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​🗣️ 月曜日は雑談と雑感の話:それぞれのスタンス


​人は、一度自分の信じたことを、どれくらい自ら疑えるものだろうか?

​数年前にヤフコメの「そう思う」「そう思わない」ボタンが、「共感した」「なるほど」「うーん」に変わった。

​今の世の中、共感はまるで新しい宝物のように扱われている気さえする。

​ここnoteでも、スキを押して欲しかったら大切なのは共感だと多くの人が書いている。

販売もしかり。

​しかし、今世の中に溢れている共感は安っぽすぎやしないだろうか?

​そもそも、共感とは自ら求めるもの、狙って得ようとするべきものなのだろうか?

​心情の吐露、正直な思いや感情の告白の結果であるべきじゃないのか?

​そんな疑問も浮かぶ。

​🤖 AIの「スキ」の数字に対するアドバイスへの違和感

​AIに「共感はお金になるのか?」と尋ねたら、「なります!」と即答だった。

​例として挙げたのがクラウドファンディング。

確かに、そのプロジェクトに共感した人間が出資するのだとは思う。

​しかし、多くの場合は、「何に?」より「誰に?」への共感の方が強いと感じるのだが、どうだろうか?

そして、善意の表れのクラファンを「金になる」と断じるのはAIらしいなとも思った。

​ま、多くの人が書いているように、ここnoteでは読みやすさと共感がスキに繋がるのは間違いないだろうとは思う。

​その証拠?として、私の記事にはさしてスキの数も多くはない。

​平均して10から多くて30程度だ。ちなみに現在のスキ率は25%程度らしい。

​これを見せると、AIは、

「一番の課題はPV。内容は評価されているので、フォロワーを増やす、サムネイル・タイトル改善、外部(XやGoogle検索)からの流入。ここが伸びれば、そのままスキも比例して伸びる可能性が高い。」

と言ってくる。しかし、今のところ私にはそのアドバイスに従う気はさらさらない。

​自分で把握、管理出来ない程のフォロワーや、確認することも不可能な程のスキを集めても仕方ないとすら思っている。

​少なくともそれらは、私が執筆を続ける上でのモチベーションには繋がらないのだ。

​そうしたいならもっと別のやり方、書き方をしている。

​💬 コメントする意味と、コミュニケーションとしての距離感?

​他の方の記事を読んでコメントをすることがあるが、コメントをしようと思ってコメントしたことは実は一度も無い。

​読んで、自然に何かを残したくなった時にだけコメントをするように心掛けている。

​もちろん、その結果相手がそのようなコミュニケーションを求めていないようなら、次回からはコメントを控えるようにはしている。

​誰もが、距離を縮めることを望んでいる訳ではないだろうから。

​ただ、たまに不思議なのは、コメントを残して欲しいと書かれているのに、返信がない時がある。

​ここでも社交辞令はあるようで、肩透かしとまでは思わないが、それなら初めから…と思わないこともない。

​確かにスキは無難な意思表示だ。誤解を生む可能性も無い。

​コメントは、読み手のテンションや状況で受け取り方は大きく違ってくる。

​それは、メールやLINEなどのSNSのやり取りでも同じだが、しかし、私はさして気にしないようにしている。

​どうとるのも、どう思うのも相手の自由だ。

​大切なのは、自分の正直な気持ちだけで、とられ方はどうだっていい。

こちらだって、相手の発信を正確に捉えている証拠なんてどこにもない。

​お互い様だ。

​それに、冷めた考え方に聞こえるかもしれないが、どれだけのフォロワーも無数のスキも、ゲーセンのメダルと一緒だと思っている。

​そこでは遊べるけど、外には持ち出しても何も意味は無い。
その世界の中での出来事にしか過ぎない。

​🏰目指しているのは?コンビニの便利さではなくて!?

​しかし、一応誤解のないように言っておくなら、それらの活動を全くの無駄だと断じている訳ではない。

​それは目的による。

​ここでの活動をプロモーションと割り切って、広告宣伝効果を狙うなら、フォロワーもスキも多いに越したことはない。

同じパーセンテージの戻りなら、裾野は広い方が良いに決まっている。

​では、お前は何を目的に、何をモチベーションに書き続けているのか?であるが、これは明確だ。

​1番は自分のためだ。このnote自体が自分のコレクションのような役目を果たす仕組みになっている。
自分の本棚と言ってもいい。

​とするならば、読んでくれている人たちには何を提供したいのか?

