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“意味深”という逃避――言葉にしないことで、守っているものは何んでしょう


最近、「それぞれのペースでいいと思う」
「言葉にしなくても、伝わることがある」
といった言葉を、よく見かけるようになりました。

こうした“やわらかい言葉”が繰り返されるたびに、
私は少し立ち止まって考えてしまいます。

それは本当に「優しさ」なのでしょうか。
それとも、問いや構造から距離を置くための“意味深な逃避”なのでしょうか。


◆言葉にしない自由と、その影響

もちろん、自分の気持ちを言葉にしないことは、個人の自由です。
すべてを言語化しなければならないとは思いません。

けれども、誰かが構造を記録しようとしているときに、

「そこまではっきり言わなくても」
「もういいんじゃないか」

といった空気が流れるとしたら、
それは単なる“選択の自由”ではなく、
静かな圧力にもなり得ます。

「言葉にしないこと」を選んだ方が、
「言葉にした人」よりも“慎重”で“優しい”と見なされる構図があるとすれば、
そこにはやはり、無視できない偏りがあるのではないでしょうか。


◆「考えているふり」の投稿が増えていませんか

問いに対して、
構造に対して、
正面から触れることなく、
それでも“何か考えているふうの言葉”だけを残す投稿が、
この界隈では多く見られるようになってきました。

一見して内省的で、静かで、共感を誘うようなポスト。
ですが、読み終えても、何も語られていないことに気づきます。
あの投稿は、いったい何を伝えたかったのでしょうか。

「分かる人だけ分かればいい」
「きっといつか伝わるはず」
「今はまだ言葉にできないけれど」

そうした“意味深な言葉”は、
ときに誰も責めず、誰にも責任を負わせない空気をつくります。

そして、問いかけることそのものが、
「きつい」「過激」「正論すぎる」とされる構図を、
静かに支えてしまうこともあるのです。


◆逃げたい気持ちそのものは、否定しません

問いに傷つくこともあるでしょう。
思わず距離をとってしまうことも、当然あります。

ただ、その「逃げたい気持ち」に“意味深な語り”という形を与えてしまうと、
結果的に、誰の痛みも語られないまま、空気だけが濁っていきます。

“意味深”というスタイルは、問いから一歩退いた方にとっては便利です。
でも、それを読む側には、
「踏み込まれなかったままの問い」が、
うっすらと残り続けます。


◆最後に
この文章もまた、強い言葉を使っているかもしれません。
ですが私は、誰かを裁きたいわけではありません。

ただ、
「問いに向き合う言葉」がなかなか回らず、
「意味深な曖昧さ」ばかりが残っていく現状に、
ひとつの記録として、言葉を置いておきたいだけです。

もし、これを読んで「考えてみよう」と思った方がいれば、
それだけで充分に、受け取っていただけたのだと思います。

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