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「人」を放棄しない

(メモから)
精密と表現するのは、「まるで本当に機械のように”正確なもの”をそこに見る」から。そして機械はそんな柔らかさまでを再現できないと解っているから、人としての表現”緻密”として表わされたりしている。”その中”で見た感想を元に、「私」が付ける言葉に迷いが現れている。

さらに「人でも機械でも、あんな具体的な”表情”は、観察したことはない(あり得ない)」という思いがある。現実的には人の表情に、そんな細かな、例えば今動いている時のシワ(細かさ)など表れないものだから。それなのに完全に”完ぺき”と思える描写がそこにあり、「私」は驚くことしかできないというもの。

そしてこの意識上(自覚できること)に上がらないものが、真の無意識―――身体の記憶というように一先ず結んでみた。そうであるならば、寝ている時にあのような映像を見るかどうかは特に関係なく、身体という誰もが一体持っているものがあるのだから、それは当人の”完全無意識”は確かにそこに”ある”ということ。つまり、無自覚、無意識の中には、「私」側がまったく気付いていない記録(憶)があるということ。それは個人のものであって、信じる/信じないレベルでもなく、「ある」のだということ。(この中では、”集合的無意識”のようなものは何も考えていない。まったくの個人として捉えている。または個人の範囲のものを見て表現している)

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言葉で”身体の記憶”と表現すると、どこか不思議なように感じるけども、これは純粋に分解して、「人の行いは殆ど無意識にできていること」なので当たり前の話になっている。そしてそれは気付かぬうちに積み重ねた個人の習慣によって、「「私」が知らぬうちに積み上がって出来ている」こと。だから完全に奥の方の”無意識”となっている、という内容になっているもの。自分の行為が、きっかけやその頻度などは無自覚のままに、そうすることで身に付けたそれは、「私」が意識するまでもなく、必要な場面で機能しているということを書いている。”記憶”は、幾度もくり返さなくても強烈な一度があれば、十分に深い記録として残る。

ついでに妄想を少し書くと、実際には見たこともないそんな詳細な”表情”を、なぜ何度も”その中”で見るかというのは…。もしかしたら乳児の時などの、まだそれが何ともわからない目に映るそれを、「見つめる時の様子」という目線を妄想してみた。笑ってる、怒ってるなどの言葉が付く前に見るそれは、「そんな風に感じたりするのかな?」ということを少し。それほどそれだけが「クリア」にものが見える。

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人はそれを、自覚しようがしまいが、無意識が”見て”いる限り、何かを取り込んでいないとは言えない。それだから無意識なのだから。だから環境から人は自然と”影響されて”しまうもの。それが何かによる導き・誘導などとはまったく気付けないところに、意識されないことのデメリットとでも言うべき理由があると思う。

意識している、自分がそれは「それだ」と自覚できる状態にあるのは、本当にごく一部の、今、そう思った”それのみ”で、同時にそれ以外が無意識の範囲であること。この無意識である殆どのことから、人は完全には”逃れられない”ならば、やはり「内容」は自分の意思で選択しなければいけないと思っている。人は取り込んだ何かを元に、まずそれが”基準”となってそこから物事を思考していくから。その元となる材料「(自分の中にある)初期の情報」が正しい、またはそういうものと思っていれば、それが自然な前提となり、そこから人は物事の解釈や判定をしていく。それは”正しいわけではない”と頭では解っていても、その思考をいざ変えていくということは、意外と困難であったり、自分の中でまったく気付かない塊となっていることも多い―――できるだけ多くの情報ではなくて、確かに近いものが修正が少なくて済むということになる。

物事は「良し悪しではない」ということはあるし、私は表現の中でよく使うけども、言葉にしていない段階では、当然取り込むものは選択している。他者のそれが「これが確かなんだろう」と思うことだとしても、私には個人の偏りもあり、それを以て「私」の姿勢があるので、自分による振り分けは必ずどこかの段階で行われている。

自分がそうすることと、他者の選択基準が自分とは異なること、ここに個人による振り分けの違いがあり、結果にも当然差がある。ここで、「良い悪い」でなく、人は自分が選択した結果を、自分で引き受けるということが流れとしてある。「引き受ける」という言葉が重いならば、自分に流れてくるのは選択から紐づいている結果、としたら良いか…。自分の選択は必ず自分の循環の中を回っている。

個人の循環を確かに持っていることと、他者の循環の中に引き込まれていることと。そして自ら他者のそれに好んで入っていくことと。「人」の範囲の話では、なるようになるという自然な流れではなく、「自らによってそれを起こしている」と多くで言えると思っている。

自覚できない、自然と身を置くことになっている「環境」。その環境から逃れられない状況があることは否定できなかったとして、それでも人には何度もチャンスが訪れているように思っている。ここまでを書きながら、その境界(というのか)跨ぐ時、「ここで…」ということが何度も浮かんだ。

環境が選べるならばここで先ず選択可能、その環境下にあるならば取り込み内容を取捨選択(可能)。そしてここまで何もわからずに”無意識の状態であった”ならば、その起きてくる「結果」から次への何かを選択することが可能―――というように、環境自体を選択、環境が固定ならば、呑み込み(取り込み)を選択、最後に何も気づかなかったならば必ず循環している”戻り”から次以降を選択。そうして機会は幾度か与えられていることがわかる。どれも意外と実行し続けるには根気もいる。最後へ来るほど「引き受け」はもろなので、大変な印象…、早い段階で「選択する」ことが、「意思」が活きる割合が大きいと思う。良し悪しでなく、自分ができる”場所”で選択でも可。

追)

「それすらも決まっている」

我が家の主人に言わせれば、そういう考えになるだろうと思う。書いていて「大きなところ」から見れば、それは延々と続く思考となる。そして「だからーー」というような”諦め”に繋がりやすい。放棄という表現でも良いと思う。

私は「大きなものの見方」も一応するけども、人として生きているので、それを放棄することは考えたことがない、というか、当たり前にそうして生きている。際まで行って、その結果にぶつかることは仕方ないと思うけども、それ以前の段階でそう思うことは自分に許していない。人はその時を精一杯やることしかできない。後で考えてもっと出来たというのは後の思考。その時の目一杯は、その時だけのものと思っている。

このことが、後に尾を引くことなく学びだけを残して次、また次へと行く流れに繋がっているのだと感じている。

(予定と違う内容になってしまった(笑)昨日の内容から少しズラして他のことを書く予定だったので、それはまた明日(*^^*))


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☆うみのみか☆ 応援チップありがとうございます。自然と学べる記事の提供で倍返しいたします!コメント頂ければ内容を盛り込んで記事として出力いたします。 共に学んで参りましょ~(*^^*)