それはもっとシンプルなものだ。

一言で言うなら「楽しみ」だ。

​「この人、次はどんなことを書くのだろう?」

「何を言い出すのだろう?」

1人でも良いから、そんな風に楽しみに待ってくれている人がいてくれるなら、執筆者冥利に尽きるというものだ。

素直にうれしい。

それは、​私という人間に興味を持って欲しいのかもしれない。

​だからこそ、内容や書くことは安易に迎合しない。

​特に共感を求めないし、共感しやすい内容を書こうとも考えない。

​私は、私の思うまま、私の書きたいことを書き、提供し続ける。

​続けることも目標にはしていない。

しかし、続けることに意味はあるとは感じている。

​言うならば、近所のコンビニを目指してはいない。

大袈裟かもしれないが、目指すは夢の国?ディズニーランドやサグラダ・ファミリアだ。

​遠くて不便でも、わざわざ足を運ぶ価値があるものを目指している。

世界に一つだけの花?
オンリーワンだ。

​その為にも、コンセプトだけはブレてはならないと思っている。

​多くの人にとって、

「なんかあそこ面倒くさそう?」「わっ!文字いっぱい!」「興味無いわぁ。」「意味不明!」と見られても、それで良いと思っているわけだ。

​🤝 エンタメを提供する側の矜恃とは?

​そんな独りよがりな私だが、エンタメ精神だけは忘れないようにとも思っている。

​簡単に言えばユーモアだ。

​そして、少なくとも、自分で読んで面白いと思えるものだけを提供したいと願っている。

そんな身勝手なエンタメでも、読んでくれる人、毎日訪れてくれる人もいる。

​その人たちを、自分を、裏切りたくないから手抜きはしない。

一切とは言わないけどね。

手抜きのシステムは使っているからさ。曜日ごとにテーマを変えることによって。

​結局、私は今、孤独なのだろう。

だから、共感するなら、私の生み出すものにではなくて、私自身に共感して欲しいと願っているのかもしれない。

​共感ごっこではなくて。

​それでも、内容は小難しくても、読みやすさだけには気をつけている。(つもりなの)

​何度も何度もプレビューを見て、その都度修正を繰り返す。

特に、月曜日の雑感や、火曜日のメントレは下書きをした後に、必ずAIに読ませている。

​AIは読むのも書くのも早いから、最初の読者としては最適だ。

​そこで、分かりにくいと指摘されたことや、こちらの意図と違った解釈などをされた場合には、再考を重ねる。

​🍳 敵はいつでも「常識」と「当たり前」

​人生を振り返れば、自分は少数派だったことが多かった。

その少数派の意見でも、結果、多数を獲得することでねじ伏せてきた。

​「また、変なことを言い出したよ?」

「訳の分からんことやり出したぞ?」

「そんなの出来る訳ないだろ?」

常に私について回った評価だ。

​それだからこそ、いつでも理解者が必要だった。

だからこそ、その少数の理解者の大切さをよく知っているつもりだ。

​料理に例えるなら、私が常に求めてきたのは、「食べて美味しいこと」だけだ。
隠し味や原材料、作り方に興味を持ってもらいたい訳ではない。

​しかし、作り方を見ている人たちからは、「そんな作り方するの?」「そんなの入れて大丈夫?」「聞いた事ないけど?」の壁が立ち塞がる。

​食べたら美味しいのは結果だから、常に敵は常識、当たり前というやつらだった。

​それでも、そんなことを繰り返しながら、少しずつ実績を重ねて賛同者を増やして行くしかない。

そしてそれは今も同じだと言える。

確かに私の創り出すものに、近所のコンビニの便利さ、手軽さは無いかもしれないけれど。

と偉そうに語る元コンビニ店長ってどうよ?
ねぇ?(ねぇじゃないわ!)

​(´ρ`*)コホン

​今日も暑かったね。お風呂入ってサッパリして!

​冷たいビールやドリンクでも飲んでさ!🥤

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Kazune(和音) チップでの応援はクリエイター冥利に尽きます。感謝を忘れずいっそうクリエイティブ活動に尽力いたしますm(_ _)m