

ある行動をした結果、予想できない運命に巡り合うこともある。

文学というからには作品であり芸術だ。醜い人物も、許しがたい因果も、何かしらの美しさを放っているはずだ。

美しさために人物や筋書きに矛盾、不条理、違和感が導入されていると考えるべきだ。

あるいは読者が違和感を正当化できるならば、それを作品の欠点として数え入れることもできるだろう。

作品を読んで読者のうちに生まれる感情を、論証によって正当化ないし否定するのが作品分析の目的の一つだ(と素人の俺は思う)。

「この人物はこういう風な人物なのだ」
「だからこそその人物があの場面でこう行為するのは一貫性を欠いている」
「たいていの読者はこう読むが、違う」

こうして作品分析は、作品そのものの矛盾(矛盾自体はポジティヴでもネガティヴでもない)にも、作者の失敗にも、読者の誤読にも牙をむきうる。その逆もしかりだ。

しかし決定的に重要なのは、作品分析が共有可能な概念や論理によってなされるという点だ。

芸術としての文学作品は、美しさや印象の最大化、余韻の醸成などのために説明を省略し、あえて矛盾をむき出しにし、読者を困惑させようとする。

するとこの一節、この場面、この構成の良さが、「分かる人には分かる」で終わってしまう。

そこで背景の説明、人物の造形、レトリックを論理的に1ステップずつ説明したうえで、当該箇所を分析することで、「こことこことここをつなげればこう読めるだろ?」と説得力を増すことができる。

もちろんそれへの違和感を表明して反論することも自由である。ただ学問を称する限り、この共有可能な概念と論理を分析の道具とすることは必要不可欠だ。

そして、このような分析によって可能となるのが、「理解しがたい(誤解していた)人物、因果、構造を理解できるようになる」ということだ。

大したことないと思っていた男がスンバラしく見えるようになったり、ただの変な女性が社会の矛盾を反映させた複雑な造形として浮かび上るようになったり、この人物にこの出来事をぶつけるから劇的になるのだと思えるようになったりする。

つまり、作品分析は人物や出来事の因果、構造を明確な言語で規定することによって、それらを「なんとなくこう感じる」から「こうこうこういう理由で、美しい(醜い、悲劇的、矛盾している、温かい余韻を残すetc.)」と解釈することを正当化するのである。


一、現実の人間、社会を理解する枠組みを提供する


先の点がそのままこの点につながる。つまり文学とは現実なのだ。

どういうことかというと、実際私たちが目にし、耳にするものは環境であり人物である。

毎日ニュースに流れる高市早苗の表情と取り巻きであれ、カフェの前をあっという間に通り過ぎるベビーカーを引いた母であれ、自分自身であれ、私たちはその環境と人物を同時に見ているはずである。

その際に様々な感情が去来するだろう。とるに足らぬ微かな波であるかもしれないし、単なる凪かもしれない。

しかしそれを感じるというだけでは、なぜ私が凪を感じるのか、なぜざわめくのか、なぜ心地よいのかを必ずしも明確に理解できるとは限らない。

ここで、論理と概念によって訓練された文学的想像力が大いに役立つのである。

もちろん文学は虚構だ。しかしこれが現実の人間分析に役立つことはほとんど自明といっていいだろう。

文学の理論によってさまざまな人間、出来事、構造の類型を身に着けていると、現実の人間や社会を分析する際にも、それがどのパターンに当てはまるか判断しやすくなる。

ジェンダー的な観点からのBL、レズモノの研究に馴染んでいれば(あるいは研究自体に触れなくとも一人で作品を読む中でいろんな仮説を試していれば)、なぜテレビでオネエが男性にボディタッチするのが面白いのか、オナベが女性にボディタッチするという事象、それどころかそもそもレズが公然と出てこないのか(出てきにくいのか)について理解できるかもしれない。

つまり文学作品を分析するということは、「虚構を理解する」だけではなく「現実の人間、人間関係、社会構造を整合的に理解する」ことにも役立つのである。


一、人間の(ネガティヴに見えるものを含む)あらゆる感情や行動を有意味に捉えること、ならびに、より良い性格や姿勢を養うこと


こうして、「文学という虚構」による「現実への理解」が広がり深まるとどうなるのか。ここで文学が「美」を目指すものであるということが鍵になる。

文学は醜いものや不条理なものを描きながら美を目指す。それは、文学が美とみなされないものを美に反転させる技術である、ということを意味する。

「クズだけどこんな背景があるなら仕方ない」
「こんな人生歩みたくないけど、こんな風に生きられる人はかっこいい」

こう思うときには、現世の損得勘定や快苦の計算、世間一般的な善悪がすべてカッコに入れられ、文学という別の地平における「真・善・美」が開示されているのである。

これらは虚構内部の「真・善・美」かもしれない。しかし虚構のおかげだとしても、読者がそれらを心の内で感じたという事実は現実である

こうして文学的な眼鏡をもって他者や自己を見直してみると、自分にとって消し去りたい過去、他者の許しがたい汚点が、少なくとも文学的には筋が通っていて、その人なりの背景や理由があってそうあるのだと理解しやすくなっているはずだ。

さらに一般的な意味でもネガティヴな経験や他者の特徴が意味あるものとして捉えられるようになるだろう。

これは一般に「自己理解」や「他者理解」と呼ばれるだろうが、それは他者への寛容な姿勢につながる。

そして何より文学には素晴らしい人物も出てくる、そうでなくともクズを描くことで「善とは何か」をダイレクトにも示してくる。

そこで感じた率直な「善」や「美」は、自分が同じ状況にいなくとも、あの人のように振る舞いたいという憧れを催し、その人の内なる基準点になりうる。

そうして文学を分析することは、単に「他者や自己に対する寛容さ」を涵養するだけでなく、「自分をより良いあり方へと規定し直す努力」をも励ましてくれるのである。


おわりに


私は文学を「人間性を高めるための手段」として利用すべきだと考えていない。

文学はそれ自体で楽しめるものだし、なにかより高次の目的に従属すべきだと思わない。

ただし、結果として人間の「猛き心」を「やわらげ」、人間の仲を取り持ち、「民度」を高め、DaiGoなしでも人の心に思いを馳せる(×操作する)ことに役立つというのもまた文学の力である。

そしてそれを単なる直観的な把握によらず、概念的・論理的な手法によって公共的に理解しやすくするということが、学問としての「文学」の一つの役割だと私は思う。

文学研究の成果に基づいて、国語の教科書に採用される小説なども決まっている。

私の場合、戦時中の外国人修道士と児童の絆を当人たちが回顧する井上ひさしの小説「握手」や、苦しむ弟を助けるために安楽死を行った罪人を主題とした森鴎外の小説「高瀬舟」を授業で取り組んで初めて、個人的な文学研究としての「国語」が花開いた。

そのときの感情は今でも残っており、さまざまに触発され思い起こされ、他の文学や経験と相互に照らし合いながら、自分の価値観と行動基準を形作っていることだろう。

いいなと思ったら応援しよう!