日記+ | 立場が、緩やかに逆転する
このせり上がる感情を、どこに向けたらいいのだろう。
ぶつける先が見つからないし、万が一見つかって、このマグマのように赤黒くドロドロとしたものをぶつけたところで、きっと何も解決はしない。
トイレの個室で、私はただひたすら、この膨らむ感情を飲み込んで押さえつけることに徹している。
今にも胸が破裂しそう。
泣くな、泣くな私! 今、決壊するわけにはいかない⋯⋯!
彼女の教育係を任されたのは、今から5年前。
当初の彼女は、私の後ろをただ必死についてくるだけの、頼りなくて小さな存在だった。どちらかというと内気で、華のあるような性格ではないけれど、とても素直で仕事に対してのひたむきさは伝わってくる。
私は先輩として、彼女に様々なスキルを注いだ。日常業務のこなし方、チームでの立ち回り、案件の取り方、接客対応から、嫌味な上司のあしらい方まで、あらゆることを教え込んだ。
手をかければかけるだけ、彼女は成長した。
教えたことを確実に吸収していく彼女の姿に感心し、また私自身も先輩として、彼女を引き上げていく時間が純粋に誇らしかった。
年齢が近いこともあり、彼女の元気がないときは外に連れ出して、積極的に相談相手になった。
私たちの関係は、このまま順調に進むのだろう。そう信じて疑わなかった。
彼女はただ、上だけを目指した。余計な社内政治やプライドに囚われることもなく、ただ純粋に、着実に。
そのシンプルで健気な仕事への向き合い方は、私だけでなく、チームや上司、誰もからも愛され、かわいがられた。
誰もが彼女を応援し、その背中を押していく。
それが、徐々に歪み始めた。
大きな案件を任されていく彼女のスピードに、いつしか私の心は喜びではなく、焦りに支配されていった。猛烈な勢いで背後に迫るその足音に、徐々に息が詰まっていく。
この世界は競争社会である。結果を出した者がすべてをさらう。 昇進すれば、それだけで周囲からの期待や羨望の目を向けられる。
彼女は、その階段をものすごい勢いで駆け上がっていった。
そして先日、決定的な辞令が下りた。
見上げる立場になったのは、私の方だった。
彼女の昇進した役職に、ついに私は追い抜かれてしまった。
「追い越されちゃったね」
底意地の悪い笑みを浮かべながら、わざわざ近づいてきて私に放った上司の言葉は、まるでギザギザとしたノコギリの刃のようだった。
脳裏にジクジクとした傷をつけられた感覚に、私は敗北感で押しつぶされそうになる。
それでも、彼女がよく頑張っていたことは事実だ。沈んだ気持ちを無理やり起こし、彼女に「昇進、おめでとう」と労いの言葉をかけた。
「はい、嬉しいです」
当然の権利を受け入れたような、真っ直ぐな瞳で彼女はそう返した。
その瞬間、ドロリとした黒い感情が私を覆い尽くした。
「ありがとうございます。先輩のお陰です」
そんな一言があったらまだ救われたのかもしれない。
しかし、彼女の言葉には感謝の欠片もなかった。
喉の奥からせり上がる屈辱で、吐き気がした。
(その昇進、一体誰のお陰だと思っている。)
「⋯⋯ちょっと、席をはずすね」
私は平静を装ったまま、早足で女子トイレの奥の個室へと駆け込んだ。
重い扉を閉め、鍵をかけた瞬間、過呼吸気味の声が漏れ出しそうになり、慌てて口元を両手で強く覆った。
視界が涙で歪んでくる。
泣くな。泣いたら、本当に私の負けだ。
認めてしまうことになる。
私が彼女に教えたあらゆるスキルは、すべて彼女が私を飛び越えていくための跳躍台に使われたということに。
悔しい。すごく惨めだ。
けれど、何よりも辛いのは、彼女のあの真っ直ぐな努力と成果を、心の底から憎いと思ってしまっている、自分自身の「醜さ」だった。
奥歯をギリギリと噛み締め、呼吸を落ち着かせようと目を固く瞑った。
「私の役目は、終わった」
脳裏に、ふとそんな言葉が浮かぶ。
まるで子育てのようだと思った。
自分で歩けるようになった子どもは、いつか親の手を離れ、親の想像もしなかった遠い場所へと自ら走っていく。それは一人の人間の、極めて正常で、喜ばしい自立の姿。
少し、腑に落ちた気がした。
口元を覆っていた手をゆっくりと下ろす。
私が彼女に与えた跳躍台は、彼女を高く飛ばせるほどに頑丈だった。彼女の昇進は、私の教育が完璧だったという証明でもある。私は先輩としての仕事を、完璧に全うしたのだ。
そう思考を切り替えた瞬間、赤黒いマグマがすっと引いていくのを感じた。
彼女が私に感謝の言葉を述べなかったのは、私を軽んじているからではない。ただ、目の前の新しい景色に夢中なだけだ。上を目指す彼女らしい、素直な行動だ。
小さく深呼吸をする。
悔しさを覚えるのは、私がまだ、自分の仕事に誇りを持っているから。彼女を憎く思ってしまったのは、それだけ真剣に彼女と、そして自分の仕事と向き合ってきたから。
私は心のどこかで、彼女を良きライバルとして意識していたということだ。
だったら。
これからは彼女を守るべき後輩ではなく、一人のライバルとして、私は彼女の横に立とう。
重い扉を開けた。鏡の前で、口角を上げる。
少しだけ赤い目をした、でも頼もしい私の顔がそこにあった。
先日、我が家の観葉植物が、ついに次女(小4)の背を越えた。
(上記は、そこから妄想した私の創作小説)
水やりや日当たりを気にして、甲斐甲斐しく植物のお世話をしていた次女。
「暖かくなるとよく伸びる!」と成長を喜んでいたかのように見えたが、いざ自分の背を越されると感情が一転。すごく悔しがっていた。
彼女は「ちぢめの舞っ!」と言ったかと思うと、両手のひらを下に向けて腕を下げるような仕草で植物の周りをうろつきだした。

一通りの儀式を行うと、「ふぅ」と一呼吸。
「ママ、こうなったら天井まで伸ばすから。
支柱変えてあげよう」
気持ちを切り替えたようであった。
敗北感を飲み込み、相手の成長を認めて、さらに高いステージへと引き上げるための決意。
見事な方針転換に感心した。
これからの人生、次女自身もたくさんの理不尽や絶望、苦しい体験をすると思う。眠れずに涙する夜もあるかもしれない。
けれど、どうか腐らずに育ってほしい。
何度悔しい思いをしても自分の足で立ち上がり、前を向いてほしいと、私は静かに願っている。

今は150センチくらいまで成長。

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